第4話:「『ひとりでいい』なんて言わないで」——飲み込まれた言葉と、不器用なふたりの距離
三日が過ぎた。
俺の回復は、遅かった。通常なら数百倍速で治る傷が、銀の毒のせいで十倍にまで落ちている。それでも人間の基準からすれば異常な速度ではあるのだが——氷室も宗方先生も、それについては何も言わなかった。
いや。正確には、宗方先生は気づいていた。
三日目の午後。宗方先生が俺を診察室に呼んだ。
「澪くん、少し席を外してくれるかね」
氷室が怪訝な顔をしたが、「わかりました」と出ていった。ドアが閉まる。
診察室は狭かった。古い木の机。書棚にぎっしり詰まった医学書。壁には色あせた人体図のポスター。窓の外に、山の稜線が見えた。
宗方先生は丸眼鏡を拭き、ゆっくりとかけ直した。
「君の体は、人間のそれとは違う」
静かな声だった。責めるでもなく、怯えるでもなく。ただ事実を述べる声。
「摘出した弾丸は純銀だ。通常、銀の弾丸を使う理由は……まあ、一般的にはない。そして君の傷は、人間の十倍の速度で治る。縫合した切開痕が翌朝には塞がっていた。普通ではない」
俺は黙っていた。
宗方先生は机に肘をつき、丸眼鏡の奥の穏やかな目で、じっと俺を見た。急かさない。問い詰めない。ただ——待っていた。
四十年、この山村で唯一の医者をやってきた人間の、その忍耐力。何百人もの患者の言葉を待ってきた人間の、その沈黙の重さ。
俺は——負けた。
「……信じねぇだろうけど」
声が掠れた。この言葉を、人間に言ったのは何十年ぶりだろう。
「俺は人狼だ。三百年、生きてる」
沈黙が落ちた。
秋の虫が鳴いている。古い時計の秒針が動く音。
宗方先生は長い間、何も言わなかった。丸眼鏡の奥の目が、俺を見つめている。驚きはあっただろう。だがそれ以上に、あの目には——ただ静かに、目の前の存在を受け入れようとする覚悟があった。
やがて、宗方先生はペンを取り、カルテに何かを書き込んだ。
「——了解した」
その声は、いつもと変わらなかった。
「治療方針を修正しよう。銀の残留微粒子を除去しないと、君の自然治癒は戻らんだろう。ウチの設備では限界があるが、やれるだけやる」
ペンを置き、俺を見る。
「支払いは、払えるようになってからでいい」
喉の奥が詰まった。
三百年生きてきた。人間の世界に紛れて、正体を隠して、孤独に。医者に診てもらったことなどなかった。正体を知られれば、化け物扱いされて追い出されるか、殺されるか——そのどちらかだった。
なのにこの老医師は、俺が人狼だと知った上で、カルテにペンを走らせている。治療方針を修正している。「ウチの患者だ」と——そう言っている。
「……なんで」
声が震えた。自分でも驚くほどに。
「なんで、そこまでする」
宗方先生は丸眼鏡を押し上げ、穏やかに——だがどこか揺るぎない目で言った。
「診療所に運ばれてきた以上、ウチの患者だからだ。人間だろうが人狼だろうが、関係ない」
その言葉が、三百年の孤独に、まっすぐに刺さった。
俺は——泣かなかった。泣くわけにはいかなかった。だが、視界がぼやけたのは、たぶん、銀の毒のせいだけではなかった。
「……ありがとう、ございます」
敬語が出た。三百年で、人間に敬語を使ったのは数えるほどしかない。だがこの老医師には——そう言わなければならない気がした。
宗方先生は少しだけ微笑んだ。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「澪くんには、まだ言わんでおこう。あの子は真面目だからな。人狼だと知ったら、看護師として以上に君に入れ込んでしまうかもしれん。……あるいは、怯えるかもしれん。どちらにしても、今のあの子には荷が重い」
俺は頷いた。
氷室。あの冷たい声と温かい手を持つ看護師。泣いた痕を隠して、仕事だからと言い張る不器用な女。
——あいつを巻き込むわけにはいかない。
「……わかった。言わねぇ」
「よろしい。では——明日から、キレート療法を試す。銀の微粒子を体外に排出する方法だ。本来は重金属中毒の治療だが、応用できるかもしれん。君の体がどう反応するかは……正直、やってみないとわからんがね」
宗方先生はカルテを閉じた。
「三百年か。……長い人生だな」
「……ああ。長ぇよ」
「この村にいる間くらいは、ゆっくりしなさい。急ぐ旅でもないだろう」
急ぐ旅。
——ああ、そうだ。俺には目的地がない。行く当てもない。ただ走り続けているだけだ。三百年、ずっと。
「……そうだな」
俺は立ち上がり、診察室を出た。
廊下で、氷室が壁に寄りかかって待っていた。腕を組み、不機嫌そうな顔で。
「何の話してたの」
「治療方針の相談だ」
「ふうん。秘密の話?」
「別に。大した話じゃねぇよ」
氷室の目が細くなった。信じていない目だ。だが、それ以上は追及してこなかった。
「……あんた、夜中にうなされてたの、知ってる?」
「は?」
「寝言がうるさいのよ。『ひとりでいい』とか、『巻き込みたくない』とか。——田村さんが起きちゃったじゃない」
田村さん。腰痛の入院患者。申し訳ない。
「……悪ぃ」
「悪いと思うなら、もう少し静かに寝てちょうだい」
氷室は踵を返した。白衣の裾が揺れる。
「——あと」
立ち止まる。振り返らない。
「『ひとりでいい』なんて寝言、もう言わないで。聞いてるこっちが……」
言葉が途切れた。
「……うるさいのよ」
それだけ言って、足早に去っていった。
俺はしばらく廊下に立っていた。
消毒液の匂い。窓から差し込む秋の午後の光。遠くで、鳶が鳴いている。
——聞いてるこっちが。
その先の言葉を、氷室は飲み込んだ。
俺には聞こえていた。飲み込んだ言葉の、喉が震える小さな音まで。人狼の聴覚は、人間が隠そうとしたものほど、残酷に拾ってしまう。
氷室澪。
お前は、面倒くせぇ女だ。
冷たいふりをして、泣いた痕を隠して、仕事だからと言い張って——それなのに、俺の寝言を覚えている。
お前の中で、何が芽生え始めているのか、俺にはわかる。そしてたぶん、お前自身もうっすらと気づいている。
だがそれは——芽生えさせてはいけないものだ。
俺は人狼だ。三百年を生きた化け物だ。お前の世界に、俺がいていい場所はない。
わかっている。
わかっている、のに——。
ポケットに手を突っ込む。窓の外、山の稜線が夕日に染まり始めていた。
俺の胸の奥で、三百年間凍っていた何かが、ほんの少しだけ、融け始めていた。
それが怖かった。
何よりも——面倒くせぇと思った。




