第4話:影の狼が吠える夜と、ボロ原付の面倒くさい正義
「……うるせぇな」
俺は、わざとらしく耳をほじる仕草をした。
トンネルの出入口。
バイクのエンジン音と、暴走族の笑い声と、少女の悲鳴。
全部まとめて、耳障りだった。
「夜中に騒ぐんじゃねぇよ。耳に響くだろうが」
低い声でそう言うと、五つの視線が一斉にこちらを向いた。
「は? なんだお前」
「調子乗ってんじゃねぇぞ、ボロ原付」
鉄パイプが一本、がしゃりと音を立てて持ち上げられる。
龍二の取り巻きの一人が、威嚇するように振り回した。
俺は、ため息をついた。
「……おまえらってさ。数がちょっと集まると、すぐ群れの力でイキり出すよな」
誰に言うでもなく呟くと、龍二が眉をひそめた。
「あ? 聞こえねぇよ。もっとデカい声で――」
「聞かなくていい」
俺は、手を軽く振った。
その動きに合わせるみたいに、足元の影が、月光から逃れるように濃く沈む。
トンネルの入口。
ヘッドライトの白い光と、月の青白い光が、地面に複雑な陰影を落としている。
その陰が、ぐにゃり、と――不自然な形に歪んだ。
「おいおい、なんだよ、兄ちゃん。マジで死にてぇのか?」
龍二が、ニヤニヤと笑う。
詩乃の腕を離さないまま、俺の方に鉄パイプを向けた。
ああ、もう。
面倒くせぇ。
「クロ」
小さく呼ぶ。
名前は、ほとんど息だけで吐き出した。
応えるように、俺の足元の影が、音もなく膨らんだ。
黒い水たまりが、逆再生の映像みたいに、地面から立ち上がっていく。
輪郭がぶれながら延び、四つの脚を形作り、尾を生やし、耳を尖らせる。
漆黒の狼。
光を一切、反射しない黒。
そこにぽつり、と赤い燐光みたいな目だけが灯った。
それは、俺の横に立つと、ゆっくりと牙を剥いた。
「……は?」
最初に声を漏らしたのは、龍二ではなかった。
取り巻きの一人が、喉の奥から変な音を出す。
「ヒッ……!? な、なんだ、これ……?」
「オイオイオイ、なにこれ、犬? ドッキリ? ははっ、マジ?」
笑いながら言ってはいるが、その声は完全にひきつっていた。
人間は、自分の理解を超えたものを前にしたとき、笑うか固まるかのどちらかしかできない。
クロは、赤い目で一通り、連中を舐めるように見回した。
俺は片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で軽く指を鳴らす。
「遊んでやれ」
その言葉を合図にしたみたいに、クロが動いた。
音が――なかった。
普通、こんな大きさの獣がコンクリートの上を走れば、爪と床が擦れる音がするはずだ。
でも、クロは、自分の影の中を滑るみたいに、無音で跳んだ。
一瞬で、龍二の取り巻きの一人の背後を取る。
牙が、ほんの一瞬、閃いた。
びしゃっ。
「ぎゃッ!」
男の腕に三本の紅い線が走る。
浅い――けれど、確実に皮膚を裂いた。
血が飛び散り、鉄パイプが手から転がり落ちた。
深くはない、かすり傷。
でも、その痛みよりも――「何か分からないものにやられた」という事実の方が、何倍も怖い。
「な、なんだよコイツ!? お、おい、龍二!」
「ビビってんじゃねぇよ! ただの犬――」
龍二が言い終わる前に、クロは天井に跳ね上がった。
ありえない角度で、ありえない高さへ。
トンネルの天井に、自分の影だけを貼り付けて走っていく。
現実の重力が、そこだけ軽くなったみたいだ。
赤い二つの目が、天井からこちらを見下ろす。
「化け物だ……!」
取り巻きの一人が、腰を抜かした。
バイクにしがみつくようにして、エンジンをかける。
「お、おい、逃げ――」
「クロ。殺すな。掃除が面倒だ」
俺がそう言うと、クロは舌打ちでもするみたいに一度だけ鼻を鳴らした。
そして――天井から、真下の男たちめがけて急降下した。
「うわあああああッ!」
叫び声が、トンネルの中で増幅され、反響していく。
クロの黒い身体が、男たちの腕や足を、ひっかくように掠めていった。
肉が裂け、布が破れ、血が飛ぶ。
それでも、急所だけは正確に外す。
痛みと恐怖だけを植え付ける、計算された傷。
クロは知っている。
俺が「殺すな」と言ったとき、本当にどこまでならやっていいのか。
「ヒイイイイッ、やべぇ、やべぇよコイツ!」「無理無理無理無理!!」
さっきまでイキっていた取り巻きたちが、我先にとバイクに飛び乗る。
エンジンが次々と悲鳴を上げ、タイヤがアスファルトを焦がすようにしてトンネルの奥へと逃げていく。
クロは追いかけない。
赤い目で、背を向けて逃げる彼らを見送る。
龍二だけが、その場に残った。
いや、残ったというより――足がすくんで動けないのだろう。
「……な、なんだよ、お前。お前も、化け物、か……?」
額に汗をだらだら流しながら、それでも彼は詩乃の腕だけは離さなかった。
執念、というより、執着。
俺は、ようやく彼の目を正面から見た。
「まぁ、だいたい合ってるよ」
ゆっくりと歩き出しながら言う。
