第15話:最後のお願い:サヨナラまでの特等席
事件が終わったと知らされたのは、その二日後だった。
《月下美人》の控え室で、真珠さんと一緒にテレビのニュースを見ていた。
「県警は本日未明、港湾運送会社賀茂海運社長・賀茂玄悟容疑者を、覚醒剤取締法違反などの疑いで逮捕しました——」
テロップに流れる名前。画面に映る、見覚えのある男の顔。
「堂前恒一容疑者」「矢代恒一容疑者」というテロップも続く。
「……終わった、の?」
思わず呟く。
「ひとまずね」
真珠さんは、タバコを消しながら言った。
「根っこは、まだ別のところにもある。でも、この街で一番太い幹は、折れた」
「サヤは?」
「保護されてる。三門さんが、かなり動いてくれてるみたい」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「でね」
真珠さんが、ちらりと私を見る。
「カミヤのことだけど」
心臓が、跳ねた。
「……どうしたの」
「街を出るって」
その言葉は、どこかで覚悟していたはずなのに、実際に聞いた瞬間、肺から空気が全部抜け落ちたみたいに感じた。
「今?」
「今日」
早すぎる。
心の準備なんて、何一つできていない。
けれど、遅すぎたのだ。
彼がいつか去る予感は、ずっと前からあったはずなのに。
私はそれを、ただ見過ごしてきた。
「呼んできていい?」
真珠さんに聞く前に、もう立ち上がっていた。
「聞く前に動くの、あんたの悪い癖ね」
「今に始まったことじゃないでしょ」
「ほんと、それ」
真珠さんは、呆れたように笑って、それから真面目な顔になった。
「行ってきなさい」
その一言が、背中を押した。
倉庫までの道は、もう何度も通ったはずなのに、足取りはひどくおぼつかなかった。
心臓の音が、耳の奥でやかましく鳴る。
倉庫の前に着いた時、扉は半分開いていた。
中には、見慣れた黒いパーカーの背中。
「カミヤ!」
思わず、名前を呼ぶ。
振り返った彼は、いつもと同じように不器用に笑った。
「起きてんのか」
「起きてるよ。夕方だもん」
「そうだな」
気の抜けたやり取りなのに、胸の奥は全然、気なんか抜けていない。
「……聞いた」
私は、一歩彼に近づいた。
「街を出るって」
「真珠さん、口が軽えな」
「真珠さんのせいにしないで」
睨みつけると、彼はちょっとだけ視線を逸らした。
「で、本当?」
「ああ」
短い返事。
「賀茂が捕まっても、ここらの連中が俺の顔を忘れるまでには、時間がかかる。警察とも関わっちまったしな」
「だから、逃げるの?」
「逃げるっていうか……流れるだけだ」
苦笑い。
「俺の生き方は、そういうもんだ」
「……連れて行って」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
「は?」
「私も。連れて行って」
言いながら、自分でも驚いていた。
「この街にいても、もう居場所がない。サヤも、真珠さんも、何とかなるかもしれないけど……私自身は、もうここに前みたいにはいられない」
「前みたいに?」
「知らないふりして、笑って、媚びて、お酒作って……何も見てない蘭ちゃんには戻れない」
満月の夜を思い出す。
倉庫の中で、血まみれの彼を見た時。人狼だと知った時。彼が「人間は殺さない」と言った時。
あの瞬間から、多分もう、「普通のホステス」としての私は死んでいた。
「だったら」
私は、彼の目を見た。
「あなたと一緒に——」
言い切る前に、カミヤが首を振った。
「無理だ」
静かな声だった。
「なんで」
「俺は追われる身だ」
彼の声も、瞳も、嘘をつくのが下手だ。
「この先、どこに行っても、安全な場所なんてねえ。どこかの街でまた厄介事に首突っ込んで、また逃げて、また誰かを巻き込んで……その繰り返しだ」
「それでもいい」
本気で、そう思った。
「私は、どこにいても普通の場所にはいられないから。だったら、あなたと一緒に普通じゃない場所にいたい」
「バカ言うな」
カミヤは、少しだけ声を荒げた。
驚いて彼の顔を見ると、その表情には、怒りよりも、ずっと強い——
