第12話:浜焼きとかもめ亭の夕焼けと、「楽しかった」と言える一日
灯台を降りる頃には、
太陽は少しずつ傾き始めていた。
岬からの帰り道。
海の色が、昼の青から、
少しずつオレンジがかった色に変わっていく。
「お腹、すきましたね」
原付の後ろで、ぽつりと呟いた。
朝からろくに食べていない。
昼休みも、彩音たちの視線が怖くて、
購買に近づけなかった。
私のお腹は、
正直にぐう、と鳴いた。
「……図太くなったな」
前から、呆れたような声が届く。
「え?」
「あの夜は、遠慮して腹減ったとも言えなかったくせに。
今は腹の音まで聞かせてくるのか」
「そ、それは……!」
顔が一気に熱くなる。
「聞かせてるつもりは、ないです!」
「聞こえてんだよ。耳いいからな、俺」
くそ。
こういうところだけは「普通じゃない」能力、
発揮しなくてもいいのに。
でも、
からかわれているのに、
どこか嬉しい。
人とこうやって、
他愛ない言葉を交わせる感覚自体が、
久しぶりだった。
「……飯でも食うか」
彼が、ふいに言った。
「いい店、知ってるんですか?」
「さぁな。漁師に聞いた」
それは、
この町の誰よりも「美味しい店」を知っていそうな人たちだった。
少し走ると、
道路脇に、小さな木製の看板が見えてきた。
「浜焼き処 かもめ亭」。
手書きの文字。
少し色あせたカモメの絵。
店の前には、七輪と木のベンチ。
炭火の匂いが、風に乗って漂ってくる。
扉を開けると、
カランコロン、と古いベルの音がした。
「いらっしゃい!」
元気な声。
白い割烹着を着たおばちゃんが、
カウンターの向こうから笑顔を向けてくる。
「お二人? カップルかい?」
「ち、違います!」
反射的に叫んでいた。
顔が一気に真っ赤になるのが自分でも分かる。
「そ、そういうんじゃ……!」
「はいはい、ごちそうさま」
おばちゃんは、にやにや笑いながら、
私たちを窓際のテーブルに案内してくれた。
カミヤさんは、何も言わずに席に座る。
メニュー表を手に取って、じっと眺めている。
焼きハマグリ。
イカの丸焼き。
海鮮丼。
あさりの味噌汁。
旬の刺身盛り合わせ。
どれも、
想像しただけでお腹が鳴りそうだった。
「……好きなもん頼め」
メニューから目を離さないまま、
彼が言う。
「え、でも、お金……」
「一週間働いた。今日くらい食っていい」
さらっとした言い方だったけれど、
その一週間がどれだけの重労働だったか、
私は少しだけ知っている。
漁港で冷凍マグロを運んでいるカミヤさんを、
何度か遠くから見かけたからだ。
汗に光る銀色の粒子。
誰よりも重い荷物を、黙々と運ぶ姿。
「……本当ですか」
「ああ」
即答。
それだけ。
でも、その「本当」が、
やけに胸に響いた。
「じゃあ……」
メニューの文字を、
真剣に一つ一つ追っていく。
焼きハマグリ。
海鮮丼。
イカ焼き。
どれか一つなんて選べない。
全部、
「今日」という一日に刻みつけたい。
「焼きハマグリと、海鮮丼と、イカ焼きと……」
「食いすぎだろ」
すかさず突っ込まれる。
「だって、おごりって言ったじゃないですか」
「……チッ」
舌打ち。
でも、その口元は、
ほんの少しだけ緩んでいた。
おばちゃんに注文を伝えると、
ほどなくして、七輪がテーブルの上に運ばれてきた。
炭火の上に、
殻付きのハマグリが並べられる。
パチ、パチ。
殻の隙間から汁が滲み出して、
香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「うわぁ……」
目が勝手に輝く。
そのすぐあとに、
イカの丸焼きが皿に乗ってやって来た。
表面に入れられた切れ目から、
じゅうじゅうと脂が弾けている。
そして、
丼いっぱいの白いご飯の上に、
これでもかと刺身が乗った海鮮丼。
赤、白、ピンク、オレンジ。
魚の身の色が、宝石みたいにきらきらしている。
「……いただきます」
自然と、そう口にしていた。