「ただの通りすがりの化け物だ。面倒くさいけど、お前らみてぇなガキの相手も、仕事のうちでな」
龍二の喉が、ごくりと鳴った。
「ふ、ふざけんなよ……! ここは俺のシマなんだよ。テメェみてぇな余所者に――」
「シマ?」
笑いそうになった。
このトンネルの空気を吸って、よくそんなことが言えたもんだ。
「ここは元から、人間のシマじゃねぇよ」
朽縁トンネル。
この場所に、どれだけの「見えないもの」が積もっているのか。
俺には、なんとなく分かる。
この龍二ってガキも、多分――そのうちのどれかに、すでに噛まれてる。
詩乃の顔を見る。
彼女は、龍二の手に掴まれた腕を、必死に引き戻そうとしていた。
指先が白くなるほど力を込めている。
「離して……お願い、離して……」
涙が、目の縁に溜まっていた。
さっきまで、どこか他人事みたいに「死」を考えていた顔じゃない。
生きたいと、全身で叫んでいる顔だ。
俺は、龍二と詩乃の距離を、一気に詰めた。
クロが、俺の動きに呼応して、龍二の真後ろに回る。
「てめぇ、調子――」
鉄パイプが振り上げられた瞬間、俺は龍二の手首を掴んだ。
骨が、ミシ、と音を立てる。
握力を、ほんの少しだけ強くした。
「うぐっ……!」
「言ったよな。
夜中に騒ぐな。耳に響く」
間近で見る龍二の目の奥は、思っていた以上に空っぽだった。
悪意とか、快楽とか、そういうはっきりしたものよりも――虚しさの方が勝っている。
こういう目も、飽きるほど見てきた。
「お前、さ。
自分が一番、ここから消えてぇんじゃねぇの?」
「……は?」
意味が分かっていない顔。
だろうな。自覚できてるなら、こんな真似はしない。
「ま、今はどうでもいい」
手首から手を離す。
その瞬間、クロの牙が、龍二のすぐ足元――靴のつま先をかすめた。
「――ひッ!!」
ようやく、龍二の手が詩乃から離れた。
その隙を逃さず、俺は詩乃の肩を引き寄せる。
ガードレールの内側へ。
安全圏――と言えるかどうかは怪しいが、少なくとも、さっきよりはマシな場所へ。
詩乃の身体が、ビクビクと震えている。
肩越しに、彼女の浅い呼吸が聞こえた。
「だ、大丈夫、か……?」
口から出たのは、その一言だった。
自分でも間抜けな質問だと思う。
詩乃は、涙で濡れた目で俺を見上げた。
ヘッドライトの逆光の中で、彼女の瞳の中に、俺の顔が小さく映っている。
「……怪我は?」
聞き直す。
彼女は、かすかに首を振った。
「な、ない、です……」
声は震えていたが、それでもはっきりとした言葉だった。
「そ。なら、いい」
俺は、わざと視線を彼女から外す。
龍二の方へ向き直ると、指を一本、クロの方に立てた。
「おい、クロ」
赤い目が、こちらを向く。
「こいつら、追っ払え。」
クロは、口の端を持ち上げた。
笑ったように見えたのは、多分、俺がそう見たいからだ。
次の瞬間、漆黒の狼はトンネルの奥へ向かって駆け出した。
逃げかけていたバイクたちを追い越し、壁を駆け、天井を走り、彼らの恐怖心だけをひっかき回す。
龍二は、腰を抜かしたように地面に座り込んでいた。
俺は、そんな彼に近づくことなく、ただ一言だけ、吐き捨てる。
「お前らの続きは――あっちでやれ」
カミヤの冷徹な声が響くと同時に、彼の足元から這い出した漆黒の影が、粘り気を持って膨れ上がった。
一匹、また一匹。カミヤを護衛するように、闇から実体化した影狼たちが音もなく姿を現し、周囲を完全な包囲網で塞いでいく。
低く響く唸り声が、逃げ場を奪うように距離を詰める。
影狼達の赤い眼光が、龍二の退路を断ち、顎で指された「こちら側」ではない領域――トンネルの奥へと彼を追い詰めていく。
龍二が、震える手でバイクにしがみついた。
エンジンをかける手が、何度も空振りする。
「ひ、ひ、ひ……っ」
言葉にならない悲鳴を漏らしながら、ようやくバイクが動き出した。
背後から迫る影狼たちの気配に背中を焼かれるようにして、タイヤが火花を散らす。
彼は吸い込まれるように、闇の口を開けたトンネルの中へと逃げ込んでいった。
やがて、爆音は遠ざかり、カミヤの傍らに侍っていた影狼たちの赤い目も、役割を終えたかのように闇へと溶けて消えた。
朽縁トンネルの前に、残されたのは、俺と、詩乃と――夜の静寂だけだった。
「……チッ」
思わず舌打ちが出る。
「本当、面倒くせぇ夜だな」
でも、その「面倒くささ」がなかったら。
この少女は、もうここにはいなかった。
ガードレールの内側で、かすかに震えながら立っている。
彼女の髪が、月明かりを受けて揺れた。
さっきまで灰色に見えていた世界に、ほんの少しだけ、色が戻りかけている気がした。
俺は、彼女の方へと、もう一度だけ視線を向けた。
この夜が、どれだけ面倒な続き方をするかなんて、まだ知らないまま。
ただ一つ、分かっていたのは――。
さっき、彼女が叫んだ「助けて」という声は、
間違いなく、この世界のこちら側に向かって伸ばされたものだったってことだ。




