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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第10話:汚れた制服とひどい顔、それでも手を伸ばしてくれる背中に掴まる朝

 体育館の裏の土は、いつも湿っている。


 朝露が残っているからなのか、日当たりが悪いからなのか、

 理由はよく知らない。


 でも、靴の裏にまとわりつくこの重さが、私は嫌いだった。


「ねぇ、詩乃。まだ学校来てんの? 空気読めないの?」


 耳慣れた声が、頭の上から降ってくる。


 水沢 彩音。

 この学校で一番「普通」で、一番「人気者」な女の子。


 そして私を、地獄に落とした人。


「消えろって言ったよね。日本語わかんないの?」


 彼女の隣で、取り巻きの二人がくすくす笑う。

 一人は背が高くてモデルみたいで、

 もう一人は小柄で、いつも彩音の真似をしている。


 私は、俯いたまま黙っていた。


 何を言っても、どうせ「面白いおもちゃ」にしかならない。

 それは、一年間で嫌というほど学んだ。


「ねぇ、聞いてる?」


 彩音の指が、私の顎に触れた。

 ぐい、と無理矢理顔を上げさせられる。


「あっは。相変わらず、ゾンビみたいな顔」


 笑い声。

 スマホのシャッター音。


 あの日、SNSに晒された、制服を汚された写真と同じ音。


 胃の奥が、きゅっと縮んだ。


「ねぇ、詩乃。あんたさぁ、この前さ――」


 その時、

 彩音の指が、私の髪を鷲掴みにした。


「きゃっ――」


 頭皮が引きちぎられるみたいに痛い。

 視界がぶれる。


「まだ学校来てんの? マジでウケる。

 あんたがいるだけで、クラスの雰囲気悪くなるんだけど」


「つか、さっさと転校すれば? てか消えれば?」


「そうそう。あたしたち、ちゃんと『消えろ』って言ってあげてるのに、無視とかマジありえなくない?」


 取り巻きの一人が、私の肩をトンと突いた。

 バランスを崩して、土の上に膝をつく。


 制服のスカートに、じわりと湿り気が染みこんできた。


(……どうして、またここにいるんだろう)


