第3話:噛み合わない死にたい心と、生きようとする身体の震え
少女の足先が、ぎりぎりのところで地面を探す。
靴の底が、小石を蹴った。
からん、と、頼りない音が闇に吸い込まれていく。
落ちる。
このままだと、落ちる。
分かっていたのに、俺の体は、その一瞬、動かなかった。
殺し合いには慣れているくせに。
人間を、死から引き戻す距離感は、いまだに掴めない。
ほんのわずかな間。
それでも、崖縁にいる人間には致命的になり得る間。
少女は、ふっと目を閉じた。
まぶたの裏側に、何が浮かんでいたのか。
俺には見えない。
けれど、その表情は、あまりにも静かだった。
「――ここでなら、誰にも見つからずに消えられるかな……」
自分に言い聞かせるような声。
祈りとも、呪いともつかない響きが、夜気の中に溶けていく。
その静けさが――逆に、何かを刺激したのかもしれない。
人間の本能か。
それとも、俺の中にいまだ残っている獣の本能か。
脳裏のどこかが、甲高い警鐘を鳴らした。
――ダメだ。
言葉にならない警告が、背骨を走る。
足が、勝手に前へ出た。
伸ばした手が、宙を切る。
あと一歩、遅い。
その時だった。
静まり返った山道を、別の音が切り裂いた。
ドオオオオオオッ!!
爆音。
耳が痛くなるほどの、エンジンの咆哮。
直管マフラーの、品のない暴力的な音。
トンネルの向こう側から、光が飛び出してくる。
いくつも。
ばらばらに揺れながら、こちらへ近づいてくるヘッドライト。
その眩しさに、少女のまぶたがびくりと震えた。
閉ざしていた目が、反射的に開く。
彼女の体重が、ごくわずかに、後ろへ戻る。
落ちる一歩手前で、その本能的な反応が、かろうじて重力との均衡を保った。
トンネルの出口ギリギリまで、数台のバイクが一気に飛び出してくる。
特攻服。
錆びたチェーン。
タンクにべったりと貼られた、安っぽいステッカー。
暴走族。
最近じゃ珍しいくらい、教科書通りのやつらだ。
数は五。
「夜叉組」の刺繍が背中に踊っている。
俺は、舌打ちした。
「タイミング最悪だな、おい」
少女の足は、もう前には出ていなかった。
代わりに、全身が小刻みに震え始めている。
彼女は死ぬ準備をしていたのに。
生身の暴力が確実に自分へ向かってくると知った瞬間、その「準備」はあっさりと剥がれ落ちた。
これが、生き物としての本能だ。
どんなに頭で「死のう」と決めても、肉体は、最後の最後まで「生きよう」として足掻く。
残酷で、だからこそ、愛おしい。
俺は一歩、彼女の方に近づこうとした。
だが、その前に。
「おーおー……なんだぁ、これぇ?」
甲高い笑い声が、トンネルの内側から反響してきた。
五台のバイクのうち、一番前の一台が、ぎゃきんとブレーキをかけて停まる。
乗っていた男が、ヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てた。
脱色した髪。
下卑た笑み。
細い目の奥で、濁った光がぎらついている。
龍二。
このあたりを縄張りにしている、暴走族「夜叉組」のリーダー格だって噂は、数日前にかっさんの店で聞いていた。
「おーおー、いいもん見っけ。幽霊かと思ったら、ピチピチの女子高生じゃねぇか」
笑いながら、そいつはバイクから降りた。
仲間たちも、面白がるように口笛を吹く。
「マジだ、制服だぜ、やべー」「写真撮っとけよ、後で回すか?」
下品な声が、闇の中で増幅されていく。
トンネルのコンクリートが、彼らの笑いを何倍にも膨らませて返す。
少女――柊木詩乃は、凍り付いたように動けなくなっていた。
さっきまで自分の意思でまたごうとしていたガードレールが、今は背中を守る唯一の壁になっている。
言葉が出ない。
問いかけることなんて、とてもできない。
(ひっ、……あ……)
喉の奥で、引きつった悲鳴だけが空回りする。
目の前の男たちから発せられる熱気と悪意が、あまりにも生々しい。
自ら望んだ「死」は静寂そのものだったのに、彼らが持ち込んできたのは、泥にまみれた「暴力」だ。
龍二が、怯える彼女を見て嗜虐的な笑みを深める。
「なんだァ? 声も出ねぇか。可愛いねぇ」
一歩、彼が近づく。
そのブーツの音が、心臓を直接踏みつけるように響いた。
詩乃の顔から、さぁっと血の気が引いていく。
逃げなきゃ。
死ぬとか、生きるとか、そんな高尚な悩みは一瞬で吹き飛んだ。
ただ、ここから逃げ出したい。
この獣たちから、1ミリでも遠くへ。
けれど、足が縫い留められたように動かない。
詩乃の指先が、背後のガードレールをきつく握りしめる。
爪が、金属をひっかく嫌な音がした。
「……っ、……ぁ」
涙で潤んだ瞳が、助けを求めるように激しく泳ぐ。
「……あの……少しだけ……通してもらっても、いいですか……? すぐ帰ります……」
彼女はもう、自殺志願者ではない。
ただの、怯えきった獲物だった。
さっきまで「帰りたくない」と言っていた口で。
帰りたくない家と、今目の前にいる連中。
どっちがより「マシ」か、本能が瞬時に計算している。
龍二は、大げさに肩をすくめてみせた。
「帰る? 帰るって、どこによ? 家か? そんなん、もうどうでもよくね?
