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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第16話:誰かをちゃんと好きになった女の顔で、原付のエンジン音と別々の方向へ進んでいく私たち

 朝の海は、夜の顔とはまるで別人だった。


 昇りかけた太陽が、海の表面を金色に塗っていく。さっきまで冷たかった潮風も、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。


 原付のエンジン音が、静かな国道に小さく響く。


 前にカミヤ。後ろに私。


「落ちんなよ」


「落ちないよ」


 彼の背中に腕を回して、しっかりとしがみつく。


 ジャケット越しに伝わってくる体温は、人間と変わらない。でも、その奥に潜んでいる「何か」を、私はもう知ってしまっている。


 風が、髪を後ろに流す。


 潮の匂いと、ガソリンの匂いと、カミヤの匂い。


 全部まとめて、胸いっぱいに吸い込んだ。


「ねえ、カミヤ」


 エンジン音に負けないように、少し声を張る。


「ん」


「最初に会った時、私のことどう思った?」


「路地で囲まれてた時か」


「うん」


「面倒くせえ女だなって思った」


「失礼」


「事実だろ」


「でも、助けてくれた」


「見なかったことにするには、目の前の光景が目立ちすぎてた」


「そういう言い方、ほんとズルい」


 背中越しに軽く拳で叩くと、彼は苦笑した。


「逆に、お前はどう思った」


「え?」


「俺のこと」


「それ聞く?」


「聞く」


「ずるい」


「さっきからずっとずるいって言われてるな、俺」


「自覚して」


 少しの沈黙。


 風が、二人の間をすり抜けていく。


「……最初はね」


 私は、空を見上げた。


「また変な男に絡まれたって思った」


「ひでえな」


「だって、路地の入口でこっちじっと見てたし」


「あれは様子を見てたって言うんだよ」


「結果助けてくれたから、許す」


「上から目線だな」


「ナンバーワンキャストだからね」


 胸を張って言ってみせたら、前でカミヤが少しだけ笑った。


「でもね」


 私は、続ける。


「倉庫で毛布貸してくれたり、タバコ我慢してくれたり、謝んなくていいって言ってくれた時に、あ、この人、優しいなって思った」


「別に、普通のことだろ」


「全然普通じゃない」


 きっぱりと言う。


「普通の男の人は、優しいよねって言われるために優しくするんだよ。いい人って思われたくて、ポイント稼ぎみたいに」


「ひでえ評価だな、人間」


「職業柄ね」


 唇が、少しだけ寂しい笑いを形作る。


「でも、あなたは違った。俺がムカついただけだとか、助けたいと思ったのは俺の勝手だって、何回も言ったでしょ」


「言ったな」


「そう言いながら、本気で助けたいって顔してたから、ズルいの」


「……そうか」


「そうなの」


 風が、言葉を攫っていく。


「それに」


 声が、少しだけ震えた。


「人狼だって知った時も、怖いより先にああ、この人、こんな身体で三百年も一人で生きてきたんだって思って、胸が苦しくなった」


「……」


「だから、好きになったの」


 風が、止まった気がした。


 実際には、原付はちゃんと走っている。でも、時間だけが一瞬、ふっと止まったような感覚。


「聞いてねえぞ、そんな話」


 前で、カミヤの声がかすれた。


「今、言ってる」


「タイミングってもんが——」


「タイミングなんて、どうせいつだって悪いよ」


 笑いながら、涙がこぼれた。


「だから、自分のタイミングで言う」


「……お前な」


「なに」


「ほんと、面倒くせえ女だ」


「知ってる」


 国道沿いに、小さなバス停が見えてきた。


「ここで、いい」


 カミヤが、路肩に原付を寄せる。


 エンジンが止まり、急に世界が静かになった。


 潮騒と、遠くの車の音だけが聞こえる。


「……隣町、着いたな」


 彼が、ヘルメットを外しながら言う。


「うん」


 私も、後ろからそっと降りる。


 足が、少しだけ震えていた。


「ここから先は、バス?」


「うん。そこそこ大きな街らしいから、仕事もあると思う」


「そうか」


「また、蘭やるかどうかは、わかんないけど」


「別に、なんでもいいだろ」


「そうだね」


 バス停の看板には、時刻表が貼ってある。次のバスは、十五分後。


「……カミヤ」


 名前を呼ぶと、彼は振り返った。


 朝日が、琥珀色の瞳を透かして、金色の光を宿している。


「元気でね」


「お前もな」


 少しの間があって、彼は続けた。


「変な男に絡まれたら、ちゃんと警察呼べよ」


「うん」


「薬に手、出すなよ」


「出さないよ」


「飯、ちゃんと食えよ」


「子ども扱いしないで」


 笑いながらも、胸が苦しかった。


「——また、会える?」


 勇気を振り絞って、聞く。


「さあな」


 期待した答えではなかった。


 でも、彼はすぐに、少しだけ顔を歪めた。


「生きてりゃ、何があるかわからねえ」


 その言葉を、私は精一杯、前向きな意味に変換する。


「ちゃんと生きてろよ、ってこと?」


「そうだな」


 短く、肯定。


 沈黙。


 潮騒が、二人の間を満たす。


「……ねえ、カミヤ」


「なんだ」


「ありがとう。私を助けてくれて」


「礼はいらねえって——」


 言いかけた言葉を、遮る。


「——好きだよ」


 今度は、はっきり、まっすぐに。


 カミヤの目が、大きく見開かれた。


 その一瞬の隙を、私は逃さなかった。


 つま先立ちになって、彼の胸ぐらを掴む。


 ほんの一瞬、唇が触れ合った。


 柔らかくも固くもない、不器用なキス。


 たった数秒。でも、私の中で時間が引き伸ばされていく。


「っ……!」


 私から離れた瞬間、カミヤの顔が真っ赤になっていた。


 三百年生きた人狼が、二十歳の私にキスされて、耳まで真っ赤。


「な、なにして……!」


「キス」


「見りゃわかる!」


「じゃあ、いいじゃん」


「よくねえ!」


「よくない?」


「よくねえ!」


「でも」


 私は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。


「後悔したくなかったから」


「……」


「あなたにちゃんと好きって言わないまま別れたら、きっと一生、後悔すると思うから」


「ずりぃな」


「でしょ?」


 少しだけ、彼も笑った。


「じゃあね、カミヤ」


 背を向ける。


 歩き出す。


 振り返ったら、追いかけてしまいそうで。


 背後で、原付のエンジンがかかる音がした。


 私の足音と、エンジン音が、しばらく並走する。


 十歩。二十歩。三十歩。


 やがて、エンジン音が、少しずつ遠ざかっていく。


 ——また、会えるよね。


 心の中で、何度も何度も、呟いた。


 涙は止まらなかったけれど、笑わずにはいられなかった。


 泣きながら笑うなんて、鏡で見たらきっとひどい顔だ。


 でも、今の私は、その「ひどい顔」が嫌いじゃなかった。


 それは、多分——


「誰かをちゃんと好きになった女の顔」だったから。



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