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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第16話:行ってらっしゃいのキスと、「今度は私が助ける」と誓う朝

 気づいたとき、

 私は風の中にいた。


 頬を切るような、冷たい風。

 耳のすぐ横で唸るエンジンの音。

 前を見れば、薄暗い山道が、後ろへ後ろへと流れていく。


 私の両腕は、

 自然と何かにしがみついていた。


 硬くて、あたたかいもの。

 黒いジャケットの布越しに伝わる、体温と筋肉の動き。


 その正体に気づくまで、少し時間がかかった。


「……カミヤ、さん……?」


 かすれた声で呼ぶと、

 すぐに、低い声が返ってきた。


「起きたか」


 背中越しでも分かる、いつもの調子。

 少し掠れているけれど、それが妙に安心させる。


 私は、

 自分の状況を確かめるように、そっと視線を落とした。


 彼の腰に、

 私の腕がしっかり回されている。


 後ろから、

 彼に抱きつくみたいな格好で、原付に二人乗りしていた。


 さっきまで私を縛っていた鎖の感触は、もうどこにもない。


 代わりに、

 ジャケットの下で、彼の鼓動がトクトクと鳴っているのが分かる。


「鎖……」


「引き千切った。あんなガラクタ、いらねぇだろ」


 あくまでぶっきらぼうに言い捨てる。


 それでも、

 その一言だけで、胸の奥がじん、と熱くなった。


 山道を下る原付が、ガタガタと揺れる。

 私は思わず、彼のジャケットをぎゅっと掴んだ。


「もっとちゃんと掴め。落ちんぞ」


 そう言って、

 彼の片手が後ろへ伸びてくる。


 私の手首をつまみ、

 腰のあたりへと押し当てるように導く。


 彼の身体に、

 さらに密着する形になる。


「……っ」


 耳まで熱くなるのが分かった。


「腹に力入れとけ。力抜くと酔う」


「は、はい……」


 情けない返事しかできない。


 それでも、

 もうあの闇の中にはいないという事実が、

 それだけで夢みたいだった。


 トンネルの出口が、

 バックミラーの向こうに小さく遠ざかっていく。


 前を見る。


 山道が、

 やがて緩やかになり、視界が開けた。


 東の空が、

 ゆっくりと白みはじめている。


 濃い群青から、

 薄い青へ。

 そして、滲むようなオレンジへ。


 冷たい夜の空気の中に、

 かすかな潮の匂いが混じり始める。


 海が、近い。


 彼の背中にしがみついたまま、

 私はそっと顔を上げた。


 水平線の向こう側に、

 細い光の線がのぞいている。


 夜と朝の境界線。


 そこへ向かって、

 二人乗りのボロい原付が、一直線に走っていく。


 胸の中で、

 何かがほどけていくのを感じた。


 怖さも、

 痛みも、

 あの闇の匂いも。


 原付のエンジン音と、

 山を下る風に削られて、

 少しずつ遠くなっていく。


 港の近くまで降りてきたところで、

 カミヤさんはスロットルを緩めた。


 エンジン音が和らぎ、

 冷たい風が優しくなる。


 海辺の堤防のそばに原付を停め、

 エンジンを切った。


 急に、世界が静かになる。


「降りられるか」


「……はい。たぶん」


 原付から降りようとして、足がふらつく。

 地面を踏んだ瞬間、膝が笑った。


 倒れかけたところを、

 横から伸びてきた腕が支える。


 彼の手が、

 私の腰をそっと掴んだ。


「無理すんな。酷い目にあったんだ。感覚おかしくて当たり前だ」


「……酷い目」と言われて、

 ようやく自分がどんな状態だったのかを、

 少しだけ俯瞰できた気がした。


 怖かったはずの記憶が、

 彼の当たり前みたいな言い方で、

 少しだけ輪郭を失っていく。


 私は、

 彼の腕に支えられたまま、海の方を見た。


 ちょうど、

 太陽が水平線から顔を出すところだった。


 オレンジ色の光が、

 海の表面を黄金色に染めていく。


 世界が、

 新しく塗り替えられていく瞬間。


 さっきまで、

 真っ暗なトンネルの中で、

 捕らえられていた人間が――


 今、

 朝日の中で、

「眩しい」と目を細めている。


 その事実が、

 なんだか信じられなくて、

 でも確かにここにあって。


 胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。


 遠くで、

 パトカーのサイレンが小さく聞こえる。


 町が動き出す気配。

 日常の音。


 その隣で、

 私だけが、まだ非日常の余韻の中にいる。


「……カミヤさん」


 胸の奥から、

 ずっと言いたかった言葉がこみ上げてくる。


 だけど、

 先に出てしまったのは別の言葉だった。


「……また、どこかへ行っちゃうんですか」


 自分でも、

 ずるい質問だと思う。


 でも、

 どうしても確かめたかった。


 彼は、

 少しだけ目を伏せた。


 そして、

 静かに頷く。


「俺は、一箇所に留まれる存在じゃねぇ」


 いつもの、淡々とした声。


「それに、俺と一緒にいれば、お前はいつか本当の闇に引きずり込まれる」


 本当の闇。


 朽縁トンネルの闇とは、

 きっと質の違うもの。


 もっと深くて、長くて、

 出口のない、底のない暗さ。


 彼が三百年かけて歩いてきた、

 血と孤独の底。


 そんな場所に、

 私を連れて行きたくない――。


 そう思ってくれているのが分かるからこそ、

