第5話:きんぴらごぼうと「仕事だから」と耳の赤い看護師
入院生活は退屈だ。
三百年、走り続けてきた体を、八畳の病室に繋ぎ止めておくのは拷問に近い。
天井の染みは十七個。蛍光灯のカバーに挟まった虫の影は三つ。窓から見える楓の枝先は、日ごとに赤みを増している。——数える必要のないものばかり数えている。暇すぎて頭がおかしくなりそうだ。
だが、体が言うことを聞かない。
キレート療法は続いている。毎日の点滴で銀の微粒子を少しずつ体外に排出しているが、三百年の人狼の体に巣食った「月殺しの毒」はそう簡単には抜けない。再生能力は平常時の十分の一。掌を切れば塞がるのに三十秒かかる。本来なら瞬きの間に消える傷だ。
朝六時。
足音が聞こえる。規則正しい、やや早めの歩調。スリッパではなくナースシューズの底が廊下を叩く、小気味いいリズム。
もうわかる。氷室だ。
病室のドアが開く前に、俺は寝たふりをやめて体を起こした。寝たふりをしていると「サボるな」と怒られる。起きていると「もっと寝てなさい」と怒られる。どちらにしても怒られるなら、起きていた方がマシだ。
「おはよう。検温するわよ」
白衣。紺のカーディガン。一本に束ねた黒髪。化粧っ気のない、白い横顔。
切れ長の目が俺をちらりと見て、すぐにカルテに視線を落とす。事務的。無駄がない。
体温計を差し出される。脇に挟む。三十六度五分。昨日より〇・三度下がった。
「まだ微熱ね。今日もキレート療法、午後から先生の診察。安静にしてて」
「了解」
「本当に了解してるの? 昨日、屋上で腹筋してたの知ってるわよ」
……見られていたか。
「運動不足で体が鈍る」
「入院患者が筋トレする必要ないでしょ。傷が開いたらどうするの」
「もう開かねぇよ。塞がってる」
氷室の眉がぴくりと動いた。昨日まで残っていた腹部の切開痕を確認しようとするように、一瞬だけ俺の腹に視線が落ちる。だがすぐに逸らした。
「……とにかく、安静。いいわね」
「へいへい」
氷室が朝食のトレイを持ってくる。白米、味噌汁、焼き鮭、ほうれん草の胡麻和え。
——そして、小鉢にこんもりと盛られた、きんぴらごぼう。
隣のベッドの田村さんの朝食を見る。白米、味噌汁、焼き鮭、ほうれん草の胡麻和え。以上。
きんぴらごぼうは、ない。
「氷室」
「何」
「俺のトレイだけ、一品多い」
箸を並べていた氷室の手が、ほんの刹那——固まった。
「……栄養バランスの問題。あんたは毒の影響で体力の消耗が激しいの。ごぼうは食物繊維とミネラルが豊富で、解毒を助ける作用がある」
医学的根拠をすらすらと並べる。だが、その理屈でいくなら田村さんの慢性腰痛にもごぼうは有効なはずだ。
「別にあんたのためじゃない。仕事だから」
顔を背ける。
耳の端が赤い。
——ああ、そうかよ。仕事か。
きんぴらを一口食べた。醤油と味醂の加減が絶妙で、ごぼうのシャキシャキとした歯応えが心地いい。既製品ではない。これは、手作りだ。
「……うまい」
「……そう」
それだけ言って、氷室は病室を出ていった。
田村さんが隣から、恨めしそうな目を向けてくる。
「狼谷くん、儂にもひと口くれんかのう」
「ダメだ。俺の分だ」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
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三週目に入ると、体がだいぶ動くようになった。
再生能力は平常時の三分の一ほどにまで回復している。走れる。跳べる。ただし全力を出せば、まだ体の内側が軋む。銀の残滓が、骨の髄にこびりついているような感覚。
じっとしているのは限界だった。
俺は宗方先生に頼み込んだ。
「入院費の代わりに雑用をやらせてくれ。タダで世話になるのは性に合わねぇ」
宗方先生は丸眼鏡越しにしばらく俺を見て、穏やかに笑った。
「まあ、確かに人手は足りとらんからな。無理はするなよ」
翌朝から、俺は診療所の雑用を始めた。
まず薪割り。裏手の薪小屋に、冬に備えて丸太が積まれている。斧を振り下ろす。本気を出せば丸太を粉にできるが、力は十分の一に抑える。それでも人間の基準なら相当な速度で、薪がきれいに割れていく。
斧を振る感覚が心地いい。汗をかく。筋肉が動く。生きている実感がある。三百年、どんな町でも肉体労働で食い繋いできた。俺の体は、働いている時が一番落ち着く。
「ちょっと」
背後から、氷室の声。
「何やってるの」
「見りゃわかるだろ。薪割りだ」
「あんた、まだ患者なの」
「体は動く。じっとしてる方が体に悪い」
氷室は腕を組んで、俺を睨んだ。切れ長の目に力がこもる。
「傷が開いても知らないから」
「開かねぇよ」
「開いたら縫い直すの私なんだけど」
「そうならねぇように気をつける」
氷室は唇を尖らせて、何か言いかけ——諦めたように息を吐いた。
