第13話:『ツケは帰って払う』——死亡フラグをアクセルで踏み潰して
港の風が、ざわついていた。
昼間の漁港は、いつもなら騒がしい。
網を引き上げる声、トラックのバック音、魚を捌く包丁の音。
だが、その日は違った。
音はあるのに、どこか芯が冷えている。
カミヤは、荷揚げの仕事をひと段落させ、汗を拭った。
銀色の微細な粒子が、陽の光の中で一瞬だけきらりと光り、すぐに肌に溶けた。
「おい、新入り。今日はもう上がっていいぞ」
親方がそう声をかけてくる。
いつもより少し、早い終わりだ。
「いいのか。まだ日も高いが」
「こういう日はな……魚も人間も、早く家に帰った方が身のためよ」
親方は煙草に火をつけながら、港の方角を顎で示した。
「さっきから、山の方がうるせぇんだよ。聞こえねぇか?」
耳を澄ます。
遠く、かすかに、爆音が重なって聞こえた。
エンジン音。
ひとつやふたつじゃない。
うねるような、多数の咆哮。
それだけじゃない。
風の匂いが変わっていた。
海の匂いの奥に、
焦げたゴムと、安いガソリンと、
それから――湿った土に染み込んだ、古い血の残り香。
朽縁トンネルの方角だ。
「……面倒くせぇ音だな」
ぼそりと呟く。
そのときだった。
「カミヤ!」
背後から、ドスの効いた声が飛んだ。
振り返ると、勝田がいた。
スナックのヨレたジャンパー姿のまま、息を切らせている。
あまり走るタイプじゃない男だ。
その男が汗だくで駆けてくる時点で、ただ事ではない。
「逃げろ」
開口一番、それだった。
「連中、まともじゃねぇ。県内から暴走族かき集めてきやがった。ざっと百人。全員、死人みてぇな顔して山へ向かったって話だ」
百。
数字だけなら、大したことはない。
今の彼にとって、人間百人など、ただの数だ。
問題は――「死人みてぇな顔」という言い方だ。
「朽縁トンネルだな」
カミヤがそう言うと、勝田はぎょっとした顔をした。
「知ってんのか、お前」
「あそこは元から、ろくでもねぇもんが溜まってる。ガキどもの溜まり場になってたのは、ただの偶然じゃねぇ」
バイク。
暴走族。
血。
未練。
そういうものは、「向こう側」との境界を薄くする。
そこへ、龍二というガキが――。
「……夜叉組のリーダー、龍二。知ってるか」
「あぁ。あのアホか」
勝田は露骨に顔をしかめた。
「トンネルで恥かかされたとかでよ。ここ数日、あちこちで『化け物ブッ殺す』ってわめいてたらしい。最初はいつものイキりだと思ってたが……」
視線を伏せる。
「さっき見た奴は、もう、あの龍二じゃなかった」
港へ向かう道の途中。
勝田は、偶然、暴走族の一団とすれ違った。
単車の列の中に、龍二がいた。
目はどす黒く濁り、焦点が合っていなかった。
口の端からは、黒い霧のようなものが、絶えず漏れ出していた。
「……朽縁トンネルの『霊』に、完全に喰われてやがる」
この町に昔から伝わる、忌まわしい噂。
朽縁トンネルで死んだ暴走族の怨念。
事故死、自損、抗争。
行き場を失った「走りたいだけの魂」が、
トンネルの闇にへばりついている――。
龍二は、その怨念の王に、自分から手を伸ばしたのだ。
「あの化け物ごと、あの女をぶち殺してやる……!」
朽縁トンネルに向かう途中、龍二は呟いた。
彼の胸の中に渦巻いていたのは、
敗北の屈辱と、
救いを求める叫びと、
自分の孤独を他人ごと巻き込んででも埋めたいという、歪んだ欲望だった。
怨霊は、それを見逃さなかった。
黒い霧が、
龍二の口から溢れ出し、
彼の瞳を真っ黒に塗り潰した。
その霧は、
彼の仲間たち――県内から集められた百人の暴走族にも、
鎖のようにまとわりついていく。
ヘルメットの下。
瞳が一人また一人と、
生気を失っていく。
「走りたい」しかなかったガキどもが、
「殺したい」「壊したい」だけの獣へと、
塗り替えられていった。
勝田の話は、そこで終わりではなかった。
「もう一つ、悪い知らせがある」
煙草を取り出そうとして、
震える手で失敗し、
悔しそうにポケットに押し戻す。
「さっき、汐風高校から連絡があった。……お前の連れてたガキ」
柊木詩乃。
「学校帰りに、いなくなったってよ」
カミヤの視界が、一瞬で冷えた。
「……どこで」
「朽縁トンネルへ向かう山道の途中。
同級生の証言じゃ、黒い特攻服着た連中に囲まれて、バンに押し込まれたらしい」
息が、少しだけ乱れた。
心臓が速くなるのを、自覚する。
感情的な動揺は、百年ぶりかもしれない。
「逃げろ、カミヤ」
勝田は、真剣な目で言った。
「連中は今、人間じゃねぇ。
お前だってタダじゃ済まねぇ」
カミヤは、ポケットの中で煙草の箱を握った。
一本抜きかけて、やめる。
呼吸をゆっくり整える。
「……チッ」
舌打ちが、港の風に紛れた。
「本当、面倒くせぇ世の中だ」
それでも、
選択肢は最初から一つしかない。
逃げる、という言葉は、
この瞬間、彼の辞書から消えていた。
琥珀色の瞳が、
じわりと色を変えていく。
夕暮れ空に似た穏やかな金色から、
炎の芯のような紅蓮へ。
瞳孔が細くなり、
獣のそれに近づく。
「おい、カミヤ――」
「心配すんな。俺は、殺さねぇ」
「……は?」
勝田が、間の抜けた声を漏らした。
「何を……何言ってやがる! 相手は百人だぞ!? お前が殺されるんだよ! 逃げろっつってんのが聞こえねぇのか!」
勝田の叫びは正論だ。人間一人が、狂気に駆られた百人の集団に敵うはずがない。
だが、カミヤが案じているのは、自分の命などではなかった。
(殺すのは、容易い)
その気になれば、あのトンネルを数分で静寂に変えられる。
だが、一度でもその力を「対人」に解放してしまえば、もう戻れない。
「殺したら、あいつが泣く」
ナギが。
リオが。
そして――詩乃が。
人狼が人を殺したと聞けば、
彼女たちは迷いなく、
カミヤを「化け物」の側へ押しやらざるを得なくなる。
それだけは、
どうしても、嫌だった。
原付のハンドルを握る。
エンジンが、
まるで彼の心臓とシンクロするみたいに高鳴った。
「……行ってくる」
勝田の顔を、一度だけ見る。
ありがとう、とは言わない。
言えば、きっと「フラグ」になるから。
代わりに、
ヘルメットをかぶりながら小さく笑った。
「帰りに、スナックのツケ払わせろよ」
「生きて帰ってこい!」
勝田の怒鳴り声を背に、
カミヤは原付のアクセルを全開にした。
朽縁トンネルへ向かう山道。
百台の爆音の逆流へ向かって、
たった一台のボロい原付が、
闇を裂いて駆け上がっていった。




