第16話:誰かをちゃんと好きになった女の顔で、原付のエンジン音と別々の方向へ進んでいく私たち
朝の海は、夜の顔とはまるで別人だった。
昇りかけた太陽が、海の表面を金色に塗っていく。さっきまで冷たかった潮風も、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
原付のエンジン音が、静かな国道に小さく響く。
前にカミヤ。後ろに私。
「落ちんなよ」
「落ちないよ」
彼の背中に腕を回して、しっかりとしがみつく。
ジャケット越しに伝わってくる体温は、人間と変わらない。でも、その奥に潜んでいる「何か」を、私はもう知ってしまっている。
風が、髪を後ろに流す。
潮の匂いと、ガソリンの匂いと、カミヤの匂い。
全部まとめて、胸いっぱいに吸い込んだ。
「ねえ、カミヤ」
エンジン音に負けないように、少し声を張る。
「ん」
「最初に会った時、私のことどう思った?」
「路地で囲まれてた時か」
「うん」
「面倒くせえ女だなって思った」
「失礼」
「事実だろ」
「でも、助けてくれた」
「見なかったことにするには、目の前の光景が目立ちすぎてた」
「そういう言い方、ほんとズルい」
背中越しに軽く拳で叩くと、彼は苦笑した。
「逆に、お前はどう思った」
「え?」
「俺のこと」
「それ聞く?」
「聞く」
「ずるい」
「さっきからずっとずるいって言われてるな、俺」
「自覚して」
少しの沈黙。
風が、二人の間をすり抜けていく。
「……最初はね」
私は、空を見上げた。
「また変な男に絡まれたって思った」
「ひでえな」
「だって、路地の入口でこっちじっと見てたし」
「あれは様子を見てたって言うんだよ」
「結果助けてくれたから、許す」
「上から目線だな」
「ナンバーワンキャストだからね」
胸を張って言ってみせたら、前でカミヤが少しだけ笑った。
「でもね」
私は、続ける。
「倉庫で毛布貸してくれたり、タバコ我慢してくれたり、謝んなくていいって言ってくれた時に、あ、この人、優しいなって思った」
「別に、普通のことだろ」
「全然普通じゃない」
きっぱりと言う。
「普通の男の人は、優しいよねって言われるために優しくするんだよ。いい人って思われたくて、ポイント稼ぎみたいに」
「ひでえ評価だな、人間」
「職業柄ね」
唇が、少しだけ寂しい笑いを形作る。
「でも、あなたは違った。俺がムカついただけだとか、助けたいと思ったのは俺の勝手だって、何回も言ったでしょ」
「言ったな」
「そう言いながら、本気で助けたいって顔してたから、ズルいの」
「……そうか」
「そうなの」
風が、言葉を攫っていく。
「それに」
声が、少しだけ震えた。
「人狼だって知った時も、怖いより先にああ、この人、こんな身体で三百年も一人で生きてきたんだって思って、胸が苦しくなった」
「……」
「だから、好きになったの」
風が、止まった気がした。
実際には、原付はちゃんと走っている。でも、時間だけが一瞬、ふっと止まったような感覚。
「聞いてねえぞ、そんな話」
前で、カミヤの声がかすれた。
「今、言ってる」
「タイミングってもんが——」
「タイミングなんて、どうせいつだって悪いよ」
笑いながら、涙がこぼれた。
「だから、自分のタイミングで言う」
「……お前な」
「なに」
「ほんと、面倒くせえ女だ」
「知ってる」
国道沿いに、小さなバス停が見えてきた。
「ここで、いい」
カミヤが、路肩に原付を寄せる。
エンジンが止まり、急に世界が静かになった。
潮騒と、遠くの車の音だけが聞こえる。
「……隣町、着いたな」
彼が、ヘルメットを外しながら言う。
「うん」
私も、後ろからそっと降りる。
足が、少しだけ震えていた。
「ここから先は、バス?」
「うん。そこそこ大きな街らしいから、仕事もあると思う」
「そうか」
「また、蘭やるかどうかは、わかんないけど」
「別に、なんでもいいだろ」
「そうだね」
バス停の看板には、時刻表が貼ってある。次のバスは、十五分後。
「……カミヤ」
名前を呼ぶと、彼は振り返った。
朝日が、琥珀色の瞳を透かして、金色の光を宿している。
「元気でね」
「お前もな」
少しの間があって、彼は続けた。
「変な男に絡まれたら、ちゃんと警察呼べよ」
「うん」
「薬に手、出すなよ」
「出さないよ」
「飯、ちゃんと食えよ」
「子ども扱いしないで」
笑いながらも、胸が苦しかった。
「——また、会える?」
勇気を振り絞って、聞く。
「さあな」
期待した答えではなかった。
でも、彼はすぐに、少しだけ顔を歪めた。
「生きてりゃ、何があるかわからねえ」
その言葉を、私は精一杯、前向きな意味に変換する。
「ちゃんと生きてろよ、ってこと?」
「そうだな」
短く、肯定。
沈黙。
潮騒が、二人の間を満たす。
「……ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「ありがとう。私を助けてくれて」
「礼はいらねえって——」
言いかけた言葉を、遮る。
「——好きだよ」
今度は、はっきり、まっすぐに。
カミヤの目が、大きく見開かれた。
その一瞬の隙を、私は逃さなかった。
つま先立ちになって、彼の胸ぐらを掴む。
ほんの一瞬、唇が触れ合った。
柔らかくも固くもない、不器用なキス。
たった数秒。でも、私の中で時間が引き伸ばされていく。
「っ……!」
私から離れた瞬間、カミヤの顔が真っ赤になっていた。
三百年生きた人狼が、二十歳の私にキスされて、耳まで真っ赤。
「な、なにして……!」
「キス」
「見りゃわかる!」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくねえ!」
「よくない?」
「よくねえ!」
「でも」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。
「後悔したくなかったから」
「……」
「あなたにちゃんと好きって言わないまま別れたら、きっと一生、後悔すると思うから」
「ずりぃな」
「でしょ?」
少しだけ、彼も笑った。
「じゃあね、カミヤ」
背を向ける。
歩き出す。
振り返ったら、追いかけてしまいそうで。
背後で、原付のエンジンがかかる音がした。
私の足音と、エンジン音が、しばらく並走する。
十歩。二十歩。三十歩。
やがて、エンジン音が、少しずつ遠ざかっていく。
——また、会えるよね。
心の中で、何度も何度も、呟いた。
涙は止まらなかったけれど、笑わずにはいられなかった。
泣きながら笑うなんて、鏡で見たらきっとひどい顔だ。
でも、今の私は、その「ひどい顔」が嫌いじゃなかった。
それは、多分——
「誰かをちゃんと好きになった女の顔」だったから。




