第3話:知らない天井と、枕元で泣き腫らした不器用な白衣
暗い。
どこだ、ここは。
意識の底で、俺はまだ、あの夜の中にいた。
——山の中腹。月のない夜。視界を塞ぐ銀色のガス。甘い匂い——トリカブトだと、鼻が教えてくれた。
「見つけたぞ、人狼」
モッズコートの男。左目の下に蛇鱗の刺青。薄い笑み。殺し屋——通称、蝮の辻堂。
俺の首に懸けられた報奨金を嗅ぎつけて、三日間追い回してきた毒蛇野郎だ。
「月殺しの毒……お前のために調合した特注品だ。銀の微粒子とアコニチンの混合毒。人狼の再生能力を内側から食い潰す」
ガスが肺に入る。焼けるような痛み。
『主、指示を!』
影の中から、クロの声。
俺は咳き込みながら命じた。
「——クロ、キバ、正面の大男を抑えろ。カゲ、シロガネ、上空のドローンを落とせ。ツキ、俺についてこい」
影が裂けた。五匹の黒い狼が地面から立ち上がる。
クロが先頭を切って、辻堂の護衛——黒田に突進する。元自衛官の大男は拳銃を構えたが、クロは影そのものだ。弾丸は黒い体をすり抜ける。キバが横から跳躍し、その顎で黒田の銃を持つ腕を噛み砕いた。
「ぐっ——」
黒田が膝をつく。クロが追撃し、体当たりで地面に叩きつけた。
上空では蓮見のドローンが赤外線カメラで俺の位置を捕捉していたが、カゲが木の影から無音で跳び上がり、プロペラを切り裂いた。シロガネが急降下してもう一機を叩き落とす。火花が散って、制御を失ったドローンが斜面を転がっていく。
残るは辻堂。
「……さすがだな。影の狼遣い」
辻堂は薄笑いを崩さない。傘の柄を抜くと、中から注射針が飛び出した。同時に左手で投げナイフを三本——全て毒が塗ってあるのは、鼻でわかった。
ツキの補助で毒ガスのダメージを抑えながら、俺は地面を蹴った。
投げナイフを掌で弾く。銀のナイフが掌を裂いたが、構わない。辻堂の懐に飛び込み、毒傘を素手で折る。金属が軋む音。辻堂の目が初めて見開かれた。
「てめぇの毒は面倒くせぇが——」
右手で辻堂の肩を掴み、加減して、腕の骨を折った。乾いた音。辻堂が悲鳴を上げる。
「——殺しはしねぇ。人間は殺さないって決めてんだ」
辻堂を地面に叩きつけ、戦闘不能にした。
だが——遅かった。
毒ガスと、ナイフの銀毒が、もう体の中を回っていた。七発の銀弾は辻堂が最初に仕掛けたトラップ——地雷型の自動射出装置——で食らったものだ。銀の弾丸が体内で溶け出し、トリカブトの毒と混ざり合って、俺の再生能力を食い潰していく。
足が動かない。
視界が歪む。
ツキの治癒が追いつかない。月が出ていない夜だ。影の力も弱い。
『主——! 撤退を!』
クロの声。俺は影狼たちを全員、影の中に戻した。こいつらまで巻き添えにするわけにはいかない。
山の斜面を転がるように逃げた。どこをどう走ったのかわからない。木にぶつかり、岩に肩を打ち、沢に落ちた。冷たい水が傷口に染みて——そこで意識が途切れた。
——俺は、ひとりで死ぬのだろうか。
三百年。ずっとひとりだった。
慣れた、と思っていた。
慣れた——はずだった。
---
……目を開けると、知らない天井があった。
白い天井。蛍光灯。消毒液の匂い。右腕に点滴の管が繋がっている。
病院——いや、小さすぎる。診療所か。
体が重い。指一本動かすのに、異様な力がいる。再生能力が落ちている。銀の毒がまだ血中に残っているのがわかる。体の内側を、冷たい蛇が這い回っているような感覚。
——そして。
枕元の椅子に、誰かが座っていた。
黒髪を一本に束ねた女。白衣。その下に紺のカーディガン。椅子の背もたれに体を預け、少し首を傾けて——眠っている。
無防備な寝顔だった。化粧っ気のない、白い肌。切れ長の目は閉じられ、薄い唇がかすかに開いている。華奢な体は、しかしどこか芯の通った佇まいをしていた。
看護師か。
俺がわずかに身じろぎした瞬間——女は弾かれたように目を開けた。
反射が速い。目覚めた直後に、まず俺の点滴、次にモニターの数値、最後に俺の顔を確認する。その順番が、プロの動きだった。