「……水くらい飲みなさいよ。脱水になっても知らないから」
踵を返して診療所に入っていく。五分後、縁側にペットボトルの水と、塩むすびが一つ置かれていた。
誰が置いたかなんて、聞くまでもなかった。
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水回りの修繕もやった。診療所のトイレの配管が古くなって水漏れしている。工具箱を借りて、パイプレンチでナットを締め直す。三百年も旅をしていると、この手の作業は体が覚えている。配管、電気、大工仕事——食い繋ぐためにあらゆる技術を身につけてきた。
裏庭の草刈りもやった。秋とはいえ、ススキや葛が伸び放題だ。鎌を振るって刈り込んでいく。
宗方先生は「ありがたいねぇ」と笑い、田村さんは窓から「若いもんは元気でええのう」と声をかけてきた。
氷室だけが、毎回「傷が開いても知らないから」と同じ台詞を繰り返した。だが、俺が作業を終えて診療所に戻ると、テーブルの上には必ず何かが用意されていた。麦茶、おにぎり、蒸かし芋。一度も「あんたのために作った」とは言わなかったが。
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ある日、宗方先生に頼まれて村の雑貨屋に買い物に行った。診療所から歩いて五分。小さな集落の中心にある、古い引き戸の店。
中に入ると、味噌と醤油と番茶の匂いが混ざった、懐かしいような空気が漂っていた。
「はいはい、いらっしゃ——あら」
カウンターの奥から顔を出したのは、小柄な老婆だった。背は曲がっているが、目は鋭い。白い髪を丸く結い上げ、割烹着を着ている。
「あんた、澪ちゃんとこの入院患者さんかい。まあ、男前じゃないの」
千代ばあちゃん。氷室から何度か名前を聞いていた。「千代おばあちゃんが漬けた白菜は絶品」とか、「千代おばあちゃんの糠床は三十年もの」とか。食べ物の話になると、氷室は少しだけ饒舌になる。
「宗方先生に頼まれて、味噌を取りに来た」
「味噌ね、はいはい。ちょっと待ってね」
千代ばあちゃんが奥に引っ込んでいる間、俺は店内を見回した。棚には日用品や乾物がぎっしり並んでいる。観光地でもない山奥の村の雑貨屋。品揃えは最低限だが、住民の生活を支えるには十分なのだろう。
「——はい、お味噌。信州味噌、二キロね。あと、これ」
味噌の包みと一緒に、小さな紙袋を渡された。
「干し柿。あんたにあげるわ。体に良いのよ」
「いや、俺は——」
「いいからいいから。若い子は遠慮しないの」
押し切られた。三百歳の人狼が、八十過ぎの老婆に押し切られた。
そこへ、引き戸が勢いよく開いた。
「千代おばあちゃん、味噌——」
氷室だった。白衣のまま、少し息を切らしている。先に味噌を取りに来た俺を見て、固まった。
千代ばあちゃんが、花が咲いたように笑った。
「あらー、澪ちゃん! この彼氏さんがね、味噌取りに来てくれたのよ」
「彼氏じゃないです」
即答だった。顔が、耳の先まで赤い。
「ただの患者です。たまたま先生に頼まれただけで——」
「まあまあ、いいじゃないの。若い男の人に買い物頼めるなんて、澪ちゃんも出世したわねぇ」
「違います。全然違います。千代おばあちゃん、変な誤解しないでください」
氷室が真っ赤な顔でまくしたてる。俺は味噌の包みを黙って差し出した。
「……面倒くせぇ」
口ではそう言った。だが——頬を掻く自分の手が、妙にぎこちないことに気づいていた。満更でもない、と思っている自分がいる。
三百年生きてきて、こんな——日常のやり取りが心地いいと感じたことが、あっただろうか。
氷室が味噌をひったくるように受け取り、「帰るわよ」と早足で店を出ていく。
その背中を見送りながら、千代ばあちゃんが俺の袖をくいっと引いた。
振り返る。
さっきまでの朗らかな笑顔が、消えていた。
皺だらけの小さな目が、まっすぐに俺を見上げている。その目の奥に、八十年の人生が凝縮したような重みがあった。
「あんた」
声が低い。
「あの子を泣かせたら、許さんよ」
冗談ではなかった。愛想笑いの欠片もない。孫のように可愛がっている女の子を守ろうとする、老婆の本気の目だった。
俺は——背筋が伸びた。
三百年の人狼が、人間の老婆に気圧された。滑稽だ。だが、その目に嘘はなく、その言葉に曇りはなかった。
「……肝に銘じます」
千代ばあちゃんはしばらく俺を見つめ、それからふっと表情を緩めた。
「よろしい。干し柿、ちゃんと食べなさいね」
店を出た。秋の風が冷たかった。
味噌の包みはもう氷室が持っていったから、俺の手には干し柿の紙袋だけが残っている。
泣かせるな、か。
——俺は泣かせる以前に、ここを出ていく身だ。毒が抜ければ旅に戻る。それだけのことだ。
そのはずだ。
なのに——千代ばあちゃんの言葉が、胸に刺さったまま抜けなかった。