 苦しくなる。


「そんなの……構わない!」


 気づいたら、叫んでいた。


 朝焼けの中、

 自分の声が思った以上に大きく響いて、

 自分で驚く。


「構うだろうが。俺が」


 ぴしゃりと、短く遮られる。


 言葉は冷たい。

 でも、

 その瞳は、

 どこまでも優しかった。


「……お前には、光の下で笑っててほしいんだ」


 光の下。


 教室の蛍光灯でも、

 スマホの画面でもなく。


 こうして今みたいに、

 朝日を浴びて笑える場所。


 私は、

 唇を噛んだ。


 彼の言っていることは、

 きっと正しい。


 でも――。


「……ズルいです」


 かすれた声が、喉からこぼれた。


「私のこと、助けてくれて。

 一緒に海を見て、ご飯食べて。

 ちゃんと『生きたい』って思わせておいて」


 胸の中が、きゅっと痛む。


「いなくなるなんて、ズルいです……」


 子供みたいな言い方。

 でも、それが今の私の本音だった。


 彼は、

 少しだけ困ったように眉を寄せた。


 そして、

 何も言わずに一歩、近づいてくる。


 朝日が、

 二人の影を長く伸ばした。


「……目、閉じろ」


「え?」


「いいから」


 有無を言わせない口調。


 私は、

 少しだけ躊躇ってから、

 ぎゅっと瞼を閉じた。


 次の瞬間。


 額に、

 温かいものが触れた。


 最初は何が起きているのか分からなかった。


 でも、

 すぐにそれが、

 彼の「額」だと気づく。


 おでことおでこを、

 そっと合わせている。


 距離が、

 ゼロになる。


 鼓動が、

 近くなる。


「……っ」


 息が止まる。


 頭の中が真っ白になるのに、

 胸の奥だけが、はっきりと熱を持っていた。


「死ぬな」


 囁き声。


 耳じゃなくて、

 骨に直接響くみたいな声だった。


「生きて、強くなれ」


 一語一語が、

 刻みつけられるみたいに、

 心に突き刺さる。


「……三百年後の俺が、後悔しないくらいにな」


 三百年。


 本気なのか、冗談なのか。


 でも、

 この人なら――。


 三百年後も、

 どこかの町を原付で走っていても、おかしくない。


 そのとき、

 胸を張って会える自分になれ、と。


 そう言ってくれている。


 額が、ゆっくりと離れていく。


 名残惜しさが、

 肌に残った。


 私は、

 そっと目を開けた。


 すぐ目の前に、

 彼の顔がある。


 紅蓮だった瞳は、

 もうほとんど色を失いかけていて。


 代わりに、

 いつもの琥珀色が、

 朝日を映してきらりと光っていた。


 その瞬間、

 胸の奥で何かが弾けた。


 気づいたときにはもう、

 身体が勝手に動いていた。


 私は、

 彼のジャケットの裾をぎゅっと掴む。


「カミヤさん」


 自分でも驚くほど、

 はっきりした声が出た。


 彼が、

 わずかに目を見開く。


 その隙を、

 私は逃さなかった。


 背伸びをするように、

 つま先に力を入れる。


 彼の胸元を引き寄せて――

 そっと、唇を重ねた。


 ほんの一瞬。

 触れるか触れないかくらいの、軽いキス。


 朝焼けの光の中で、

 世界がまた一度、静止した気がした。


 彼の息が、

 驚いたみたいにわずかに止まる。


 すぐに、

 私は一歩、後ろへ下がった。


 自分の顔が、

 きっと真っ赤になっているのが分かる。


「……ごめんなさい」


 でも、

 謝りたいわけじゃなかった。


 それでも、

 最初に出てきた言葉は、それだった。


「謝ることじゃねぇよ」


 少しだけ掠れた声で、彼が言う。


 目をそらすみたいに、

 わざと海の方を向いて。


 それから、

 小さく息を吐いた。


「……そういうのは、三百年後にしろ」


 文句みたいな台詞なのに、

 耳の奥がくすぐったくなる。


「三百年後にも、していいですか」


 自分で言って、

 ますます顔が熱くなる。


 彼は、

 呆れたように笑った。


「……勝手にしろ。その頃にも俺がまだ生きてたらな」


 それはきっと、

 彼なりの「約束」だ。


 私には、そう聞こえた。


 原付に戻ろうとする彼の背中に向かって、

 私はもう一度だけ、声を張る。


「私、待ってます!」


 朝の空気が震える。


「絶対、また会いに来てください!」


 嘘でも、

 本気でもいい。


 この言葉だけは、

 今ここに残しておきたかった。


 彼は振り返らない。


 ただ、

 バックミラー越しに、ちらりと視線をよこす。


 それだけで、

 十分だった。


 あの琥珀色の瞳が、

 約束の色をしているのを、

 私は見逃さなかった。


 原付が走り出す。


 山の方へではなく、

 町へ続く国道の方へ。


 私の世界から、

 少しずつ小さくなっていく。


 頬を伝う涙が、

 朝日にキラキラと光った。


 でも、

 唇だけは、ちゃんと笑っていた。


「……行ってらっしゃい」


 海風に溶けるくらいの声で、呟く。


 帰ってきて、とは言わない。

 今はまだ。


 代わりに、

 胸の中で強く誓った。


(私、もう「助けて」って叫ばない)


(今度は、私が――誰かの「助けて」に応えられるように、生きる)


 彼がくれた「生き延びる理由」を、

 ちゃんと、

 自分の足で育てていきたい。


 そう思いながら、

 私は昇り続ける太陽を見上げた。


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