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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第15話:最後のお願い:サヨナラまでの特等席

 事件が終わったと知らされたのは、その二日後だった。


 《月下美人》の控え室で、真珠さんと一緒にテレビのニュースを見ていた。


「県警は本日未明、港湾運送会社賀茂海運社長・賀茂玄悟容疑者を、覚醒剤取締法違反などの疑いで逮捕しました——」


 テロップに流れる名前。画面に映る、見覚えのある男の顔。


「堂前恒一容疑者」「矢代恒一容疑者」というテロップも続く。


「……終わった、の?」


 思わず呟く。


「ひとまずね」


 真珠さんは、タバコを消しながら言った。


「根っこは、まだ別のところにもある。でも、この街で一番太い幹は、折れた」


「サヤは?」


「保護されてる。三門さんが、かなり動いてくれてるみたい」


 少しだけ、肩の力が抜けた。


「でね」


 真珠さんが、ちらりと私を見る。


「カミヤのことだけど」


 心臓が、跳ねた。


「……どうしたの」


「街を出るって」


 その言葉は、どこかで覚悟していたはずなのに、実際に聞いた瞬間、肺から空気が全部抜け落ちたみたいに感じた。


「今?」


「今日」


 早すぎる。


 心の準備なんて、何一つできていない。


 けれど、遅すぎたのだ。


 彼がいつか去る予感は、ずっと前からあったはずなのに。


 私はそれを、ただ見過ごしてきた。


「呼んできていい?」


 真珠さんに聞く前に、もう立ち上がっていた。


「聞く前に動くの、あんたの悪い癖ね」


「今に始まったことじゃないでしょ」


「ほんと、それ」


 真珠さんは、呆れたように笑って、それから真面目な顔になった。


「行ってきなさい」


 その一言が、背中を押した。


 倉庫までの道は、もう何度も通ったはずなのに、足取りはひどくおぼつかなかった。


 心臓の音が、耳の奥でやかましく鳴る。


 倉庫の前に着いた時、扉は半分開いていた。


 中には、見慣れた黒いパーカーの背中。


「カミヤ!」


 思わず、名前を呼ぶ。


 振り返った彼は、いつもと同じように不器用に笑った。


「起きてんのか」


「起きてるよ。夕方だもん」


「そうだな」


 気の抜けたやり取りなのに、胸の奥は全然、気なんか抜けていない。


「……聞いた」


 私は、一歩彼に近づいた。


「街を出るって」


「真珠さん、口が軽えな」


「真珠さんのせいにしないで」


 睨みつけると、彼はちょっとだけ視線を逸らした。


「で、本当?」


「ああ」


 短い返事。


「賀茂が捕まっても、ここらの連中が俺の顔を忘れるまでには、時間がかかる。警察とも関わっちまったしな」


「だから、逃げるの?」


「逃げるっていうか……流れるだけだ」


 苦笑い。


「俺の生き方は、そういうもんだ」


「……連れて行って」


 気づいたら、口が勝手に動いていた。


「は?」


「私も。連れて行って」


 言いながら、自分でも驚いていた。


「この街にいても、もう居場所がない。サヤも、真珠さんも、何とかなるかもしれないけど……私自身は、もうここに前みたいにはいられない」


「前みたいに?」


「知らないふりして、笑って、媚びて、お酒作って……何も見てない蘭ちゃんには戻れない」


 満月の夜を思い出す。


 倉庫の中で、血まみれの彼を見た時。人狼だと知った時。彼が「人間は殺さない」と言った時。


 あの瞬間から、多分もう、「普通のホステス」としての私は死んでいた。


「だったら」


 私は、彼の目を見た。


「あなたと一緒に——」


 言い切る前に、カミヤが首を振った。


「無理だ」


 静かな声だった。


「なんで」


「俺は追われる身だ」


 彼の声も、瞳も、嘘をつくのが下手だ。


「この先、どこに行っても、安全な場所なんてねえ。どこかの街でまた厄介事に首突っ込んで、また逃げて、また誰かを巻き込んで……その繰り返しだ」


「それでもいい」


 本気で、そう思った。


「私は、どこにいても普通の場所にはいられないから。だったら、あなたと一緒に普通じゃない場所にいたい」


「バカ言うな」


 カミヤは、少しだけ声を荒げた。


 驚いて彼の顔を見ると、その表情には、怒りよりも、ずっと強い——


