第2話:「勝手に死なないで」——その冷たい手を、朝まで温め続けると決めた夜
十五分後。
診療所のクロ関が蹴り破られるように開き、登山客の青年たちが担架を担いで飛び込んできた。先頭の青年——戸塚と名乗った——は、汗だくで、顔面蒼白だった。
「先生、この人——山の沢で見つけて……脈はあります、でも——」
処置台の上に横たえられたその体を見て、私は息を止めた。
全身が血と泥にまみれた、若い男。黒い革ジャケットの下、剥き出しになった上半身には、数えきれないほどの傷。丸い穴——銃創だとすぐにわかった——が少なくとも七つ。そしてそれ以上に目を引いたのは、傷口の周囲に広がる異様な黒い変色。血管に沿って、まるで蜘蛛の巣のように黒い線が走っている。
——毒?
「澪くん、バイタル」
宗方先生の声で我に返る。
血圧、七十の四十。心拍、百二十。体温、四十度三分。呼吸は浅く速い。瞳孔はやや散大。
「先生、血圧がかなり低いです。ショック状態に入りかけています」
「輸液を全開で。まず弾丸を摘出する。この黒ずみが気になるが、先に異物を取り除かんと始まらん」
宗方先生がメスを手に取った。
最初の弾丸を取り出した時、私は自分の目を疑った。
鉗子に挟まれたそれは——銀色だった。鉛色ではない。磨いた銀のように、処置室の照明を反射して、冷たく光っていた。
「……銀、ですか?」
「そのようだな」
宗方先生は眉をひそめたが、手は止めなかった。二発目、三発目と弾丸を摘出していく。すべて同じ銀色。ステンレスのトレイに落とすたび、硬質な音が響いた。
四発目を摘出した時——それは起きた。
三発目の弾丸を取り出した傷口が、塞がり始めていた。
メスで切開した創縁が、ゆっくりと、しかし確実に接合していく。まるで時間を早送りにしているかのように、赤い肉が盛り上がり、皮膚が再生し——傷口から、微細な銀色の粒子がこぼれ落ちた。ガラスの粉のような、淡い光。
「……先生」
「見えている」
宗方先生の手が、一瞬だけ止まった。
丸眼鏡の奥の目が、処置台の上の青年を見つめた。四十年間、この山村で医者をやってきた人の目。驚きはある。だが、それ以上に——何かを受け入れるような、静かな覚悟があった。
「……診療所に運ばれてきた以上、ウチの患者だ」
その言葉を、呟くように。自分に言い聞かせるように。
宗方先生は再びメスを握った。五発目、六発目、七発目。計七つの銀の弾丸が摘出された。
だが、弾丸を取り除いても青年の容態は安定しなかった。高熱は下がらない。痙攣が断続的に続く。黒い変色は弾丸の周囲だけでなく、血管に沿って全身に広がっている。
「毒だな。弾丸そのものではなく、弾丸に塗布された、あるいは体内で溶出した毒物が血中に回っている」
宗方先生は簡易分析キットで血液を調べた。
「アコニチン……トリカブトの毒成分だ。それに加えて——金属微粒子。おそらく銀。通常、銀は人体にさほどの毒性はないが……この濃度は異常だ」
活性炭の投与。輸液の増量。対症療法。解毒剤——アコニチンに特異的な解毒剤は存在しない。アトロピンで症状を抑えるのが精一杯だ。
「できることは限られている。あとは、この子の生命力に賭けるしかない」
宗方先生はそう言って、処置室を出た。手術着を脱ぐ背中が、いつもより少しだけ丸まっているように見えた。
私は——残った。
処置台から病室のベッドに移された青年の枕元に椅子を置き、座った。点滴の滴下速度を確認し、モニターの数値を見守る。心拍。血圧。体温。SpO2。
——この人は、何者なんだろう。
山中で銀の弾丸に撃たれ、毒を盛られ、それでも生きている。傷が勝手に塞がる。人間の体では、ありえない。
考えても答えは出ない。今の私にできるのは、この人が目を覚ますまで、ここにいること。バイタルを監視し、異変があればすぐに宗方先生を呼ぶこと。
それが、看護師の仕事だから。
——それだけだから。
夜が更けていく。秋の虫が鳴いている。点滴の雫が、規則正しく落ちる音。
青年がうなされ始めたのは、午前二時を過ぎた頃だった。
「……めんどう、くせぇ……」
熱に浮かされた、かすれた声。
「……ひとりで……いい……」
同じ言葉。登山客が聞いたという、あの言葉。
私は濡れタオルを絞り、青年の額に乗せた。汗が滲んだ肌は焼けるように熱い。
「……死に、たくねぇ……けど……」
声がかすれる。
「……誰も……巻き込みたく、ねぇんだ……」
その声を聞いた瞬間、私の胸の奥で——何かが、軋んだ。
ひとりでいい。誰も巻き込みたくない。その言葉の裏にある孤独の深さが、嫌というほどわかってしまう。私も同じだから。ひとりで抱え込んで、ひとりで完結しようとして、それを強さだと思い込もうとする——そういう不器用さを、私は知っている。
「……勝手に死なないで」
気づけば、そう呟いていた。誰に言ったのか。この青年に? それとも——かつて、この診療所のベッドで、最後まで「大丈夫」と言い続けた母に?
涙が、一粒だけ落ちた。すぐに袖で拭った。
看護師が患者の前で泣くな。プロとして失格だ。
——でも。
この人の手は、大きくて、傷だらけで、ひどく冷たかった。
私はその手を両手で包み、温めた。点滴のチューブが揺れた。
「……ここにいるから。朝まで、ここにいるから」
返事はない。ただ、青年の険しかった眉間が、ほんの少しだけ——緩んだ気がした。




