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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第4章:満月の夜、吸血鬼が来る――銀の十字架と影狼と、言えなかった恋

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第1話:銃創の遭難者と、休日のない小さな診療所

この物語は「孤独な化け物が、不器用な人間に拾われる話」です。


三百年ひとりで生きてきた人狼と、「仕事だから」を盾にして本音を隠す看護師。似た者同士の二人が、山奥の小さな診療所で出会います。

ばちばち火花を散らしながら、少しずつ距離が縮まっていく——そんな不器用な関係を楽しんでいただけたら嬉しいです。

甘いだけじゃなく、ちょっとほろ苦い。でも読み終わった後に、胸の奥がじんわり温かくなる。そんな物語を目指しました。


それでは、山あいの診療所へどうぞ。


 風が冷たかった。


 十月の山は、もう冬の匂いがする。落葉した広葉樹の隙間から覗く空は、水を薄めたような青だった。


 嶺風会リーダーの戸塚洋介は、足元の枯葉を踏みしめながら、後続のメンバーに声をかけた。


「この先に沢があるから、そこで昼休憩にしよう」


 リュックの肩紐を締め直す。標高はまだ八百メートル程度だが、整備された登山道を外れた獣道は足場が悪い。初心者の後輩二人がやや遅れている。


「戸塚さーん、もうちょい待ってくださいよー」


「鍛え方が足りんぞ、松田」


 笑い声が木々の間に散った。穏やかな秋のトレッキング。何事もない一日になるはずだった。


 沢の音が近づいてきた頃——戸塚の足が止まった。


「……なんだ、あれ」


 沢沿いの岩場に、何かが倒れている。最初は鹿か猪の死骸かと思った。黒っぽい塊。動かない。


 だが、近づいて息を呑んだ。


 人間だった。


 若い男。二十歳くらいに見える。黒い革のジャケットは引き裂かれ、その下の肌には無数の傷——銃創、裂傷、そして異様に黒ずんだ痣のようなもの。まるで血管の中を墨が這っているかのように、傷口の周辺が不自然に変色している。


 泥と血と、枯葉にまみれた体。両目は閉じられ、唇は青紫色。


 戸塚は膝をつき、震える手で頸動脈に指を当てた。


 ——脈が、ある。微弱だが。


「松田、田所——こっちに来い。早く!」


 声が裏返った。戸塚は大学院で応急救護の講習を受けていた。だが、こんな状態の人間を目にしたのは初めてだった。全身から血を流し、山中に倒れている青年。通報しようにも、ここは携帯の電波が届かない。


「担架を作る。ザックのフレームとツェルト——使えるものは全部出せ」


 戸塚の声に、後輩たちが動いた。手が震えていたが、それでも動いた。


 簡易担架に青年を載せ、四人で持ち上げる。驚くほど重かった。見た目の体格以上に、中身が詰まっているような——そんな異様な重量感。


「麓の宗方診療所まで、ここからだと四十分くらいだ。頼む、持ってくれ」


 誰に言ったのかわからない。青年に、仲間に、それとも自分自身に。


 戸塚は青年の顔を見た。泥と血の下に、驚くほど整った顔立ちがあった。通った鼻筋。長い睫毛。閉じられた瞳の奥に、何色の目があるのかはわからない。


 だがその唇が、微かに動いた。


「……めんどう、くせぇ……」


「喋るな。もうすぐ医者のところに着く」


「……ひとりで……いい……」


 その声は、かすれて消えた。


 戸塚は担架を担ぎ直し、歩き始めた。ひとりでいいと言ったその声が、ひどく痛々しかった。慣れきった孤独の声だ。ひとりでいたいのではなく、ひとりで死ぬことに慣れた者の声。


 ——死なせるものか。


 山道を、四人は無言で下った。


 ---


 私は、休日が嫌いだ。


 宗方診療所の看護師・氷室澪にとって、休日とは「手持ち無沙汰な時間」の別名でしかない。白衣を脱ぐと、途端に自分が空洞になったような気がする。何をすればいいのかわからない。テレビを点けても内容が頭に入らない。本を開いても文字が滑る。


 だから結局、診療所に来てしまう。休日でも。


「澪さん、今日はお休みでしょう。たまにはゆっくりしなさい」


 宗方先生にそう言われても、「カルテの整理が残ってるので」と答えて居座る。整理なんてとっくに終わっているのに。


 ——私は、ここにいる時だけ、自分が必要とされている気がする。


 その感情の名前を、私は知っている。依存。献身という名の、依存。都会の病院で嫌というほど突きつけられた自分の本質。


 重い患者ほど入れ込んでしまう。必要とされることに溺れてしまう。看護師としては優秀でも、人間としてはどこか壊れている——そう言ったのは、私を捨てた男だった。


 振り払うように首を振る。過去のことだ。今の私は、この山あいの診療所で、宗方先生の下で、静かに生きている。それでいい。


 午後七時。秋の日は短い。診療所の窓の外はもう暗く、虫の声だけが響いていた。入院患者の田村さん——腰痛で三日前から入院している七十二歳のおじいちゃん——の夕食を片付け、消灯の準備をしていた時。


 宗方先生の携帯が鳴った。


「——はい、宗方です。……何? 怪我人? ……わかった、すぐに準備する」


 受話器を置いた宗方先生の顔が、一瞬で「村のお医者さん」から「外科医」に切り替わった。四十年間、この山村で唯一の医師として生きてきた人の、その顔を私は知っている。


「澪くん。急患だ。登山客が山で倒れていた人を運んでくる。全身に銃創があるそうだ」


「銃創……?」


「準備を頼む。手術室だ」


 この小さな診療所に手術室と呼べるほどの設備はない。簡易な処置室に、最低限の手術器具と照明があるだけだ。それでも宗方先生は、ここで虫垂炎も、骨折の整復も、時には緊急の帝王切開すらやってきた。


 私は走った。滅菌器具を並べ、点滴のラインを準備し、輸血用の保存血を冷蔵庫から出す。手が勝手に動く。こういう時、体に叩き込んだ訓練が生きる。頭で考えるより先に、手が正しい場所に正しいものを置いていく。


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