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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第6話:「死にたい」の裏側で、「汚されたくない」と叫んだ本音

 山を下りると、空気の匂いが変わった。


 塩の匂い。

 湿った潮風。

 遠くから聞こえてくる、波のぶつかる音。


 原付はいつの間にか、海沿いの県道に出ていた。

 道路の脇に、ガードレールの向こうの黒い海が、ところどころ顔を覗かせている。


 街灯が等間隔に立っていて、その明かりの下を通るたび、

 彼の髪がオレンジ色に、またすぐ暗い色に戻っていく。


 原付のエンジン音だけが、一定のリズムで鳴っていた。

 他には、何も聞こえない。


 背中から伝わる体温は、さっきと変わらない。

 夜風にあてられているはずなのに、全然冷めない。


 私は、無意識に指に力を込めていた。

 黒いジャケットの布を、爪が食い込むほど握りしめている。


 もし、この手を離したら。

 また、あのトンネルの前みたいな場所に戻ってしまう気がした。


「……死のうとしてたんだろ」


 急に、彼が言った。


 前を向いたまま。

 速度も変えず、視線も逸らさず。

 ただ、少しだけ声のトーンを落として。


「あのトンネルで」


 心臓が、どくん、と跳ねた。


 やっぱり、見透かされている。

 さっき、ガードレールの外側に立っていた私の足元。

 あの一歩。


 あの闇の向こうに「救い」を見てしまった、自分の弱さ。


 言い訳なんて、何もできない。


 否定すれば、みっともない嘘になる。

 肯定すれば、惨めな本音になる。


 どっちを選んでも、私の見苦しさは変わらない気がした。


 何も言えずにいると、彼は続けた。


「なのに、どうしてあの時、助けてって言った」


 ――あの時。


 トンネルの中。

 腕を掴まれて、制服に手を入れられそうになって。

 喉の奥から、勝手に出てきた叫び。


「助けて」。


 言った瞬間、自分でも驚いた。

 だって私は、さっきまで「死ぬ」ことしか考えていなかったはずなのに。


 彼の言葉には、同情も、慰めも、なかった。

 ただ、冷たい事実だけを突きつけてくる刃みたいな鋭さがあった。


「あいつらは遊び半分でお前を犯して、用が済んだら殺すつもりだったはずだ」


 表現が、あまりにも露骨で、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

「犯す」とか「殺す」とか、頭の中で薄ぼんやりとしかイメージしていなかった言葉が、今、急に生々しい現実になって突きつけられる。


「……本当に全部終わらせたいだけなら、抵抗せずに好きにさせてりゃ良かっただろ。どうせ死ぬんだから、順番が少し変わるだけだ」


「……っ!」


 喉の奥が、焼けるみたいに熱くなった。


 ひどい。

 あまりにも、ひどい。


 そう思う一方で、

「でも、その通りだ」とどこかで認めている自分もいた。


 あのトンネルに向かう途中、私は何度も心の中で繰り返していた。


 ――どうせ、もう終わりだから。

 ――誰にも迷惑かけないように。

 ――静かに、消えるだけ。


 なのに。


 暴走族たちに囲まれて、

 乱暴に腕を掴まれて、

 胸元に手をかけられた瞬間。


 全身の血が、凍りついて。

 心臓が、耳の奥でがんがん鳴って。

 頭の中が、真っ白になって。


 気づいたら、私は叫んでいた。


「助けて――っ!!」


 ――死ぬなら、一人で勝手に消えろよ。

 ――誰にも迷惑かけずに。

 ――そう自分で決めただろ。


 頭の片隅で、誰かが責め立てる声がする。

 それは、これまで散々言われてきた言葉たちの残響だった。


「……嫌、だったから」


 気づいたら、私はそう答えていた。


 ヘルメットの中で、自分の声が跳ね返って、何度も私の耳に届く。

 震えていて、かすれていて、でも、はっきりとした言葉だった。


「死にたかったのは、本当です」


 肺の奥に溜まっていた空気を、少しずつ吐き出していく。


「もう、これ以上何も感じたくなくて、消えてしまいたかった。

 学校も、家も、SNSも……息するたびに胸が痛くて。

 起きたくなくて。

 寝たくなくて。

 ……何も、したくなくて」


 海沿いの街灯が、ひとつ、またひとつ、後ろに流れていく。


「でも、あんな風に、物みたいに扱われて、踏みにじられて……。

 笑いながら、写真撮られて、友だちに回されて、

 『あいつ、マジでヤバくね?』ってまた笑われて……」


 そこまで言うと、喉が詰まった。


 イメージが、あまりにも鮮明すぎて。


 あの連中のスマホ。

 画面に映る、ぐちゃぐちゃに泣き顔をしている私。

 それを見て笑う、水沢さんたちの顔。


「そんな最期なんて、絶対に嫌だった」


 吐き捨てるように言う。

 自分でも驚くくらい、はっきりした拒絶の言葉だった。


