第5話:灰色の世界を抜けて、熱い背中と冷たい夜風のあいだで
足が、もう上手く動かなかった。
朽縁トンネルの入口。
さっきまで暴走族たちが占拠していた場所は、嘘みたいに静まり返っている。
ヘッドライトだけが、白く路面を照らしていた。
その光の端で、私はアスファルトの上にへたり込んで、膝を抱えて震えていた。
さっきまでのことが、全部悪い夢だったみたいに感じる。
でも、腕に残る痛みが、あれが現実だったことを主張していた。
乱暴に掴まれたところが、じんじんと熱い。
制服の布の感触が、やけに鮮明で気持ち悪かった。
耳の奥にはまだ、あの男たちの笑い声が残っている。
「ピチピチの女子高生じゃねぇか」
「後で回すか?」
「極楽見せてやる」
吐き気がした。
喉の奥まで込み上げてきて、でも何も出てこない。
呼吸の仕方が分からない。
肺がきゅうっと縮んで、空気が、うまく出入りしてくれない。
そのとき。
「……怪我は」
低い声が、頭のすぐ上から降ってきた。
顔を上げると、逆光の中に人影があった。
さっき、私を助けた人――。
ヘッドライトの光で輪郭は眩しくてよく見えないのに、
琥珀色の瞳だけが、不思議なくらいはっきりと見えた。
夜の獣みたいな、光。
でも、そこにはさっきの暴走族たちが向けてきたような、いやらしさも、舐めるような視線も、一つもなかった。
「……な、ない、です……」
自分の声が、情けないくらい震えていた。
本当は「分からない」が正解かもしれない。
心も体も、どこがどれくらい傷ついているのか、まだうまく感じられない。
でも、「怪我は」と聞かれて「ある」と答えたら、
なんだか本当に壊れてしまいそうで。
だから、私は咄嗟に「ない」と言った。
彼は、じっと私を見下ろしていた。
刺すような視線なのに、不思議と怖くはない。
まるで、私の嘘ごと、全部見通されているような気がしただけ。
ほんの少しの沈黙のあと、彼は短く頷いた。
「そうか」
それだけ言うと、くるりと背を向ける。
原付バイクのエンジン音が、再び低く唸り始めた。
排気ガスの匂いに混じって、冷たい夜風が私の頬をかすめる。
彼は振り向きもせず、当然のように言った。
「乗れ」
「……え?」
「こんな所に一人でいたら、幽霊より先に、さっきの連中がお前を餌にするぞ」
さっきの連中が誰を指しているのか、考えるまでもなかった。
幽霊。
人間。
どっちの方が怖いかなんて、考えるまでもない。
少なくとも今日の私は、生きている人間の方が、ずっとずっと怖かった。
「……でも、私……」
言いかけて、喉が詰まる。
「どこへ帰ればいいのか分からない」なんて。
「家なんて、もう帰る場所じゃない」なんて。す
そんな惨めなことを、どうしても口に出せなかった。
彼は振り返らない。
ただ、その広い背中だけを、私に向けている。
知らない人。
名前も、年齢も、何も知らない人。
さっき、あの黒い狼を操っていた。
人間じゃない、何か。
でも――。
その背中から漂う空気は、なぜか、とても静かだった。
怒ってもいないし、苛立ってもいない。
哀れんでもいないし、見下してもいない。
ただ、そこに「ある」だけ。
私は、ガードレールに置いていた手を、ゆっくりと外した。
立ち上がろうとした瞬間、足に力が入らなくて、膝が笑う。
「っ……」
小さく声が漏れた。
その気配を感じ取ったのか、彼は一歩だけ私に近づいた。
「立てるか」
「……大丈夫、です」
意地になってそう答える。
彼は「そうか」と短く返したきり、手を伸ばしてはこなかった。
それが、ありがたかった。
もしここで手を差し出されていたら、私はきっと、その温度にすがってしまっていただろう。
この人に全部を預けてしまいそうで、それが怖かった。
よろけながら、なんとか立ち上がる。
足の裏にアスファルトの硬さが伝わってきて、少しだけ現実に引き戻される。
原付まで、ゆっくり歩いていく。
テールランプの赤が、夜の闇の中でぽつんと灯っていた。
彼はもう、先に跨っていた。
振り返りもせず、ただ前を見ている。
「……あの」
声をかけると、肩だけがほんの僅かに動いた。
「私……」
なんて言えばいいのか、分からない。
「送ってください」と頼むのも違う。
「一緒に連れて行ってください」と言えるほど図々しくもなれない。
言葉に詰まっていると、彼が代わりに言った。
「後ろ、乗れ。落ちんなよ」
迷いの欠片もない、当たり前みたいな言い方だった。
私は、そっと原付の後ろに跨る。
足元が一瞬ふらついて、前の人の背中に額がぶつかりそうになる。
「わっ……」
慌てて身体を起こす。
でも、どこに掴まればいいのか分からない。
シートの端。
荷台。
彼のジャケットの裾。
あたふたしていると、前からぶっきらぼうな声が飛んできた。
「落ちたら面倒だ。掴まれ」
「……ど、どこに」
「どこでもいい。骨は折れてもすぐ治る」
それ、たぶん普通の人の台詞じゃない。
思わず心の中で突っ込む。
でも、突っ込みを声にする余裕はなくて、
私は恐る恐る、彼の黒いジャケットの裾をつまんだ。
そのままでは不安で、少しずつ指を移動させていく。
背中の中央。
布越しに感じる、硬い筋肉。
あまりにも頼りなさそうに掴んでいたのだろう。
彼が短く吐き捨てる。
「そんな摘まむみてぇに掴んでたら意味ねぇだろ。もっと、しがみつけ」
「し、しがみつくって……」
躊躇している間に、原付はじり、と前に進んだ。
バランスを崩しそうになって、反射的に身体が前へ倒れる。
咄嗟に、彼の腰のあたりに腕を回した。
ごつごつとしたベルトの金具が、手首に当たって冷たい。
それでも、その内側から伝わってくる体温は、驚くほど熱かった。
ぎゅっと力を込めると、彼の身体がその分だけ、わずかに揺れた。
「……落ちんなよ」
「は、はい……」
原付が、闇の中へ走り出す。
タイヤがアスファルトを掴む感覚が、座面越しに伝わってきて、
夜風が一気に顔を撫でた。
冷たい。
でも、彼の背中は、もっと熱い。
私はジャケットの布に額を押し当てた。
彼の体温と、微かに混じるオイルと煙草の匂い。
さっきまで、世界全部が灰色に見えていたのに。
今は、この背中だけが、やけに色を持っているみたいだった。
トンネルの闇が遠ざかっていく。
バックミラーの中で、朽縁トンネルの黒い口が、小さく、小さくなっていくのが見えた。
あそこに、私はさっきまで「消えよう」としていた。
何もかも、なかったことにしようとしていた。
けれど――。
今、こうして誰かの背中にしがみついている。
この体温を、必死で逃すまいとしている。
自分の中で、何かがひび割れて、
その隙間から冷たいものと熱いものが、一緒くたになって溢れ出しそうだった。
私は、震える唇を噛んで、ただ、彼の背中にしがみついていた。