「……起きたの」
声が出た。低く、冷たく、抑揚のない声。
「勝手に死なれたら、カルテの処理が面倒なのよ」
——冷てぇ女だな。
そう思った。だが——その目の縁が、わずかに赤いことに気づいた。腫れている。泣いた痕だ。俺の鼻は、乾いた涙の塩分まで嗅ぎ取っていた。
指摘はしない。泣いた理由が俺だとは限らない。看護師が患者の枕元で泣くのは、たぶん、この女が自分に許さないことだ。
「……ここは」
「宗方診療所。あんた、山で死にかけてたの。登山客が運んできた」
登山客。沢で意識を失う直前、誰かの声が聞こえた気がする。あれは夢ではなかったのか。
「……悪ぃ。すぐ出る」
体を起こそうとした。腹筋に激痛が走る。弾丸の摘出痕がまだ塞がりきっていない。通常なら数分で治る傷が——まだ、残っている。
「馬鹿じゃないの」
女の声が鋭くなった。細い手が俺の肩を押さえ、ベッドに戻す。華奢なのに、妙に力がある。
「まだ毒が抜けてない。出たら死ぬわよ」
その言葉は、脅しではなく、診断だった。
俺は自分の体の状態を内側から確認した。再生能力が、平常時の十分の一以下にまで落ちている。銀の微粒子が血管の中を漂い、人狼としての力を蝕んでいる。あの毒——月殺しの毒。銀とトリカブトの混合。俺の弱点を的確に突いてきた。
ここを出れば、確かに死ぬかもしれない。
三百年生きてきて、死が近い瞬間は何度かあった。だが今回は——自力で回復できない。それが、怖かった。
「……面倒くせぇ」
「何が」
「全部」
女——看護師は、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたが面倒かどうかは私が決める。今は黙って寝てなさい」
それだけ言って、テキパキと点滴を交換し始めた。手際がいい。迷いがない。冷たく見えて、その手つきには丁寧さがあった。気泡が入らないよう、チューブを指先で何度も確認する。
——この女は、ちゃんとした看護師だ。
冷淡なのは表面だけだ。患者を雑に扱う人間は、こんな手つきをしない。
俺はベッドに体を沈めた。天井の蛍光灯が眩しい。
三百年。人間の世界に紛れて生きてきた。何度も傷つき、何度も自分で治してきた。医者に診てもらうことはなかった。正体がバレるからだ。
だが今、俺は——人間の診療所のベッドで、人間の看護師に点滴を替えてもらっている。
奇妙な気分だった。落ち着かない。だが——悪くは、なかった。
消毒液の匂い。点滴の滴下音。秋の虫の声。
そして——この女の、冷たいのに温かい声。
「……名前」
「は?」
「お前の名前。……教えろよ。世話になるなら、知っとかねぇと気持ち悪ぃ」
女は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに無表情に戻った。
「氷室。氷室澪」
「……氷室」
「で、あんたは。カルテに名前がないのよ。登山客も知らないって言うし」
俺は少し迷った。本名を名乗るべきか。
「……狼谷」
「かみや?」
「ああ」
氷室は訝しげな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。カルテに何かを書き込んでいる。ペンを走らせる音が、静かな病室に響いた。
「……狼谷。明日、宗方先生の診察があるから。それまで大人しくしてなさい」
「わかった」
「本当にわかったの? さっき『すぐ出る』って言った人間の『わかった』は信用できないのよ」
「……面倒くせぇ女だな」
「お互い様よ」
氷室は踵を返し、病室を出ていった。白衣の裾が揺れる。
——去り際に。
一瞬だけ振り返って、俺の顔を確認した。生きていることを、確かめるように。
それからドアを閉めた。
俺は天井を見た。知らない天井。知らない場所。知らない女。
だがその女の手は温かくて、声は冷たいのに心配の色が滲んでいて、目は泣いた後で赤くて——。
——面倒くせぇ。
本当に、面倒くせぇ。
俺は目を閉じた。三百年ぶりに、誰かに看取られながら眠りに落ちた。




