第17話:同じ月を見上げながら、南へ走る人狼とバスに揺られる女が選んだそれぞれの道
——海沿いの国道を、南へ走る。
カミヤの視界の端で、さっきまで座っていたバス停の影が、どんどん小さくなっていく。
「……面倒くせえ女だ」
独り言みたいに、呟く。
『主人』
足元の影から、クロが顔を出す。
『顔が赤いぞ』
「うるせえ」
風が、頬を冷やしていく。それでも、火照りはなかなか収まらなかった。
唇に、まだ、さっきの感触が残っている。
不器用で、震えてて、必死なキス。
「……ほんと、面倒くせえ」
そう言いながら、口元が少しだけ緩んだ。
『戻るか?』
不意に、クロが言う。
『今ならまだ、間に合うぞ』
「戻らねえよ」
即答。
「なんでだ」
「戻ってみろ。あいつ、また『連れて行って』って泣くぞ」
『それの、どこが悪い』
「悪くねえよ」
カミヤは、細く笑った。
「悪くねえけど……連れて行ったら、きっと、すぐにまた誰かに狙われる。あいつを、また泣かせることになる」
『あの女は、強い』
「そうだな」
「あいつは、強い」
カミヤは、アクセルを少しだけ開いた。
「だから、大丈夫だ」
『主人は』
「ん?」
『主人は、強いか』
「さてな」
夜の海と、朝の海が頭の中で重なる。
橋の上で、少女を光の向こうへ押し出した夜。港の倉庫で、銀の刃と満月に挟まれた夜。倉庫の薄暗い部屋で、涙を浮かべながら笑うニューハーフの女の顔。
全部まとめて、自分の中で一つの線になっていく。
「強くなりてえとは、思う」
ぽつりと、呟く。
「少なくとも、守りたいって思った奴を、ちゃんと守れるくらいには」
『主人』
クロが、少しだけ優しい声を出す。
『もう、守れてるぞ』
「そうか」
海から吹く風が、少しだけ温かく感じた。
また、旅が始まる。
また、どこかの街で、誰かと出会うのかもしれない。
——でも。
あの琥珀色の月夜と、ボロボロの倉庫で見た涙と、朝焼けのバス停で盗まれたキスを、カミヤはきっと忘れない。
それが、この三百年の旅路で、数少ない「ちゃんと心が動いた瞬間」の一つだから。
*
バスの車内は、思っていたよりも空いていた。
窓側の席に腰を下ろし、私は頬を両手で包む。
さっきまで冷たかった指先が、少しずつ温かくなっていく。
「変な顔」
窓に映る自分に向かって、呟いた。
目は赤い。鼻も赤い。口元だけ、ニヤニヤしている。
酷い顔だ。
でも、嫌いじゃない。
窓の外には、海が広がっていた。
朝日を浴びて、きらきらと光っている。
ポケットの中で、何かが指先に触れた。
取り出してみると、小さな紙切れ。
いつの間にか、握らされていたらしい。
開いてみる。
不器用な字で、こう書かれていた。
『困ったら、この番号に連絡しろ。——カミヤ』
「……」
胸の奥が、じん、とあたたかくなった。
「ほんと、ずるい」
笑いながら、また少しだけ涙が滲む。
紙切れを、胸にぎゅっと押し当てる。
——また、会えるよ。絶対に。
そのためにも、生きなきゃいけない。
しぶとく、生きていく。
誰に何を言われても、「男でも女でもない何か」だなんて自分を嫌っても。
あの人が、「お前は強い」って言ってくれたから。
あの人が、「光の下で生きろ」って、背中を押してくれたから。
バスが、静かに動き出した。
潮見市が、少しずつ遠くなる。
新しい街へ向かう道の上で、私は静かに息を吸った。
「行こ」
誰にともなく、そう呟く。
胸のポケットには、小さな紙切れ。
その向こうに、南へ走る原付と、人狼と、五匹の影狼がいるような気がした。
——月が満ちる夜も、欠ける夜も。
どこかの空の下で、同じ月を見上げている。
そう思うだけで、世界がほんの少し、優しくなった。
第2章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今章では、リオというキャラクターを通して、カミヤが抱える「異形としての孤独」をより深く掘り下げました。「普通じゃない」者同士だからこそ分かち合えた、ボロボロの倉庫での対話や、朝焼けのバス停での別れは、カミヤの三百年の旅路の中でも特に心の動いた瞬間となりました。
「お前は強い。光の下で生きろ」と突き放しながらも、リオの「大好き」という言葉に耳を真っ赤にするカミヤの不器用さは、まさに「優しい狼」そのものです。
次章では、さらに深い闇が待つ「幽霊トンネル」へと舞台が移ります。いじめに絶望した少女・詩乃と出会ったカミヤが、百人の暴走族を相手にどのような戦いを繰り広げるのか。ぜひ、引き続き彼らの旅路を見守ってください。