恐怖があった。
「お前は……」
彼は、拳をぎゅっと握りしめる。
「真っ当な世界で生きろ」
「真っ当……」
その単語に、苦笑いがこぼれた。
「私が?」
「ああ」
即答。
「ニューハーフバーで働いて、薬の売人に追われて、警察の作戦に巻き込まれて、人狼の正体知っちゃった私が?」
「そういうの含めて、だ」
カミヤは、真面目な顔で言う。
「真珠さんは、店の子たちを守るって決めてる。警察だって、お前を被害者として見てる。つまり、お前にはまだ、守ってくれる場所があるってことだ」
「……」
「でも、俺にはない」
その一言が、妙に静かに胸に落ちた。
「三百年生きてきて、何度か居場所かもしれないって思った場所はあった。でも、結局全部、俺の方が出て行ったり、相手が先にいなくなったりした」
ナギの姿が、一瞬だけ彼の瞳に浮かんだような気がした。
「だから、もういいんだよ」
カミヤは、小さく笑った。
「俺は俺のやり方で、どこかの街で、どっかの誰かの厄介事に首突っ込んで、また流れていく。そういう流浪の獣でいる方が、性に合ってる」
「でも——!」
言い募ろうとした瞬間。
「リオ」
不意に、名前を呼ばれた。
初めて、ちゃんと私の名前を。
「お前は強い」
その言葉に、息が止まった。
「俺がいなくても、生きていける」
静かで、でも揺るぎない声音。
「むしろ、俺が一緒にいたら、お前の足を引っ張る。俺が面倒事を連れてきて、お前にまた変なもの見せて……そういうのは、もううんざりなんだよ」
「……自分のこと、嫌い?」
思わず、口をついて出た。
「少なくとも、誰かの足を引っ張る自分は嫌いだな」
「あのね」
涙が、勝手に目の縁に溜まる。
「私が欲しいのは、完璧なヒーローじゃないよ」
「わかってる」
「足を引っ張らない男でもない」
「それもわかってる」
「じゃあ——なんで、そんなに突き放すの」
「突き放してねえよ」
カミヤは、ほんの少しだけ歩み寄る。
「お前を、俺みたいにしたくねえだけだ」
「……」
「俺はもう、人間の世界からちょっと外れたところでしか生きられねえ。でも、お前はまだ、光の下に戻れる」
光。
その言葉に、橋の上の夜景がフラッシュバックする。
彼が、別の少女を光の方へ押し出した夜。
「お前は、戻れない場所まで来たって言ってたけどな」
カミヤは、静かに続ける。
「それでも、人間の世界の中だ。戸籍も、仕事も、友達も、全部人間のルールの中で手に入れられる」
「……そんな、綺麗な世界じゃないよ」
「知ってる」
少し笑う。
「でも、俺の世界よりは、ずっとマシだ」
「それ、あなたが決めること?」
「俺の経験の範囲内ではな」
「ずるい」
「なんでだよ」
「だって」
涙が、頬を伝う。
「そんなふうに優しい言い方されたら、反論できないじゃん」
「優しいか、これ」
「優しいよ」
鼻をすする。
「最低で、優しくて、ずるい」
「ずいぶんな評価だな」
「気に入った?」
「……まあ、悪くはねえ」
二人して、少しだけ笑った。
でも、笑いながら、涙が止まらなかった。
「……行かないで、って言ったら、困る?」
「困るな」
「そっか」
「でも、言われたくねえとは言ってねえ」
「……行かないで」
意地になって、言った。
「行くけどな」
「最低」
「さっき言った」
「何回でも言う」
それでも、彼の瞳の奥で、何かがふっと揺れたのを、私は見逃さなかった。
——この人も、本当はここにいたいのかもしれない。
でも、自分にそれを許していないだけ。
「ねえ、カミヤ」
涙で滲んだ視界の中で、彼の輪郭を見つめる。
「最後に、一つだけお願いしていい?」
「内容による」
「原付の後ろ、乗せて。隣町まででいいから」
「……」
一瞬だけ、彼は迷ったようだった。
やがて、小さく頷く。
「朝になったら出る。駅まで送ってやる」
「バス停まででいい」
「欲がねえな」
「今の状況で欲張りとか言われてもね」
泣き笑いしながら答える。
別れは、避けられない。
だったらせめて、その直前まで——隣で、同じ景色を見ていたかった。




