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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第4章:満月の夜、吸血鬼が来る――銀の十字架と影狼と、言えなかった恋

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第3話:知らない天井と、枕元で泣き腫らした不器用な白衣

 暗い。


 どこだ、ここは。


 意識の底で、俺はまだ、あの夜の中にいた。


 ——山の中腹。月のない夜。視界を塞ぐ銀色のガス。甘い匂い——トリカブトだと、鼻が教えてくれた。


「見つけたぞ、人狼」


 モッズコートの男。左目の下に蛇鱗の刺青。薄い笑み。殺し屋——通称、蝮の辻堂。


 俺の首に懸けられた報奨金を嗅ぎつけて、三日間追い回してきた毒蛇野郎だ。


「月殺しのムーンベイン……お前のために調合した特注品だ。銀の微粒子とアコニチンの混合毒。人狼の再生能力を内側から食い潰す」


 ガスが肺に入る。焼けるような痛み。


『主、指示を!』


 影の中から、クロの声。


 俺は咳き込みながら命じた。


「——クロ、キバ、正面の大男を抑えろ。カゲ、シロガネ、上空のドローンを落とせ。ツキ、俺についてこい」


 影が裂けた。五匹の黒い狼が地面から立ち上がる。


 クロが先頭を切って、辻堂の護衛——黒田に突進する。元自衛官の大男は拳銃を構えたが、クロは影そのものだ。弾丸は黒い体をすり抜ける。キバが横から跳躍し、その顎で黒田の銃を持つ腕を噛み砕いた。


「ぐっ——」


 黒田が膝をつく。クロが追撃し、体当たりで地面に叩きつけた。


 上空では蓮見のドローンが赤外線カメラで俺の位置を捕捉していたが、カゲが木の影から無音で跳び上がり、プロペラを切り裂いた。シロガネが急降下してもう一機を叩き落とす。火花が散って、制御を失ったドローンが斜面を転がっていく。


 残るは辻堂。


「……さすがだな。影の狼遣い」


 辻堂は薄笑いを崩さない。傘の柄を抜くと、中から注射針が飛び出した。同時に左手で投げナイフを三本——全て毒が塗ってあるのは、鼻でわかった。


 ツキの補助で毒ガスのダメージを抑えながら、俺は地面を蹴った。


 投げナイフを掌で弾く。銀のナイフが掌を裂いたが、構わない。辻堂の懐に飛び込み、毒傘を素手で折る。金属が軋む音。辻堂の目が初めて見開かれた。


「てめぇの毒は面倒くせぇが——」


 右手で辻堂の肩を掴み、加減して、腕の骨を折った。乾いた音。辻堂が悲鳴を上げる。


「——殺しはしねぇ。人間は殺さないって決めてんだ」


 辻堂を地面に叩きつけ、戦闘不能にした。


 だが——遅かった。


 毒ガスと、ナイフの銀毒が、もう体の中を回っていた。七発の銀弾は辻堂が最初に仕掛けたトラップ——地雷型の自動射出装置——で食らったものだ。銀の弾丸が体内で溶け出し、トリカブトの毒と混ざり合って、俺の再生能力を食い潰していく。