 彼は、しばらく何も言わなかった。


 エンジン音だけが、変わらず一定のリズムで響いている。


「……わがまま、ですよね」


 自分から言っておきながら、胸の奥がずしんと重くなる。


「自分から命を投げ出そうとしたくせに、汚されるのは嫌だなんて。

 死ぬ瞬間にまで、プライドを持とうなんて……おかしいですよね」


 笑おうとして、うまく笑えなかった。

 唇がひきつって、痛いだけだった。


 私が守ろうとしていたのは、何だったんだろう。


 みんなから「価値がない」と言われ続けて。

 本当にそうなんだと、自分でも思い込もうとして。

「消えた方がいい」と、何度も自分に言い聞かせて。


 それでも。


 あんな連中に、泥を塗られる形だけは、どうしても嫌だった。


 自分で書いた「終わり方」のシナリオに、

 勝手に他人の落書きを上書きされるみたいで。


 彼の背中が、静かに私の言葉を受け止めていた。

 何も言わず、何も遮らず。


 しばらくの沈黙のあと、彼は鼻で小さく笑った。


「おかしかねぇよ」


 風に紛れるような、小さな声だった。


「それがお前の本音だろ」


 本音。


 自分でも、さっきまで気づいていなかった。

 死にたい、死にたい、と繰り返す言葉の奥に、

 もっとややこしくて、みっともなくて、でも確かにそこにある「わがまま」が隠れていたなんて。


 海風が、一段と強く吹き抜ける。

 彼の黒い髪が、私の頬に少しだけ触れた。


「いいか」


 彼が言葉を継ぐ。


「死にたいってのはな、今いる場所が苦しくて、そこから逃げ出したいってだけの話だ」


 原付の速度が、ほんの少しだけ落ちた気がした。

 まるで、言葉に合わせて、夜の景色にブレーキをかけているみたいに。


「でもお前は、あいつらに尊厳を奪われることには、魂の底から『NO』を突きつけた」


「尊厳」という言葉が、遠い国の言葉みたいに聞こえた。

 そんな立派なもの、私にまだ残っているのだろうか。


「……それはな、お前が自分自身をまだ見捨ててねぇ証拠だ」


 夜の風が、少しだけ柔らかくなった気がした。


 街灯の光が、路面に斑な模様を描く。

 その一つ一つを、原付が踏みしめて進んでいく。


「絶望してるのは事実だろうが、お前の魂はまだ死んでねぇ。

 汚されたくない、自分を安売りしたくない。

 ……その拒絶がある限り、お前はまだ、光の方を向いてる」


「光……」


 思わず、その言葉を繰り返していた。


 私の世界は、ずっと灰色だった。

 朝起きても、学校に行っても、教室に座っても。

 家に帰って、スマホを開いて、眠ろうとしても。


 何をしていても、色がなかった。


 でも今――。


 原付のメーターの赤い針。

 遠くに見えるコンビニの緑色の看板。

 そして何より、この背中の、体温の色。


「死にたいんじゃねぇ」


 彼は淡々と言う。


「これ以上傷つきたくないだけだろ。

 なら、戦うか逃げるか選べ」


 戦う。

 逃げる。


 学校。

 家。

 SNS。

 水沢さん。

 先生。

 お母さん。


 全部から、私はただ、黙って殴られていた。

 反撃もできず、逃げる場所も分からず、ひたすら耐えるだけだった。


「……死ぬのは、そのどちらにもなれなかった奴の、一番情けねぇ敗北だぞ」


 言い方はひどい。

 突き放すようで、冷たくて、容赦がない。


 でも、不思議と胸の奥が温かくなった。


「死ぬのは敗北」――そんな言葉、初めて聞いた。

 これまで大人たちはみんな、「死んじゃダメ」「生きてないとダメ」とだけ言った。


 そこに、「私」がいなかった。

 ただ「人間」という枠で一括りにされて、「人として」とか「生徒として」とか。


 でもこの人は、私を「一人の敗者候補」として見てくれている。

 情けない奴だと言いながらも、まだ勝負の途中にいる存在として扱ってくれている。


 私は、こみ上げてくるものをごまかすように、彼の背中にそっと額を押し当てた。


 黒いジャケットの布が、ひんやりしている。

 でも、その向こう側の体温は、やっぱり熱かった。


 溢れそうになる涙が、ジャケットの生地に吸い込まれていく。

 見えないところで、こっそりと。


 誰にも言えなかった。

 自分でも気づけなかった。


「死にたい」という言葉の裏側に、

 本当は「生きたい」という、もっとみっともなくて、必死な叫びが隠れていたことに。


 会ったばかりの、名前さえ知らないこの人は――。


 誰よりも深く、私の魂に触れてくれた。


 傷だらけで、ぐちゃぐちゃで、

 誰かに見せるなんてとてもできないと思っていた場所に、

 躊躇いもなく手を伸ばしてきた。


「お前はまだ死んでねぇ」って。

「光の方を向いてる」って。


 その言葉に、しがみつくことを、

 今だけは、自分に許そうと思った。



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