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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第3章:幽霊トンネルの少女~消えたい夜に、あなたが来た~

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第2話:ガードレールの外側で、世界からこぼれ落ちそうな少女

 トンネルの入口が見えたとき、もう一つ――想定外のものが見えた。


 ガードレールの外側に、影。


 細い。

 折れそうなくらい、細い。


 少女が、夜風にさらされるように、ガードレールの向こうに立っていた。


 肩までの髪が、月明かりを吸い込んで、灰色に見える。

 制服のスカートが風に揺れて、膝のあたりでかすかに震えている。


 こんな時間に女子高生。

 こんな場所で女子高生。


「……はぁ」


 ため息が、勝手に出た。

 よりによって、今夜か。


 とはいえ、見なかったふりをするほど、俺は人間嫌いでもない。

 そういうふうに生きようとした時期も、昔はあったが、結局――目の前に「落ちるもの」があれば、手を伸ばさずにはいられない。


 どれだけ、めんどうでも。


 原付のスピードを落としながら、視線を少女に向ける。


 その横顔は、月光に削り出されたみたいに白かった。

 頬に血の気がまるでない。

 目は、遠くの何かを見るように、焦点があやふやだ。


 あの目を、俺は知ってる。


 何百年も前から、いろんな顔で、いろんな時代の人間たちがしてきた目だ。


 諦めと、疲れと、期待されることへの恐怖。

 そして――かすかな、解放への憧れ。


 原付を彼女の少し手前で停めると、エンジン音が、静寂を切り裂いた。


 少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。


 その瞳は、思ったよりも若かった。

 若いくせに、老けていた。

 十六、七。

 なのに、三十年は生きてきたみたいな沈んだ色をしている。


 ガードレールの外側。足元は、すぐ下りの斜面だ。

 踏み外せば、夜の山にそのまま飲まれていくだろう。


 俺はハンドルから手を離し、ヘルメットを脱いだ。

 髪の間を、ひやりとした風が抜けていく。


「こんな時間に、そんなとこで何やってんだ」


 ぶっきらぼうに問う。

 優しく問いかける術なんて、とうの昔に置いてきた。


 少女は、一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。

 口が、わずかに動く。


「……別に」


 風にさらわれそうな声だった。

 それでも聞き取れたのは、俺が人間より耳がいいからだ。


「別に、って場所じゃねぇよ。そこ」


 ガードレールを顎でしゃくる。

 少女はかすかに肩をすくめた。


「……帰りたくないだけです」


 短い言葉の中に、いろんな音が混ざっていた。

 ためらい、諦め、苛立ち。

 それと――自分でも言葉にできない感情への、戸惑い。


 こういう時、あまり踏み込まない方がいい。

 人間は、自分で落ちるか、自分で戻るか決めたがる生き物だ。


 ただ。


 このトンネルの空気と、この時間帯と、この場所で。

 制服の女子高生がガードレールの外側に立っていて。


「帰りたくない」。


 話の先は、嫌でも見える。


「家で、何があった」


「……何も」


 反射的な否定。

 その速さに、嘘の匂いが濃くなる。


 俺は、彼女の全身を一瞥した。

 襟のあたり。

 袖口。

 スカートの裾。

 どこにも目立つ傷はない。

 ただ、細い手首の内側に、古い痣のようなものが、まだらに残っている。


 殴られた痕か。

 掴まれた痕か。

 あるいは、その両方か。


 視線を上げる。

 少女の頬は少しこけていて、唇は乾いてひび割れていた。

 目の下には、薄いクマ。


 一年、いや、それ以上。

 じわじわと削られてきた痕跡。


 俺は、こういう「削られ方」を見ると、どうしても昔を思い出してしまう。


 まだ人狼が「神様」と呼ばれていたころ。

 山に捨てられた子供たち。

 村でいらないと決められた人々。


「……帰りたくないなら、帰らなくてもいい」


 少女の目が、わずかに揺れた。


 その揺れには、期待と、怯えが混ざっていた。

 帰らなくていいと言われることを、どこかでずっと願ってきたくせに、その先にある世界を想像できずに怯えている。


「でも、だからって、ここから落ちる必要もねぇ」


 言葉を選ばずに言う。

 回りくどく言うのは苦手だ。


 少女は、笑ったような、泣いたような顔をして、ガードレールの外側の足元を見下ろした。


「……どっちにしても、同じです」


 かすれた声だった。


「ここで落ちても、あの家に帰っても。どっちにしても、私のことなんて、誰も――」


 そこで、言葉が途切れた。

 喉の奥で、何かが詰まったみたいに。


 誰も、何だ。

 気にしない。

 必要としない。

 救わない。


 だいたい、そのどれかだ。


 少女は、深く息を吸い込んだ。

 夜の冷たい空気が、肺に痛いほど入っていく。


 その息の音は、覚悟というより、諦めそのものだった。


「ここでなら、誰にも見つからずに、消えられるかなって……」


 自嘲の笑みが、唇に浮かぶ。

 それは、まだ「笑おう」としている顔の形をしていた。

 ぎりぎりのところで、人間でいる形を保とうとしている。


 だが、その目は――すでに、この世と半分以上、縁を切っている。


 俺の手の中で、ヘルメットの重みが、やけに現実的だった。

 三百年生きてきたくせに、いまだにこういう場面では、正解の言葉が分からない。


 生きろ、と簡単に言うのは嫌いだ。

 それは往々にして、言う側の自己満足だ。


 でも――。


 トンネルから吹き出してくる風が、また一段と冷たくなった気がした。

 中から、何かが、こちらを見ている。


 俺ではない何か。

 人間でもない何か。


「……ここ、幽霊出るって噂、知ってんのか」


 唐突に、話題を変える。

 少女が、きょとんとした顔でこちらを見る。


「幽霊、ですか」


「そうだよ。ずいぶん昔、暴走族だかなんだかの抗争で、まとめて事故って死んだ連中がいる。よくある話だ。で、そういうのはだいたい、こういう古いトンネルに、まだ居座ってんだとよ」


 わざと軽く言う。

 少女は、ほとんど反射的に、トンネルの暗闇を振り向いた。


 闇は、口を閉ざしている。

 だが、耳を澄ませば、何かのざわめきが、確かにその奥で渦巻いていた。


 ここは、境界だ。

 生きている方と、そうでない方の。


「お前が飛び込むには、ちょっとタイミングが悪ぃ」


「タイミング……?」


「今そこに入ったら、幽霊どもに混ざって、まともに消えられねぇぞ。多分。

 ……そういうの、見たことある」


 少女の眉が、ほんの少しだけ寄る。


「見たこと、って……」


「さぁな」


 俺は、あえてそれ以上は言わなかった。

 言いかけた言葉を、奥歯で砕く。


 本当は、もう少し、言うべきことがある。

 お前はまだ若いだの、やり直せるだの、そういうありふれた言葉も。


 でも、そんな綺麗事で、彼女の一年を塗り替えられるとは思えない。


 沈黙が、二人の間に落ちた。


 虫の声が、やけに大きく聞こえる。

 風が、ガードレールを叩いて、金属音を立てた。


 俺がもう一言なにか言おうと口を開きかけた、そのとき。

 少女の表情が、ふっと遠のいた。


 視線が、トンネルの奥へ吸い込まれていく。


 足が――一歩、前に出た。


 ガードレールの外側。

 斜面のギリギリに。


 身体の体重が、前に傾ぐ。


 その瞬間――トンネルの闇が、ざわり、と揺れた気がした。


 まるで、こちら側に手を伸ばした誰かを、歓迎するように。




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