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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第5話:灰色の世界を抜けて、熱い背中と冷たい夜風のあいだで

 足が、もう上手く動かなかった。


 朽縁トンネルの入口。

 さっきまで暴走族たちが占拠していた場所は、嘘みたいに静まり返っている。


 ヘッドライトだけが、白く路面を照らしていた。

 その光の端で、私はアスファルトの上にへたり込んで、膝を抱えて震えていた。


 さっきまでのことが、全部悪い夢だったみたいに感じる。

 でも、腕に残る痛みが、あれが現実だったことを主張していた。


 乱暴に掴まれたところが、じんじんと熱い。

 制服の布の感触が、やけに鮮明で気持ち悪かった。


 耳の奥にはまだ、あの男たちの笑い声が残っている。


「ピチピチの女子高生じゃねぇか」

「後で回すか?」

「極楽見せてやる」


 吐き気がした。

 喉の奥まで込み上げてきて、でも何も出てこない。


 呼吸の仕方が分からない。

 肺がきゅうっと縮んで、空気が、うまく出入りしてくれない。


 そのとき。


「……怪我は」


 低い声が、頭のすぐ上から降ってきた。


 顔を上げると、逆光の中に人影があった。

 さっき、私を助けた人――。


 ヘッドライトの光で輪郭は眩しくてよく見えないのに、

 琥珀色の瞳だけが、不思議なくらいはっきりと見えた。


 夜の獣みたいな、光。

 でも、そこにはさっきの暴走族たちが向けてきたような、いやらしさも、舐めるような視線も、一つもなかった。


「……な、ない、です……」


 自分の声が、情けないくらい震えていた。


 本当は「分からない」が正解かもしれない。

 心も体も、どこがどれくらい傷ついているのか、まだうまく感じられない。


 でも、「怪我は」と聞かれて「ある」と答えたら、

 なんだか本当に壊れてしまいそうで。


 だから、私は咄嗟に「ない」と言った。


 彼は、じっと私を見下ろしていた。

 刺すような視線なのに、不思議と怖くはない。

 まるで、私の嘘ごと、全部見通されているような気がしただけ。


 ほんの少しの沈黙のあと、彼は短く頷いた。


「そうか」


 それだけ言うと、くるりと背を向ける。


 原付バイクのエンジン音が、再び低く唸り始めた。


 排気ガスの匂いに混じって、冷たい夜風が私の頬をかすめる。


 彼は振り向きもせず、当然のように言った。


「乗れ」


「……え?」


「こんな所に一人でいたら、幽霊より先に、さっきの連中がお前を餌にするぞ」


 さっきの連中が誰を指しているのか、考えるまでもなかった。


 幽霊。

 人間。


 どっちの方が怖いかなんて、考えるまでもない。

 少なくとも今日の私は、生きている人間の方が、ずっとずっと怖かった。


「……でも、私……」


 言いかけて、喉が詰まる。


「どこへ帰ればいいのか分からない」なんて。

「家なんて、もう帰る場所じゃない」なんて。す


 そんな惨めなことを、どうしても口に出せなかった。


 彼は振り返らない。

 ただ、その広い背中だけを、私に向けている。


 知らない人。

 名前も、年齢も、何も知らない人。


 さっき、あの黒い狼を操っていた。

 人間じゃない、何か。


 でも――。


 その背中から漂う空気は、なぜか、とても静かだった。

 怒ってもいないし、苛立ってもいない。

 哀れんでもいないし、見下してもいない。


 ただ、そこに「ある」だけ。


 私は、ガードレールに置いていた手を、ゆっくりと外した。

 立ち上がろうとした瞬間、足に力が入らなくて、膝が笑う。


「っ……」


 小さく声が漏れた。


 その気配を感じ取ったのか、彼は一歩だけ私に近づいた。


「立てるか」


「……大丈夫、です」


 意地になってそう答える。

 彼は「そうか」と短く返したきり、手を伸ばしてはこなかった。


 それが、ありがたかった。


 もしここで手を差し出されていたら、私はきっと、その温度にすがってしまっていただろう。

 この人に全部を預けてしまいそうで、それが怖かった。


 よろけながら、なんとか立ち上がる。

 足の裏にアスファルトの硬さが伝わってきて、少しだけ現実に引き戻される。


 原付まで、ゆっくり歩いていく。

 テールランプの赤が、夜の闇の中でぽつんと灯っていた。


 彼はもう、先に跨っていた。

 振り返りもせず、ただ前を見ている。


「……あの」


 声をかけると、肩だけがほんの僅かに動いた。


「私……」


 なんて言えばいいのか、分からない。


「送ってください」と頼むのも違う。

「一緒に連れて行ってください」と言えるほど図々しくもなれない。


 言葉に詰まっていると、彼が代わりに言った。


「後ろ、乗れ。落ちんなよ」


 迷いの欠片もない、当たり前みたいな言い方だった。


 私は、そっと原付の後ろに跨る。

 足元が一瞬ふらついて、前の人の背中に額がぶつかりそうになる。


「わっ……」


 慌てて身体を起こす。

 でも、どこに掴まればいいのか分からない。


 シートの端。

 荷台。

 彼のジャケットの裾。


 あたふたしていると、前からぶっきらぼうな声が飛んできた。


「落ちたら面倒だ。掴まれ」


「……ど、どこに」


「どこでもいい。骨は折れてもすぐ治る」


 それ、たぶん普通の人の台詞じゃない。

 思わず心の中で突っ込む。


 でも、突っ込みを声にする余裕はなくて、

 私は恐る恐る、彼の黒いジャケットの裾をつまんだ。


 そのままでは不安で、少しずつ指を移動させていく。

 背中の中央。

 布越しに感じる、硬い筋肉。


 あまりにも頼りなさそうに掴んでいたのだろう。

 彼が短く吐き捨てる。


「そんな摘まむみてぇに掴んでたら意味ねぇだろ。もっと、しがみつけ」


「し、しがみつくって……」


 躊躇している間に、原付はじり、と前に進んだ。


 バランスを崩しそうになって、反射的に身体が前へ倒れる。

 咄嗟に、彼の腰のあたりに腕を回した。


 ごつごつとしたベルトの金具が、手首に当たって冷たい。

 それでも、その内側から伝わってくる体温は、驚くほど熱かった。


 ぎゅっと力を込めると、彼の身体がその分だけ、わずかに揺れた。


「……落ちんなよ」


「は、はい……」


 原付が、闇の中へ走り出す。


 タイヤがアスファルトを掴む感覚が、座面越しに伝わってきて、

 夜風が一気に顔を撫でた。


 冷たい。

 でも、彼の背中は、もっと熱い。


 私はジャケットの布に額を押し当てた。

 彼の体温と、微かに混じるオイルと煙草の匂い。


 さっきまで、世界全部が灰色に見えていたのに。

 今は、この背中だけが、やけに色を持っているみたいだった。


 トンネルの闇が遠ざかっていく。

 バックミラーの中で、朽縁トンネルの黒い口が、小さく、小さくなっていくのが見えた。


 あそこに、私はさっきまで「消えよう」としていた。

 何もかも、なかったことにしようとしていた。


 けれど――。


 今、こうして誰かの背中にしがみついている。

 この体温を、必死で逃すまいとしている。


 自分の中で、何かがひび割れて、

 その隙間から冷たいものと熱いものが、一緒くたになって溢れ出しそうだった。


 私は、震える唇を噛んで、ただ、彼の背中にしがみついていた。



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