一番最初に、
ハマグリに箸を伸ばす。
殻がぱかっと開いて、
中からふっくらとした身が顔を出す。
汁が熱い。
慎重に殻を持って、
そっと口に運ぶ。
「あつっ……でも、……おいしい……!」
潮の旨味が、
口の中いっぱいに広がる。
噛むたびに、
ハマグリ特有の弾力と甘みが増していって、
それが喉を通る瞬間、
胸のあたりまで温かくなる。
続けて、
海鮮丼の刺身をひと切れ。
マグロ。
サーモン。
白身魚。
どれも、
さっきまで海の中を泳いでいたのが想像できるくらい、
新鮮だった。
「……おいしい……!」
思わず、何度も同じ言葉を繰り返してしまう。
「そうか」
カミヤさんは、
自分の海鮮丼をゆっくりと口に運びながら、
それだけ言った。
「カミヤさんも、ほら」
私は、ハマグリを一つ、彼の方へ差し出す。
「うまっ、ですよ。絶対」
「子供か、お前は」
呆れつつも、
彼はそれを受け取って、
パクリと食べた。
ほんの一瞬だけ、
目を細める。
「……悪くねぇな」
それは、たぶん、彼なりの全力の褒め言葉だった。
イカ焼きも、
噛むとぷりぷりしていて、
タレの香ばしさが癖になる。
海の幸で満たされていくお腹と一緒に、
心のどこかの隙間も、
少しずつ埋められていく気がした。
窓の外では、
太陽がゆっくりと海へ沈んでいく。
空は、オレンジとピンクと紫が混ざり合った色に染まっていた。
その光が、店の中にも差し込んで、
テーブルの上のグラスや皿を金色に照らす。
「……あの、カミヤさん」
食事を終えかけた頃、
私は、そっと口を開いた。
「なんだ」
彼は、箸を置いて水を一口飲む。
「……ありがとうございます。今日、すごく楽しかった」
本心だった。
学校で、
家で、
スマホの中で。
「楽しい」という感情を、
もう二度と自分には許されないものだと思っていた。
でも今、
胸の中には、確かにその言葉があった。
「灯台に行って、海を見て、
おいしいご飯食べて……。
こんな日が、また来るなんて思ってなくて」
声が、少しだけ震えた。
泣きそうになるのを誤魔化すように、
私は窓の外の夕焼けに視線を向ける。
「……カミヤさんが、あの夜、私を助けてくれたからです」
あのトンネルで、
「助けて」と叫んだ私を。
「面倒くせぇ」と言いながらも、
ちゃんと拾い上げてくれたから。
「私、まだ……戦うか逃げるか、ちゃんと決められてないです」
正直に言う。
「学校も、家も、
全部捨ててしまえば楽なのかもしれないけど、
まだそこまでの勇気はなくて」
教室で机に座って、
彩音たちの笑い声を聞きながら耐える日々と、
全部捨てて知らない町で一から生き直す覚悟。
どちらも、
今の私には、
まだ重すぎる。
「でも――」
胸の中に、
小さな灯が点る感覚があった。
「今日みたいな日を、
またいつか自分で作れるようになりたいって、
少しだけ思いました」
誰かに連れてきてもらうんじゃなくて。
誰かにおごってもらうんじゃなくて。
自分で、
行きたい場所を選んで、
「楽しい」と言える日を。
それが、
たぶん、私の「生きたい」の形なんだと思う。
カミヤさんは、
黙って海を見ていた。
オレンジ色の光が、
彼の横顔を優しく照らす。
その表情は、
いつもより少しだけ柔らかく見えた。
「……飯がまずくなるような礼は、食い終わってから言え」
「もう食べ終わりました」
「じゃあギリギリだ」
ぶっきらぼうな言い方。
でも、それが、
変に優しい言葉よりもずっと心に沁みる。
窓の外で、
太陽が完全に海の中に沈んだ。
空に残った残照が、
ゆっくりと群青色へと変わっていく。
夜が、またやってくる。
でも今は――。
あの朽縁トンネルの闇とは違う、
静かで、やわらかな夜。
私は、
テーブルの下で、
こっそりと拳を握った。
戦うか、逃げるか。
その答えを、すぐに出せなくても。
少なくとも今日という一日だけは――。
「楽しかった」と、
胸を張って言える自分でいたかった。




