第9話:汐風高校の校門前で、いじめの声に原付を止める三百年目の狼
朝四時。
空はまだ夜の名残を引きずって、群青色のままだった。
汐風町の漁港には、もう人の気配がある。
網を引きずる音、トラックのエンジン音、怒鳴り合う声。
魚と潮と、ディーゼルの匂いがぐちゃぐちゃに混ざって、鼻腔にまとわりつく。
狼谷――この町では「カミヤ」と名乗っている男は、そんな港の隅っこで、無造作に煙草を踏み消した。
金が、尽きかけていた。
道の駅で肉まんとコーンスープに千円を溶かし、
その後も二日ほど、安いカップ麺と缶コーヒーで誤魔化してきたが、
財布の中身は、もう笑えない薄さになっていた。
放浪者にとって、金がないというのは致命傷になり得る。
宿にも泊まれず、飯も食えず、
結果、余計なトラブルを招き寄せる。
だから、彼は仕事を探した。
港近くの古びたスナックの裏口。
錆びたドアと、油じみたコンクリート。
そこに、汐風町の「手配師」がいると、さる情報筋が教えてくれたのだ。
待つこと数分。
裏口のドアが、ギイ、と音を立てて開いた。
「おう、若いの。誰かと思や、前にかっさんとこで見た顔じゃねぇか」
白髪混じりの短髪に無精髭。
ヨレたジャンパーから煙草の煙をくゆらせている中年男――勝田だった。
「仕事、探してんだろ?」
「まぁな。数日食えるくらいでいい」
カミヤは肩をすくめる。
勝田は、じろりと彼を値踏みするように見た。
遠慮のない目線。
人を「商品」としても見られるプロの目だ。
「腕っぷしは?」
「……まぁ、それなり」
控えめに答える。
十階建てのビルから落ちても無傷で、
マグロのトロ箱くらいなら片手で山積みにできる自信はあるが、
そんなことを正直に言うほど、カミヤは正直者ではない。
勝田は、ふっと口元を歪めた。
「ふぅん……。まぁ、見りゃ分かるよ。背中が、肉体労働向きだ」
煙を吐き出しながら、ポケットからメモ帳を取り出す。
「漁港の荷揚げが人足欲しがってる。早朝四時から八時間。日給一万二千円。手渡し。飯は……自分でなんとかしろってさ」
条件としては、悪くない。
短期で、現金で、身元を深く聞かれない。
「明日からこい。……いや、今日か。もう四時だ。今から行けるか?」
「構わねぇ」
カミヤは即答した。
こういうとき、余計な駆け引きはしない。
必要なのは、明日の宿賃と、しばらくの飯代。
それだけだ。
「よし」
勝田は、メモ帳から一枚を破って渡す。
漁協の名前と担当者の簡単なメモ。
「この紙見せりゃ、話は通じる。……それと」
去りかけたカミヤを、勝田が呼び止めた。
「お前さん、前に潮見市でも似たような力仕事してたな?」
「……かもな」
「人間離れしたやつは、だいたい長生きするか、すぐ死ぬかの二択だ。お前は前者っぽい。
だがまぁ、ここじゃあまり目立つなよ。漁師連中は、面倒見ると決めたら義理堅ぇが、敵に回すとしつこいぞ」
「善処する」
曖昧な返事を残して、カミヤは港へ向かった。
それから、一週間。
重い冷凍マグロの箱を、
彼は片手で軽々と運んだ。
「おい新入り、そいつ二人で持つやつだぞ!」
「……あぁ?」
十箱目をひょいとトラックに積み上げたところで、年配の漁師が目を剥いた。
「マジで疲れねぇのか? ちょっとは休憩しろよ。倒れられたらこっちが困る」
「平気だ。働いてた方が、時間が早く潰れる」
カミヤは淡々と返し、氷のブロックを砕く作業に移る。
分厚い氷をスコップで砕き、魚の上に山ほどかけていく。
普通の人間なら、腰をやりかねない動作を、彼は休みなく続けた。
「化け物かよ……」
誰ともなく漏らした言葉に、
カミヤは苦笑いを浮かべる。
化け物かどうかなど、とっくに答えが出ている。
ただ、ここでそれを肯定してしまえば、
この「普通さ」が壊れる。
汗をかいても、彼の肌には、銀色の微かな粒子が混じる。
光の加減でそれに気づく者は、今のところいなかった。
夜明け前から昼過ぎまで働く日々が、一週間続いた。
日給一万二千円。
七日で八万四千円。
宿代と食費を差し引いても、ポケットにはそれなりに重みが戻ってきた。
財布の中の札を数えながら、カミヤは心のどこかで「もう少しだけ、この町にいてもいいか」と思い始めていた。
――詩乃の、その後も気になっていた。
汐風ステーションで、肩に頭を預けて眠ってしまった少女。
目を覚ましたとき、彼は何も言わずに、彼女を家の近くまで送り届けた。
家の前で、彼女は小さく頭を下げた。
『……ありがとうございました』
それだけ言って、
振り返らずに、玄関の中へ消えていった。
その背中を見届けてから、カミヤは一度だけ、空を仰いだ。
――さて。
あのガキは、どっちを選ぶか。
戦うか。
逃げるか。
どっちもできずに、また「消える」方へ引きずられるか。
一週間も経てば、答えは見えてくる。
ある昼下がり。
漁港の仕事帰り。
原付のエンジン音を、汐風高校の近くでふと緩めた。
特に理由はない。
ただ、通り道だから、というだけ。
だが、
体育館裏へと続く細い路地から聞こえてきた声が、その足を止めさせた。
「ねぇ、詩乃。まだ学校来てんの? 空気読めないの?」
嫌な響きの笑い声。
カミヤは、舌打ちを一つ落として、原付を停めた。