せっかくさぁ――ここで死のうとしてたんだろ?」
その言葉に、詩乃の肩が震えた。
見られていた。
この男たちは、トンネルの中からずっと彼女を見ていたのだ。
ガードレールの外側で、覚悟を決めかけていた、その姿を。
「やっぱさぁ、死ぬ前にさ。俺らにも、なんか良い思いさせてくれよ。なぁ?」
龍二が一歩、詩乃に近づく。
俺の足も、その瞬間、無意識に前に出ていた。
「おい」
低い声が、自分の喉から零れた。
制御しているつもりでも、ところどころに獣の響きが混じる。
龍二が、ようやくこちらに気づいたように顔を向ける。
「んだぁ? あぁ? なんだテメェ、そのボロ原付は」
俺の原付を顎で指す。
仲間たちも、バカにしたように笑った。
「遅れてきたヒーロー?」「お前の出番、ねーから」
くだらねぇ。
こういうとき、俺はいつも少しだけ笑いそうになる。
人間は、本当に――自分の理解できないものを、ギリギリまで舐め腐る。
「邪魔すんなよ、兄ちゃん。俺ら今から、この子と大事なことするからさぁ。分かる? 空気」
龍二が、ガードレールに手をかけ、ひょいとまたぎ越えた。
詩乃との距離が、いっきに詰まる。
「離して……」
小さな声。
それでも、はっきりとした拒絶。
伸ばされた龍二の手が、詩乃の細い腕を乱暴につかんだ。
「離して……離してください! お願い、やめて!」
さっきまで死のうとしてたくせに、とか。
そういう言葉を、この場で思いつくやつは、きっと人間じゃない。
俺は、人間でいたかった。
だから、その言葉を、心の中でも飲み込んだ。
震え方が違う。
崖の縁で一人でいるときと、他人の手が自分の体を雑に扱ったときの震えは、まるで別物だ。
詩乃の身体は、本能的な恐怖で硬直していた。
「ほらほら、死にたいんだろ? だったらよ、俺らがさ――天国行く前に、極楽見せてやるって。
優しいだろ?」
龍二の笑い声が、トンネルの中に響く。
詩乃の制服の胸元に、やつの手がかかる。
その瞬間――。
俺の中で、何かがぷつんと切れた。
怒りとか、憤りとか、そんな立派なものじゃない。
もっと単純で、低レベルな衝動。
目の前で、自分より弱いものを傷つけようとする「群れ」が嫌いだ。
ずっと、嫌いだ。
俺は一歩、また一歩と詩乃に近づいていく。
龍二たちとの距離が、五メートル、四メートル……と縮まっていく。
そのとき。
詩乃は、自分でも信じられないくらいの声で叫んだ。
「……たすけてっ!!」
トンネルの内側にいた暴走族たちの笑い声が、一瞬だけ止まった。
俺の足も、ほんの一瞬、止まりかけた。
――死にたかったんじゃないのか。
その問いは、喉元まで出かかった。
だが、すぐに打ち消す。
人間の心なんて、二秒ごとに揺れる。
死にたいと生きたいの境界線なんて、線じゃない。
ぐちゃぐちゃの塗りつぶしみたいなもんだ。
大事なのは、今、この瞬間。
彼女が、生きたいと叫んだこと。
それに、応えない理由は、俺には一つもなかった。




