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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第7話:汐風ステーションの夜、肉まんとコーンスープと名前の話

 どれくらい走ったのかよく分からない。


 時計なんて見る余裕はなかったし、

 時間の感覚自体が、さっきからどこかへ行ってしまっていた。


 ふいに、原付の速度が落ちた。


 顔を上げると、前方に光の帯が見えた。

 大きな駐車場と、暗い中でぽつんと明かりを灯している建物。


 道の駅――。


 ネオンの看板に「汐風ステーション」と書いてあるのが、ヘッドライトに照らされて浮かび上がった。


 駐車場には、トラックが数台、アイドリング音を響かせて停まっている。

 人気はほとんどない。自販機の明かりだけが、夜の中に白く浮かんでいた。


 原付が建物の前に停まる。

 エンジンが切れて、さっきまで耳の奥に鳴っていた振動が、ふっと消えた。


 急に訪れた静けさに、身体が少しだけ揺さぶられる。


「降りろ」


 前から声がして、私は慌てて彼の腰から腕を離した。

 名残惜しさと、気まずさが、一緒くたになって胸の奥でもつれる。


「……ありが、とうございます」


 どうにか搾り出した言葉は、それくらいだった。


 彼は「ん」とだけ返し、さっさと原付から降りる。


 建物の入口へ向かう途中、ジャケットのポケットに手を突っ込んで、何かを確かめている様子だった。


 自動ドアの前で、彼が一瞬だけ立ち止まる。

 何かを計算しているような顔。


 それから、ふっと小さく息を吐いて、店内へ入っていった。


 私は少し遅れて、その背中を追いかける。


 中は、コンビニみたいな明るさだった。


 地元の野菜やお土産コーナーは、すでにビニールシートがかけられていて、

 レジの横だけが夜間営業モードになっていた。


 自販機コーナー。

  軽食の棚。

 電子レンジの前に、ひとつだけテーブルと椅子。


 深夜二時。

 客は、私たち以外いないみたいだった。


 彼は迷わず、ホットドリンクのケースの前へ向かう。

 透明なガラスの向こうに、紙コップ入りの飲み物が並んでいる。


 しばらく眺めてから、

 一番値段の高いコーンスープに手を伸ばした。


 それを二つ。


 続けて、レジ横の蒸し器を指さす。

 白い湯気の向こうで、肉まんがいくつも並んでいる。


「肉まん、二つ」


 店員さんは眠たそうな目をこすりながら、肉まんを紙に包んでくれた。


 彼は、財布からくしゃくしゃになった千円札を三枚出す。

 財布の中には、それだけしか入っていなかったのが、横からでも分かった。


「全財産」って、こういうことなんだ。


 それを、ほとんど迷いもなく、私に使っている。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 レシートを受け取ると、彼は振り返った。