 足が動かない。


 視界が歪む。


 ツキの治癒が追いつかない。月が出ていない夜だ。影の力も弱い。


『主——! 撤退を!』


 クロの声。俺は影狼たちを全員、影の中に戻した。こいつらまで巻き添えにするわけにはいかない。


 山の斜面を転がるように逃げた。どこをどう走ったのかわからない。木にぶつかり、岩に肩を打ち、沢に落ちた。冷たい水が傷口に染みて——そこで意識が途切れた。


 ——俺は、ひとりで死ぬのだろうか。


 三百年。ずっとひとりだった。


 慣れた、と思っていた。


 慣れた——はずだった。


 ---


 ……目を開けると、知らない天井があった。


 白い天井。蛍光灯。消毒液の匂い。右腕に点滴の管が繋がっている。


 病院——いや、小さすぎる。診療所か。


 体が重い。指一本動かすのに、異様な力がいる。再生能力が落ちている。銀の毒がまだ血中に残っているのがわかる。体の内側を、冷たい蛇が這い回っているような感覚。


 ——そして。


 枕元の椅子に、誰かが座っていた。


 黒髪を一本に束ねた女。白衣。その下に紺のカーディガン。椅子の背もたれに体を預け、少し首を傾けて——眠っている。


 無防備な寝顔だった。化粧っ気のない、白い肌。切れ長の目は閉じられ、薄い唇がかすかに開いている。華奢な体は、しかしどこか芯の通った佇まいをしていた。


 看護師か。


 俺がわずかに身じろぎした瞬間——女は弾かれたように目を開けた。


 反射が速い。目覚めた直後に、まず俺の点滴、次にモニターの数値、最後に俺の顔を確認する。その順番が、プロの動きだった。


「……起きたの」


 声が出た。低く、冷たく、抑揚のない声。


「勝手に死なれたら、カルテの処理が面倒なのよ」


 ——冷てぇ女だな。


 そう思った。だが——その目の縁が、わずかに赤いことに気づいた。腫れている。泣いた痕だ。俺の鼻は、乾いた涙の塩分まで嗅ぎ取っていた。


 指摘はしない。泣いた理由が俺だとは限らない。看護師が患者の枕元で泣くのは、たぶん、この女が自分に許さないことだ。


「……ここは」


「宗方診療所。あんた、山で死にかけてたの。登山客が運んできた」


 登山客。沢で意識を失う直前、誰かの声が聞こえた気がする。あれは夢ではなかったのか。


「……悪ぃ。すぐ出る」


 体を起こそうとした。腹筋に激痛が走る。弾丸の摘出痕がまだ塞がりきっていない。通常なら数分で治る傷が——まだ、残っている。


「馬鹿じゃないの」


 女の声が鋭くなった。細い手が俺の肩を押さえ、ベッドに戻す。華奢なのに、妙に力がある。


「まだ毒が抜けてない。出たら死ぬわよ」


 その言葉は、脅しではなく、診断だった。


 俺は自分の体の状態を内側から確認した。再生能力が、平常時の十分の一以下にまで落ちている。銀の微粒子が血管の中を漂い、人狼としての力を蝕んでいる。あの毒——月殺しの毒。銀とトリカブトの混合。俺の弱点を的確に突いてきた。


 ここを出れば、確かに死ぬかもしれない。


 三百年生きてきて、死が近い瞬間は何度かあった。だが今回は——自力で回復できない。それが、怖かった。


「……面倒くせぇ」


「何が」


「全部」


 女——看護師は、ふんと鼻を鳴らした。


「あんたが面倒かどうかは私が決める。今は黙って寝てなさい」


 それだけ言って、テキパキと点滴を交換し始めた。手際がいい。迷いがない。冷たく見えて、その手つきには丁寧さがあった。気泡が入らないよう、チューブを指先で何度も確認する。


 ——この女は、ちゃんとした看護師だ。


 冷淡なのは表面だけだ。患者を雑に扱う人間は、こんな手つきをしない。


 俺はベッドに体を沈めた。天井の蛍光灯が眩しい。


 三百年。人間の世界に紛れて生きてきた。何度も傷つき、何度も自分で治してきた。医者に診てもらうことはなかった。正体がバレるからだ。


 だが今、俺は——人間の診療所のベッドで、人間の看護師に点滴を替えてもらっている。


 奇妙な気分だった。落ち着かない。だが——悪くは、なかった。


 消毒液の匂い。点滴の滴下音。秋の虫の声。


 そして——この女の、冷たいのに温かい声。


「……名前」


「は?」


「お前の名前。……教えろよ。世話になるなら、知っとかねぇと気持ち悪ぃ」


 女は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに無表情に戻った。


「氷室。氷室澪」


「……氷室」


「で、あんたは。カルテに名前がないのよ。登山客も知らないって言うし」


 俺は少し迷った。本名を名乗るべきか。


「……狼谷」


「かみや?」


「ああ」


 氷室は訝しげな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。カルテに何かを書き込んでいる。ペンを走らせる音が、静かな病室に響いた。


「……狼谷。明日、宗方先生の診察があるから。それまで大人しくしてなさい」


「わかった」


「本当にわかったの? さっき『すぐ出る』って言った人間の『わかった』は信用できないのよ」


「……面倒くせぇ女だな」


「お互い様よ」


 氷室は踵を返し、病室を出ていった。白衣の裾が揺れる。


 ——去り際に。


 一瞬だけ振り返って、俺の顔を確認した。生きていることを、確かめるように。


 それからドアを閉めた。


 俺は天井を見た。知らない天井。知らない場所。知らない女。


 だがその女の手は温かくて、声は冷たいのに心配の色が滲んでいて、目は泣いた後で赤くて——。


 ——面倒くせぇ。


 本当に、面倒くせぇ。


 俺は目を閉じた。三百年ぶりに、誰かに看取られながら眠りに落ちた。



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