第2話:ガードレールの外側で、世界からこぼれ落ちそうな少女
トンネルの入口が見えたとき、もう一つ――想定外のものが見えた。
ガードレールの外側に、影。
細い。
折れそうなくらい、細い。
少女が、夜風にさらされるように、ガードレールの向こうに立っていた。
肩までの髪が、月明かりを吸い込んで、灰色に見える。
制服のスカートが風に揺れて、膝のあたりでかすかに震えている。
こんな時間に女子高生。
こんな場所で女子高生。
「……はぁ」
ため息が、勝手に出た。
よりによって、今夜か。
とはいえ、見なかったふりをするほど、俺は人間嫌いでもない。
そういうふうに生きようとした時期も、昔はあったが、結局――目の前に「落ちるもの」があれば、手を伸ばさずにはいられない。
どれだけ、めんどうでも。
原付のスピードを落としながら、視線を少女に向ける。
その横顔は、月光に削り出されたみたいに白かった。
頬に血の気がまるでない。
目は、遠くの何かを見るように、焦点があやふやだ。
あの目を、俺は知ってる。
何百年も前から、いろんな顔で、いろんな時代の人間たちがしてきた目だ。
諦めと、疲れと、期待されることへの恐怖。
そして――かすかな、解放への憧れ。
原付を彼女の少し手前で停めると、エンジン音が、静寂を切り裂いた。
少女が、ゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳は、思ったよりも若かった。
若いくせに、老けていた。
十六、七。
なのに、三十年は生きてきたみたいな沈んだ色をしている。
ガードレールの外側。足元は、すぐ下りの斜面だ。
踏み外せば、夜の山にそのまま飲まれていくだろう。
俺はハンドルから手を離し、ヘルメットを脱いだ。
髪の間を、ひやりとした風が抜けていく。
「こんな時間に、そんなとこで何やってんだ」
ぶっきらぼうに問う。
優しく問いかける術なんて、とうの昔に置いてきた。
少女は、一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
口が、わずかに動く。
「……別に」
風にさらわれそうな声だった。
それでも聞き取れたのは、俺が人間より耳がいいからだ。
「別に、って場所じゃねぇよ。そこ」
ガードレールを顎でしゃくる。
少女はかすかに肩をすくめた。
「……帰りたくないだけです」
短い言葉の中に、いろんな音が混ざっていた。
ためらい、諦め、苛立ち。
それと――自分でも言葉にできない感情への、戸惑い。
こういう時、あまり踏み込まない方がいい。
人間は、自分で落ちるか、自分で戻るか決めたがる生き物だ。
ただ。
このトンネルの空気と、この時間帯と、この場所で。
制服の女子高生がガードレールの外側に立っていて。
「帰りたくない」。
話の先は、嫌でも見える。
「家で、何があった」
「……何も」
反射的な否定。
その速さに、嘘の匂いが濃くなる。
俺は、彼女の全身を一瞥した。
襟のあたり。
袖口。
スカートの裾。
どこにも目立つ傷はない。
ただ、細い手首の内側に、古い痣のようなものが、まだらに残っている。
殴られた痕か。
掴まれた痕か。
あるいは、その両方か。
視線を上げる。
少女の頬は少しこけていて、唇は乾いてひび割れていた。
目の下には、薄いクマ。
一年、いや、それ以上。
じわじわと削られてきた痕跡。
俺は、こういう「削られ方」を見ると、どうしても昔を思い出してしまう。
まだ人狼が「神様」と呼ばれていたころ。
山に捨てられた子供たち。
村でいらないと決められた人々。
「……帰りたくないなら、帰らなくてもいい」
少女の目が、わずかに揺れた。
その揺れには、期待と、怯えが混ざっていた。
帰らなくていいと言われることを、どこかでずっと願ってきたくせに、その先にある世界を想像できずに怯えている。
「でも、だからって、ここから落ちる必要もねぇ」
言葉を選ばずに言う。
回りくどく言うのは苦手だ。
少女は、笑ったような、泣いたような顔をして、ガードレールの外側の足元を見下ろした。
「……どっちにしても、同じです」
かすれた声だった。
「ここで落ちても、あの家に帰っても。どっちにしても、私のことなんて、誰も――」
そこで、言葉が途切れた。
喉の奥で、何かが詰まったみたいに。
誰も、何だ。
気にしない。
必要としない。
救わない。
だいたい、そのどれかだ。
少女は、深く息を吸い込んだ。
夜の冷たい空気が、肺に痛いほど入っていく。
その息の音は、覚悟というより、諦めそのものだった。
「ここでなら、誰にも見つからずに、消えられるかなって……」
自嘲の笑みが、唇に浮かぶ。
それは、まだ「笑おう」としている顔の形をしていた。
ぎりぎりのところで、人間でいる形を保とうとしている。
だが、その目は――すでに、この世と半分以上、縁を切っている。
俺の手の中で、ヘルメットの重みが、やけに現実的だった。
三百年生きてきたくせに、いまだにこういう場面では、正解の言葉が分からない。
生きろ、と簡単に言うのは嫌いだ。
それは往々にして、言う側の自己満足だ。
でも――。
トンネルから吹き出してくる風が、また一段と冷たくなった気がした。
中から、何かが、こちらを見ている。
俺ではない何か。
人間でもない何か。
「……ここ、幽霊出るって噂、知ってんのか」
唐突に、話題を変える。
少女が、きょとんとした顔でこちらを見る。
「幽霊、ですか」
「そうだよ。ずいぶん昔、暴走族だかなんだかの抗争で、まとめて事故って死んだ連中がいる。よくある話だ。で、そういうのはだいたい、こういう古いトンネルに、まだ居座ってんだとよ」
わざと軽く言う。
少女は、ほとんど反射的に、トンネルの暗闇を振り向いた。
闇は、口を閉ざしている。
だが、耳を澄ませば、何かのざわめきが、確かにその奥で渦巻いていた。
ここは、境界だ。
生きている方と、そうでない方の。
「お前が飛び込むには、ちょっとタイミングが悪ぃ」
「タイミング……?」
「今そこに入ったら、幽霊どもに混ざって、まともに消えられねぇぞ。多分。
……そういうの、見たことある」
少女の眉が、ほんの少しだけ寄る。
「見たこと、って……」
「さぁな」
俺は、あえてそれ以上は言わなかった。
言いかけた言葉を、奥歯で砕く。
本当は、もう少し、言うべきことがある。
お前はまだ若いだの、やり直せるだの、そういうありふれた言葉も。
でも、そんな綺麗事で、彼女の一年を塗り替えられるとは思えない。
沈黙が、二人の間に落ちた。
虫の声が、やけに大きく聞こえる。
風が、ガードレールを叩いて、金属音を立てた。
俺がもう一言なにか言おうと口を開きかけた、そのとき。
少女の表情が、ふっと遠のいた。
視線が、トンネルの奥へ吸い込まれていく。
足が――一歩、前に出た。
ガードレールの外側。
斜面のギリギリに。
身体の体重が、前に傾ぐ。
その瞬間――トンネルの闇が、ざわり、と揺れた気がした。
まるで、こちら側に手を伸ばした誰かを、歓迎するように。




