第8話:面倒くさくて、放っておけない夜風のベンチ
柊木詩乃が、肩にもたれかかってきたとき、
カミヤの背筋は、ごく小さく跳ねた。
女に寄りかかられること自体は、初めてじゃない。
酔っ払いに絡まれることもあれば、
助けた相手にしがみつかれることもある。
だが、今、肩に乗っている重みは――
それらとは、まるで違っていた。
軽い。
折れそうなくらい軽い。
けれど、その軽さが、逆に重かった。
「死にたい」と言っていた少女の体重だ。
コーンスープの紙カップは、彼女の手から滑り落ちそうになっていた。
カミヤは何気なくそれを受け取り、ベンチの脇に置く。
「……寝やがった」
小さく呟く。
返事はない。
彼女の呼吸は、さっきまでと違って、落ち着いていた。
肩越しに伝わる胸の上下が、ゆっくり、一定のリズムを刻んでいる。
人間の眠りは、脆い。
けれど同時に、それは最大限の「無防備」でもある。
こんなふうに誰かに身体を預けて眠るなんて、
今の彼女からすれば、本来あり得ないはずだ。
それでも、眠った。
それが何より、雄弁だった。
このガキは、今この瞬間だけは――
「死ぬ」よりも、「眠る」方を選んだ。
三百年も生きていれば、人間の死に方も、生き方も、山ほど見てきた。
酒に溺れるやつ。
博打に溶けるやつ。
刃物に自分から向かっていくやつ。
どの「終わり方」も、結局は同じ場所に行き着く。
だが、「眠り」を選ぶやつは、まだ戻ってこられる余地がある。
カミヤは、空になった自分の紙カップを指で弄びながら、
目の前の駐車場をぼんやりと眺めた。
薄い霧が、海の方からうっすらと流れてきている。
トラックのヘッドライトに照らされて、白い帯のように揺れる。
さっきまで、朽縁トンネルの中で蠢いていた「何か」の気配は、
ここまで来るともう感じない。
代わりに、
彼の肩に寄りかかって眠る少女の体温だけが、やけに鮮明だった。
「……俺の影みたいなもん、ねぇ」
さっき自分で言った言葉を、心の中で反芻する。
クロのこと。
自分の「影」のこと。
人一倍孤独だから、勝手に動き出した――
冗談半分、本音半分のそれは、あながち的外れでもない。
仲間は、とっくにいない。
同じ時間を生きる存在も、もうどこにもいない。
人間たちの寿命は、あまりにも短い。
守ったやつは、みんな先に行く。
残されるのは、いつもカミヤだ。
だから、もう深く関わらないようにしてきた。
港町で会ったリオとも。
橋の上で泣いていたナギとも。
そして、今、肩に眠るこの少女とも。
「……面倒くせぇ」
ぼそりと呟く。
本来なら、あのトンネルから助け出した時点で、
自分の役目は終わっているはずだった。
警察に突き出すなり、
近くの交番に預けるなりして、
さっさとこの町を離れる。
それが、一番手っ取り早くて、安全で、正しい。
だが――。
今、この弱っちい体温を、
眠り込んでいる無防備な横顔を、
警察の手に渡す光景が、どうしても想像できなかった。
あのトンネルに向かうまでの道のり。
どんな思いで、ここまで来たのか。
水沢彩音とやらの名。
教師の無関心な顔。
家の中の匂い。
そういうものが、断片的に、朽縁トンネルの空気の中に混ざっていた。
このガキを、ただ「保護しました」で終わらせるには、
あまりにも話の途中すぎる。
カミヤは、彼女の頬にかかった前髪を、指先でそっと払った。
触れた指先に、かすかな震えが伝わる。
眠っていても、完全には力が抜けきっていない。
それだけ、今までの時間が、彼女にとって恐怖の連続だったということだ。
「お前も、大概だな」
独り言のように呟く。
「死にたいだの、消えたいだの言っといて。
いざって時には、『助けて』なんて叫びやがって」
責めるでもなく、
呆れ半分、安堵半分。
叫んだから、今こうして生きている。
叫ぶだけの力が残っていたから、間に合った。
魂の底で、まだ「生きたい」と足掻いていた証拠だ。
カミヤは、自分の胸ポケットを指先で探った。
中に、薄っぺらい御守りが触れる。
凪が置いていった、あの小さな「狼の影」の気配も、
ほんの微かに、彼の影の中で揺れている。
――また、拾っちまったな。
そう思いながら、
彼はベンチから立ち上がらなかった。
トラックの運転手が、煙草を吸いに出てきて、
彼らの前を通り過ぎる。
眠る女子高生と、その肩に座る若い男。
妙な取り合わせだが、運転手は少し怪訝そうに見るだけで、
それ以上は何も言わずに建物の中へ戻っていった。
時計を見れば、もう二時を回っている。
このまま朝までここで眠らせるわけにもいかない。
身体が冷えるし、何より――
詩乃の「日常」に戻るための段取りを、そろそろ考えなければならない。
学校。
家。
いじめ。
龍二みたいな分かりやすい暴力の方が、
カミヤにとってはまだ戦いやすい。
人間たちの、目に見えない悪意。
笑い声の形をして近づいてくる毒。
そういうものを相手取るのは、
ただ殴ればいいわけじゃないから、厄介だ。
「……それでも、放っとけねぇんだよな。俺は」
諦めにも似た笑いが、喉の奥から漏れた。
詩乃の頭が、その振動に合わせて、かすかに揺れる。
それでも、彼女は目を覚まさない。
カミヤは、空を見上げた。
月は、さっきよりも少しだけ傾いている。
十日月の白い光が、雲の切れ間から、ぽっかりと滲んでいた。
満月には、まだ遠い。
だからこそ、今のうちにやれることをやっておかなければならない。
満月になれば、
彼の「獣」の部分は、今よりもっと暴れたがるだろう。
そのときまでに――
この少女の「居場所」の問題に、ある程度のケリをつけておきたい。
面倒だ。
本当に、面倒くさい。
だが、
彼女が「助けて」と叫んだ声は、
確かにカミヤの耳に届いてしまった。
一度聞いてしまった声を、
無視できるほど、彼は器用ではない。
琥珀色の瞳が、眠る少女の横顔をちらりと見る。
頬に残る、乾きかけた涙の跡。
眉間に寄った小さな皺。
それでも、さっきトンネルの前で見たときよりは、
わずかに柔らかくなった表情。
「……もうちょい寝かせてやるか」
小さく呟き、
カミヤは背もたれに体重を預けた。
夜風が、二人の影を長く引き伸ばしていく。
トンネルで暴れた影の狼たちは、
今は静かに、カミヤの足元の闇に戻っていた。
彼の孤独な「影」は、
この夜だけ、少しだけ、
温かいものに触れていた。




