第6話:母を看取った夜から、私は看護師になった――氷室澪という女
その夜は、眠れなかった。
キレート療法の副作用か、体がだるい。それに加えて、満月が近い。あと五日。月が太るにつれて血が騒ぐ。理性の手綱が少しずつ緩んでいく感覚は、三百年経っても慣れない。
銀の毒が残っている状態で満月を迎えたら、どうなるか。制御を失うかもしれない。変身が暴走するかもしれない。考えても答えは出ない。考えるのは嫌いだ。
ベッドを抜け出し、廊下を歩く。
縁側に出ると——先客がいた。
氷室が座っていた。膝を抱え、少し丸まった背中。手には缶コーヒー。微糖。その匂いが、秋の夜の空気に溶けている。
白衣ではなかった。紺のカーディガンにグレーのスウェット。髪は束ねたまま少しほどけかけて、肩に黒い毛先がかかっている。
氷室のオフの姿を見ることは、めったにない。この女は起きている間のほとんどを白衣で過ごしている。休日でも診療所にいる。——居場所が、ここにしかないのだと思った。
俺と同じだ。
「……眠れねぇのか」
声をかけた。氷室がわずかに肩を震わせる。
「……あんたこそ」
「副作用で体がだるい」
「それ、明日先生に言いなさい。投与量を調整するから」
患者の声を聞いた瞬間に看護師の顔に切り替わる。いつものことだ。
「……隣、座っていいか」
「好きにすれば」
俺は一人分の間隔を空けて、氷室の隣に腰を下ろした。縁側の板が冷たい。足の裏から秋の温度が伝わってくる。
沈黙が流れた。虫が鳴いている。鈴虫と、松虫。重なり合う声が、夜の山に透き通っていく。
山の稜線の向こうから、月が顔を出し始めた。半月。右半分が欠けた、アンバランスな形。あと五日で、あれが満ちる。
先に口を開いたのは、氷室の方だった。
「……ねえ」
缶コーヒーを両手で包み、それを見つめたまま。
「あんた、どうしてあんな山の中で倒れてたの」
「……言えない」
「言えない、ね」
怒る気配はなかった。ただ、静かに受け取った、という感じだった。
「……私も、言えないことはあるわ」
その言葉に、何かが含まれている気がした。だが俺は追わなかった。追えば、自分の秘密も差し出さなければならなくなる。
しばらく無言が続いた。缶コーヒーを傾ける音。虫の声。どこか遠くで、梟が鳴いた。
「——私ね」
氷室が、ぽつりと言った。
「母を、ここで看取ったの」
声は低く、平坦だった。感情を排した声。カルテを読み上げるように。
「子供の頃。母は体が弱くて、何度もこの診療所に入退院を繰り返してた。宗方先生がずっと診てくれた。……最後は、ここのベッドで」
風が吹いた。山から降りてきた冷気が、縁側を通り抜けていく。氷室の髪が揺れる。
「あのベッドの横に座って、泣くことしかできなかった。看護師さんが母の手を握って、先生が心電図のモニターを止めて。——私は、ただ泣いてた。何もできなかった」
缶コーヒーを握る指が白くなっていた。
「それが悔しくて。だから看護師になった。もう二度と、ベッドの横で泣くだけの人間にはならないって」
それは、とても真っ直ぐな動機だった。だが氷室は自嘲するように首を振った。
「——でも、それは半分嘘。本当は……必要とされたかったの。誰かの命に必要な存在でいたかった。母が死んだ時の無力感を埋めるために、私は人の命にしがみついた」
言葉が途切れた。虫の声が、やけに近くに聞こえた。
「都会の総合病院のICUに配属されて、重症患者を何人も看た。入れ込んだ。のめり込んだ。重い患者ほど。同僚に指摘された。上司にも。『距離が近すぎる』って」
「……」
「付き合ってた男がいたの。同じ病院の外科医。……でも私の性格が重かったみたいで、他に女を作られた。捨てられた時に言われたわ。『看護師としては優秀だけど、人間としてはどこか壊れてる』って」
空き缶を握り潰す音が、乾いて響いた。アルミが歪む。
氷室は俺を見た。月明かりの中で、切れ長の目が揺れていた。怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「前にもあったの。ICUで担当した患者に……必要以上に感情移入して。同僚に指摘されて、自分でも気づいて、怖くなった」
ゆっくりと、息を吐く。白い息が、夜気に溶けた。
「あんたにも同じことをしてるんじゃないかって」
その言葉は、俺に向けられていた。だが同時に——自分自身に問いかけてもいた。
「だから勘違いしないで。私はただ、仕事をしてるだけ」
声は強かった。だがその強さは、鎧だ。壊れやすいものを守るために纏った、硬い殻。
俺は黙って聞いていた。
三百年、生きてきた。いろんな人間の話を聞いてきた。嘘も本当も、強がりも弱音も。——氷室の言葉は、そのどれでもあった。嘘じゃない。仕事だというのは本当だ。だが「それだけ」というのは——嘘だ。
嘘だと知っていて、指摘しない。それが、俺にできる唯一の誠実さだった。
少し間を置いて、口を開いた。
「……俺も、勘違いはしねぇよ」
氷室の肩が、微かに揺れた。
「三百年、誰かに心配されたことなんてなかったから。お前の仕事がどんだけ丁寧かは、わかってる」
毎朝の検温。包帯を替える手つき。点滴のチューブから気泡を抜く指先。俺だけ一品多い小鉢。裏庭で薪を割る俺に、黙って水と塩むすびを届ける背中。
全部、見ていた。
「——けど、無理すんな」
氷室が息を飲む音が聞こえた。人狼の耳には、その小さな音まで届く。
「お前が倒れたら、ここの患者、誰が診るんだ」
言ってしまってから、少し後悔した。柄でもないことを言った。三百年、こういう台詞とは無縁で生きてきたのに。
氷室は俺を見つめていた。月明かりに照らされた横顔。切れ長の目が、揺れて、揺れて——何かを言いかけた唇が、ぎゅっと結ばれた。
飲み込んだのだ。言葉を。
「……余計なお世話」
立ち上がる。空き缶を握ったまま。振り返らない。
数歩進んで——立ち止まった。
何かが飛んできた。肩に、柔らかいものが当たる。ブランケット。病室の備品の、少し硬い毛布。
「風邪ひくわよ」
それだけ言って、氷室は廊下に消えていった。ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかる。
俺はブランケットを肩にかけた。
氷室の匂いがした。石鹸。消毒液。それから——かすかに、缶コーヒーの微糖の甘さ。
月を見上げた。半月。五日後に満ちる月。
胸の奥で、何かが灯っていた。焚き火のような温かさ。三百年の凍土に、ぽつりと落ちた火種。
温かい。だから——怖い。
この温かさを知ってしまったら、また一人に戻った時、前よりもっと凍えることになる。
わかっているのに、ブランケットを肩から外せなかった。
「……面倒くせぇな、ほんと」
月は何も答えなかった。虫だけが鳴いていた。山の空気が冷たくて、ブランケットの温度が——ひどく、優しかった。