 恐怖があった。


「お前は……」


 彼は、拳をぎゅっと握りしめる。


「真っ当な世界で生きろ」


「真っ当……」


 その単語に、苦笑いがこぼれた。


「私が?」


「ああ」


 即答。


「ニューハーフバーで働いて、薬の売人に追われて、警察の作戦に巻き込まれて、人狼の正体知っちゃった私が?」


「そういうの含めて、だ」


 カミヤは、真面目な顔で言う。


「真珠さんは、店の子たちを守るって決めてる。警察だって、お前を被害者として見てる。つまり、お前にはまだ、守ってくれる場所があるってことだ」


「……」


「でも、俺にはない」


 その一言が、妙に静かに胸に落ちた。


「三百年生きてきて、何度か居場所かもしれないって思った場所はあった。でも、結局全部、俺の方が出て行ったり、相手が先にいなくなったりした」


 ナギの姿が、一瞬だけ彼の瞳に浮かんだような気がした。


「だから、もういいんだよ」


 カミヤは、小さく笑った。


「俺は俺のやり方で、どこかの街で、どっかの誰かの厄介事に首突っ込んで、また流れていく。そういう流浪の獣でいる方が、性に合ってる」


「でも——!」


 言い募ろうとした瞬間。


「リオ」


 不意に、名前を呼ばれた。


 初めて、ちゃんと私の名前を。


「お前は強い」


 その言葉に、息が止まった。


「俺がいなくても、生きていける」


 静かで、でも揺るぎない声音。


「むしろ、俺が一緒にいたら、お前の足を引っ張る。俺が面倒事を連れてきて、お前にまた変なもの見せて……そういうのは、もううんざりなんだよ」


「……自分のこと、嫌い?」


 思わず、口をついて出た。


「少なくとも、誰かの足を引っ張る自分は嫌いだな」


「あのね」


 涙が、勝手に目の縁に溜まる。


「私が欲しいのは、完璧なヒーローじゃないよ」


「わかってる」


「足を引っ張らない男でもない」


「それもわかってる」


「じゃあ——なんで、そんなに突き放すの」


「突き放してねえよ」


 カミヤは、ほんの少しだけ歩み寄る。


「お前を、俺みたいにしたくねえだけだ」


「……」


「俺はもう、人間の世界からちょっと外れたところでしか生きられねえ。でも、お前はまだ、光の下に戻れる」


 光。


 その言葉に、橋の上の夜景がフラッシュバックする。


 彼が、別の少女を光の方へ押し出した夜。


「お前は、戻れない場所まで来たって言ってたけどな」


 カミヤは、静かに続ける。


「それでも、人間の世界の中だ。戸籍も、仕事も、友達も、全部人間のルールの中で手に入れられる」


「……そんな、綺麗な世界じゃないよ」


「知ってる」


 少し笑う。


「でも、俺の世界よりは、ずっとマシだ」


「それ、あなたが決めること?」


「俺の経験の範囲内ではな」


「ずるい」


「なんでだよ」


「だって」


 涙が、頬を伝う。


「そんなふうに優しい言い方されたら、反論できないじゃん」


「優しいか、これ」


「優しいよ」


 鼻をすする。


「最低で、優しくて、ずるい」


「ずいぶんな評価だな」


「気に入った?」


「……まあ、悪くはねえ」


 二人して、少しだけ笑った。


 でも、笑いながら、涙が止まらなかった。


「……行かないで、って言ったら、困る?」


「困るな」


「そっか」


「でも、言われたくねえとは言ってねえ」


「……行かないで」


 意地になって、言った。


「行くけどな」


「最低」


「さっき言った」


「何回でも言う」


 それでも、彼の瞳の奥で、何かがふっと揺れたのを、私は見逃さなかった。


 ——この人も、本当はここにいたいのかもしれない。


 でも、自分にそれを許していないだけ。


「ねえ、カミヤ」


 涙で滲んだ視界の中で、彼の輪郭を見つめる。


「最後に、一つだけお願いしていい?」


「内容による」


「原付の後ろ、乗せて。隣町まででいいから」


「……」


 一瞬だけ、彼は迷ったようだった。


 やがて、小さく頷く。


「朝になったら出る。駅まで送ってやる」


「バス停まででいい」


「欲がねえな」


「今の状況で欲張りとか言われてもね」


 泣き笑いしながら答える。


 別れは、避けられない。


 だったらせめて、その直前まで——隣で、同じ景色を見ていたかった。


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