 朽縁トンネルで、

 私はあの夜、「死」を選ぼうとしていたはずだった。


 でも、「助けて」と叫んでしまって。

 カミヤさんに救われて。

 汐風ステーションで、温かい肉まんを食べて、

 彼の肩で眠って。


 次の日の朝。

 目を覚ましたとき、胸の奥に残っていたのは、

 不思議なほどの「空腹」と、「まだ終わってない」という感覚だった。


 戦うか、逃げるか選べ。


 あの人は、そう言った。


 でも、私はどっちも選べずに、

 翌日も、その次の日も、

 気づいたら学校に来ていた。


「普通」でいたかった。

 みっともない自分を、これ以上誰かに見せたくなかった。


 だから、また、「いつもの場所」に立っている。


「つまんない。反応しなよ。泣けば?」


 彩音が、わざとらしくため息をつく。


 私は、拭いきれない疲れと一緒に、

 小さく首を振った。


 泣いたところで、

 写真を撮られて、また笑われるだけだ。


 悔しいとか、悲しいとか、

 そういう感情は、どこかに置き忘れてきた気がしている。


 ただ、

「またか」と思うだけ。


「ねぇ、さ。あんたさ――」


 彩音の言葉が、途中で途切れた。


 風が、ふっと止まった気がした。


 体育館の裏。

 コンクリートの壁が、夏の気配を吸い込んで、うっすらと光っている。


 その足元。

 誰もいないはずの場所から、

 黒い何かが、するりと滲み出した。


「……え?」


 取り巻きの一人が、変な声を出す。


 土の上に、影が一つ増えていた。

 誰のものでもない、真っ黒な塊。


 それが、形を変えた。


 四つの脚。

 長い尾。

 尖った耳。


 狼。


 全身が、光を吸い込んだみたいに黒い。 闇そのものが、形になったみたいだった。


「な、なに、犬!? でかっ!」


 彩音の声が裏返る。


 その狼は、何も言わず――いや。


 次の瞬間、低く、腹の底を震わせるような唸り声が地を這った。


 グルルルル……


 喉の奥で石を擦り合わせるような、濁った音。


 空気がびり、と震える。


 狼はゆっくりと首を下げ、肩を盛り上がらせた。


 背の毛が逆立つ。


 漆黒の毛並みが、風もないのにざわりと波打つ。


 赤い目が、取り巻きの一人を射抜いた。


 逃げ場を塞ぐように、円を描くように歩く。


 一歩。


 土を踏む音が、やけに大きい。


 もう一歩。


 唇がゆっくりとめくれ上がる。


 白い牙が覗く。


 長い犬歯の先から、唾液が一滴、ぽたりと落ちた。


「ひっ――」


 取り巻きの喉が鳴る。


 狼は、ぐっと身を沈めた。


 今にも飛びかかる体勢。


 耳はぴんと立ち、尻尾は水平に伸び、視線は外さない。


 完全な捕食者の構え。


 次の瞬間。


 バッ、と地面を蹴った。


 牙が顔のすぐ横をかすめる。


 噛まない。


 だが、鼻先が頬に触れるほどの距離で止まる。


 熱い吐息が、彼女の肌を舐めた。


 ガチン、と歯を鳴らす。


「きゃあああっ!!」


 悲鳴と一緒に、取り巻きの身体が後ろにひっくり返る。


 土の上に、盛大に尻もちをついた。


「ちょ、ちょっとなに!? 押された!?」


 もう一人が叫んだ瞬間、

 黒い狼は、今度はそっちに向かって突っ込んだ。


 土煙。

 制服の汚れ。

「いたい!」という叫び。


 どれも、私がいつも聞かされてきた音に似ていて、

 でも、今は全部、逆向きに流れている。


 彩音たちの方が、

 怯えている。


「な、なんなのこの犬!? 汚い……最悪!」


 泥だらけになった彩音が、狼を指さす。


 狼は、ゆっくりと振り向いた。


 真っ赤な目が、彩音の足元をなぞる。

 その視線だけで、彼女の足が竦んだのが分かる。


「……っ、近寄んないでよ!」


 彩音が後ずさる。

 黒い狼は、まるでそれを追い詰めるみたいに、一歩、また一歩と近づいていく。


 でも、その動きはどこか緩慢で、

 わざと恐怖心だけを煽っているようにも見えた。


「きゃああああ!」


 ついに、彩音たちは悲鳴を上げて走り出した。

 体育館の裏から、正門の方へ向かって転がるように逃げていく。


 狼は追いかけない。

 その黒い身体は、

 彼女たちの背中を見送ったあと――


 すうっと、地面に溶け込んだ。


 さっきまで何もなかった場所に、

 元通りの「ただの影」だけが残る。


 私は、呆然とその光景を見つめていた。


 息をするのも忘れていたみたいで、

 肺がひくひくと痙攣している。


(……今の、見覚えがある)


 朽縁トンネル。

 あの夜、私を囲んだ暴走族を蹴散らした、

 真っ黒な狼。


「……」


 ゆっくりと顔を上げる。


 体育館の裏を囲むフェンスの向こう。

 校門へ続く坂道。


 そこに、

 原付バイクが一台、ぽつんと停まっていた。


 黒いジャケット。

 乱れた黒髪。

 琥珀色の瞳。


 カミヤさん。


 フェンス越しに、その瞳が静かにこちらを見ていた。


「……よう」


 いつも通りの、ぶっきらぼうな声。


「また会ったな」


 胸の奥が、きゅっと音を立てて締めつけられた。


 安堵と、

 情けなさと、

 嬉しさと、

 悔しさが、一度に押し寄せてくる。


 気づいたら、私は走っていた。


 体育館の裏からフェンス沿いに出て、

 校門の方へ向かって全力で。


「か、カミヤさん……!」


 息が上がる。

 足がもつれる。


 でも、止まれない。

 止まりたくなかった。


 彼の前までたどり着いて、

 私は急ブレーキをかけるみたいに立ち止まった。


 息が荒くて、うまく声が出ない。

 喉の奥が熱い。


 カミヤさんは、原付に跨ったまま、私を一瞥した。


「……ひでぇ面だな」


「……っ」


 容赦ない。


 でも、その言葉に、少し救われる。


「かわいそう」でもなく、

「大丈夫?」でもなく、

「つらいね」でもない。


 ただ、「ひでぇ」と言われる。


 ひどい顔をしてる自覚はあった。

 涙の跡。

 泥。

  ぐしゃぐしゃな髪。


 そこをちゃんと「ひどい」と言ってくれるのが、

 なんだか、まっとうな評価みたいで。


「……どっか行きてぇか」


 唐突に、彼が言った。


 問いというより、確認みたいな声音だった。


「……どこでもいいです」


 迷わず答えていた。


「ここじゃないところなら、どこでも」


 教室でも、体育館裏でも、

 家のリビングでも、

 スマホの画面の中でもない場所。


 私のことを、「空気読めない」とも「普通じゃない」とも言わない場所。


 それがどこなのか、まだ知らない。


 でも、この人の背中なら――

 少なくとも、「あのトンネル」から連れ出してくれた。


「……そうか」


 カミヤさんは、少しだけ息を吐いた。


 それから、原付の後ろを顎でしゃくる。


「乗れ」


 デジャヴみたいだ。


 あの夜と同じシチュエーション。

 原付。

 彼の背中。

「乗れ」というぶっきらぼうな誘い。


 でも、決定的に違うものが一つあった。


 私は、あの時みたいに泣いていなかった。


 涙腺は、カラカラに乾いている。

 泣きすぎて、出す涙も残っていないだけかもしれない。


 それでも――。


 今、私がこの手を伸ばすのは、

 あの夜みたいな「救命ボート」にしがみつくためじゃない。


 ここを、「一時的に」でも抜け出すためだ。


「……お願いします」


 小さく頭を下げてから、

 私は原付の後ろに跨った。


 制服のスカートを押さえて、

 足を上げる。


 彼の背中に、そっと腕を回す。


 ジャケットの布の感触。

 背中越しの、体温。


 あの夜と同じ。

 でも、私の心の中の景色は、少しだけ違っていた。


「落ちんなよ」


「はい」


 原付が動き出す。


 私は、もう振り返らなかった。


 体育館も、

 教室も、

 彩音たちのいる場所も。


 全部、

 背中の向こう側に置いていった。




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