「外、座るぞ」


 外のベンチに出ると、海風がまた少し冷たく感じた。

 それでも、さっきの山の空気に比べれば、ずいぶん生ぬるい。


 ベンチは金属製で、座ると太ももからじんわりと冷気が伝わってくる。

 でも、その前に差し出された紙コップだけは、反対に驚くほど熱かった。


「……私の分も?」


「当たり前だろ。二つあって一人で二つ飲むやつは、ただのバカだ」


 言い方は乱暴なのに、その言葉が、なんだかくすぐったくて。

 思わず、唇の端が少しだけ上がる。


「食え。腹が減ってると、余計なことばっかり考える」


 彼はそう言って、自分の肉まんを大きくかじった。


 白い湯気が、夜の中に広がる。

 ソースと肉の匂いが混ざって、途端に胃がきゅるきゅると騒ぎ出した。


 ふと気づく。


 そういえば、いつから何も食べていなかったんだろう。


 昼休み、購買で買ったパンは、

 水沢さんに「太るよ」と笑われて取り上げられた。


 家に帰っても、食欲はなくて。

 夕飯もほとんど喉を通らなかった。


 それから、家を出て――。


 お腹が、ひどく空いている。


「……いただきます」


 小さく呟いて、肉まんを両手で包む。

 皮はふかふかで、指にほのかな油が移る。


 恐る恐る、一口かじった。


「……っ」


 熱い。

 でも、美味しい。


 ふわふわの白い皮の中から、じゅわっと肉汁が溢れてくる。

 塩気と脂の旨味が、舌の上に広がって、

 それが喉を通るとき、胃のあたりがじんわりと温かくなった。


 単純な味。

 よくあるコンビニの肉まんの味。


 なのに、涙が出た。


 視界がぼやけて、肉まんの形がよく見えなくなる。

 唇の端からこぼれかけた肉汁と一緒に、涙もぽとり、と紙に落ちた。


「……なんで泣く」


 呆れたような声。

 でも、完全に突き放すでもなく、不器用に戸惑っている響きが混ざっていた。


「わ、かんない、です……」


 本当に分からない。


 誰かに肉まんを買ってもらったくらいで。

 温かいコーンスープを渡されたくらいで。


 なんで、こんなに。


「……だって、こんな時間に、私なんかのために、お金、使って……」


「いや、俺も食うけど」


 即座に突っ込まれる。

 涙が出ているのに、少しだけ笑ってしまう。


 変な人だ。

 優しいって言葉では、うまく言い表せない。


「それに、三千円あって一千円使っただけだ。まだ二千円ある。贅沢だろ」


「ぜ、贅沢……?」


「一晩、屋根のあるところに寝られる金があれば、十分贅沢だ」


 旅人みたいな言い方。

 ホームレスさんみたいでもあるけど、

 彼の纏う空気は、そういう生活感とはなぜか噛み合わなかった。


 紙コップの蓋をそっと開けると、

 コーンスープの黄色い表面から、湯気がふわっと立ち上がる。


 両手で包んで、口元に運ぶ。

 一口、すする。


 甘い。

 とろりとしていて、塩気が強すぎなくて、

 口の中に甘みがじんわりと広がっていく。


 冷えきっていた体の中心に、

 何か熱いものが、そっと置かれていくみたいだった。


 それが、胸の真ん中にまで届いた頃。

 私は、ようやく口を開いた。


「……あの」


 声をかけた瞬間、自分の鼓動がうるさくなる。


 呼び方を決めていなかったことに、今さら気づいた。


 お兄さん、でもない気がする。

 でも、他に何て呼べばいいのか分からない。


 結局、名前を呼ばないまま、言葉を続けた。


「その……」


 コーンスープのカップをぎゅっと握る。

 指先が少し震えているのが、自分でも分かった。


「……名前、聞いてもいいですか」


 彼は、少しだけ目を瞬かせた。


 不意を突かれた、という感じだった。


 ほんの数秒、沈黙。

 その間に、私は「やっぱり聞くべきじゃなかった」と後悔しかけていた。


 けれど彼は、特に怒ったりするでもなく、

 紙コップを口元へ運んで残りを飲み干し、それからぼそっと答えた。


「……狼谷」


 聞き慣れない名字。


「かみたに、さん……?」


「カミヤでいい」


 ぶっきらぼうに言い直される。

 でも、その言い方が、なんだか少しだけ照れているようにも聞こえた。


「カミヤ、さん……」


 口の中で、その名前を反芻してみる。


 さっきまで「お兄さん」だった匿名の存在が、

 急に立体的になって、すぐ目の前にいる「誰か」になった気がした。


 名前を知っただけなのに、距離が少しだけ近くなる。

 それが嬉しくて、胸の奥がちくりと痛む。


「……私は、朝比奈です。朝比奈 澪」


 それだけじゃ足りない気がして、慌てて続ける。


「澪って、呼んでくれても……いいです」


 最後の方は、ほとんど聞き取れないくらい小さな声になってしまった。


 カミヤさんは、ちょっとだけ視線を逸らす。

 それから、面倒くさそうに、でもちゃんとこちらを向いて言った。


「……朝比奈、な」


「……澪、でも」


 思いきって言い直す。


 彼の眉が、ほんの少しだけ上がった。


「……澪」


 その名前を呼ぶ声は、思っていたよりも低くて、落ち着いていて。

 さっき走っていた山の闇よりずっと、安心する色をしていた。


 それだけのことで、胸がいっぱいになる。


 自分の名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しいなんて。

 いつから忘れていたんだろう。


「……あの、さっき……あの黒い、狼……?」


 勢いで、続けてしまう。


 影から出てきた、真っ黒な獣の姿が脳裏によみがえる。

 あれがいなかったら、私は今ここにいない。


「……あれって、一体、何なんですか?」


 カミヤさんは、ほんの少しだけ間を置いた。


 紙コップを傾け、コーンスープを飲み干す。

 喉がごくりと鳴った。


 それから、視線を海の方へ向けたまま、ぼそりと言う。


「……まぁ、俺の影みてぇなもんだ」


「影……」


「俺が人一倍孤独だから、影が勝手に動き出したんだろ」


 冗談みたいな言い方。

 でも、その声の奥に、かすかな本音の色がにじんでいる気がした。


 人一倍、孤独。

 さっき、トンネルで銀色の粒子を散らしながら平然と怪我を治していた姿が、ふと頭をよぎる。


 普通じゃない人。

 普通じゃない何か。


 でも、それ以上に――。


 その言葉が、妙に胸に響いた。


「……分かる気がします」


 口をついて出た言葉に、自分でも驚く。


「私は、学校で『普通じゃない』って言われて……。

 空気読めないとか、真面目すぎるとか、

 笑うタイミングがズレてるとか。

 ……独りぼっちだと思ってました」


 取り囲む笑い声の中で。

 グループLINEの既読スルーの中で。

「友だちたくさん」と笑うクラスメイトの中で。


 自分だけが、透明な壁の外側にいるみたいだった。


 カミヤさんは、少しだけこちらを向いた。

 琥珀色の瞳が、コンビニの明かりを受けて、柔らかく揺れている。


「普通なんて、多数決のわがままだ」


 ひどく簡単に言ってのけた。


「気にするな。お前はお前だ。それ以外の何者でもねぇ」


 それは、

「お前は特別だ」と甘やかす言葉でもなく、

「そのままでいいよ」と安く慰める言葉でもなかった。


 ただ、「お前はお前だ」と。

 それだけを、真っ直ぐに肯定された気がした。


 胸の奥の、誰にも触れてほしくなかった場所に、

 そっと、でも確かに指先を置かれたみたいだった。


 喉の奥が、きゅっと締めつけられる。

 何か言いたいのに、言葉がうまく見つからない。


 代わりに、身体が勝手に動いた。


「……ちょっとだけ、いいですか」


 そう言って、私はそっと、カミヤさんの肩に自分の頭を預けた。


 彼の身体が、ぴくりと固くなるのが分かる。

 それでも、振り払われることはなかった。


 ジャケット越しの肩は、思っていたよりも広くて、硬かった。

 でも、その下に流れている体温は、どこまでも優しい温度だった。


 瞼が、重くなる。


 さっきまで、アドレナリンだけで無理矢理起きていたのかもしれない。

 安心した途端、全身の力が抜けていく。


 遠くで、トラックのエンジン音がうなる。

 自販機のモーター音。

 波の音。


 それら全部が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 カミヤさんの肩は、不思議なくらい、眠りを誘う温度をしていた。


 さっきまで「死にたい」としか思えなかった心が、

 今はただ「眠りたい」とだけ願っている。


 私は、その広い肩に頭を預けたまま、深い眠りに落ちていった。


 ――三百年を生きる孤独な人狼の肩は、

 驚くほど広くて、温かかった。


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