第12話:腱を狙う殺し屋と、再生と破壊を同時に強いられる人狼
満月は、雲ひとつない夜空の真ん中で、異様なほど大きく、白く光っていた。
湾の水面に、その光が長く伸びる。波が揺れるたびに、光もまた揺れた。
港の倉庫街は、ひどく静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、トラックもフォークリフトも姿を消している。代わりに、どこか遠くで鳴る船のエンジン音と、風に擦れる鉄骨の軋みだけが、世界に残されていた。
カミヤは、指定された倉庫の前に立っていた。
満月の光が、彼の黒い髪を淡く縁取る。
(……嫌な夜だ)
胸の奥で、獣が吠えるような感覚が広がっていた。
満月の夜は、力が増す。超人的な身体能力も、再生力も、影の支配力も、全てが底上げされる。
その代わり、制御が難しくなる。
ほんの少し気を抜けば、「人」としての理性より、「獣」としての本能が勝ってしまう。
(だからこそ、油断できねえ)
足元で、影が揺れた。
『主人』
クロの声が、いつもよりも濃く響く。
『血の匂いが濃くなっている』
「そうだろうな」
カミヤは、倉庫の壁にもたれ、空を見上げた。
「こっちもやる気満々だ」
『あの銀の刃の男が、また来ると思うか』
「来るだろうな」
カミヤは、薄く笑った。
「獲物の味を覚えた猟犬は、簡単に引き下がらねえよ」
時計は、もうすぐ零時を指そうとしていた。
その瞬間——
「——やあ」
聞き覚えのある、平坦な声が、闇を裂いた。
倉庫と倉庫の間の暗がりから、細い影が歩み出てくる。
黒い髪が額に落ち、まばたきの少ない目が、冷たい光を宿している。
時雨。
前回と違うのは、その手に握られたナイフだった。
銀色に光る刃。
刃渡り三十五センチ。厚み一センチ。ごついサバイバルナイフ。
満月の光を受けて、刃先だけが白くぎらりと光った。
「また会ったな、人狼」
時雨は、口元だけで薄く笑う。
「今度は、本気で殺しに来た」
「そりゃどうも」
カミヤは、肩を回しながら言う。
「前回は前哨戦ってことか」
「そういうこと」
時雨は、銀の刃をゆっくりと掲げる。
「銀は人狼の天敵らしいね。傭兵時代に、耳にしたことがある」
ナイフの側面を、指先で軽く叩く。
「本物かどうかは、この夜で確かめよう」
「実験台にされる趣味はねえんだが」
「でも、君はもうここに立っている」
時雨の目が、かすかに細くなった。
「逃げない。戦う。だから、殺す」
その理屈は、恐ろしいほどシンプルだった。
「——来いよ」
カミヤは、前に一歩踏み出した。
満月の光が、彼の瞳を琥珀から金に変える。
風が、一瞬止まる。
影が、息を潜める。
次の瞬間、銀の刃が閃いた。
***
時雨の一撃は、予想以上に速かった。
銀のナイフが、一線の光となってカミヤの視界を横切る。
カミヤは、ギリギリで上体を反らした。
だが、避けきれない。
胸元を薄く裂かれる感触。シャツの前立てがぱっくり割れ、皮膚に細い線が走った。
「っ……!」
熱いものが流れる。
すぐに再生が始まる——はずだった。
だが。
(……遅い)
銀色の粒子は出る。こぼれ落ちる。だが、肉の盛り上がる速度が、明らかに鈍い。
(これが、銀か)
時雨が、目を細める。
「なるほどね。やっぱり、効くんだ」
楽しそうな声。
次の瞬間には、もう一撃が飛んでくる。
右肩を狙っていた。
カミヤは、加速した。
満月の夜がくれる力を、骨の髄まで引きずり出す。
人間の目には見えない速度でステップを踏み、銀の刃の軌道から身を外す。同時に、右拳を繰り出す。
時雨は、その拳をかわさない。
ナイフを持っていない左腕で受け、衝撃を滑らせていなしてみせた。
「っぐ……」
時雨の口から、初めて低い声が漏れる。
だが、踏ん張る。
そのまま、腹の底から力を伝えて、カミヤの足元を払おうとする。
カミヤは、それも読む。
片足を軽く浮かせ、足払いをいなす。その勢いを利用して、逆に踵を時雨のこめかみに叩き込んだ。
ゴン、と、鈍い音がした。
時雨の身体が横に弾かれる。
だが——倒れない。
「……いいね」
口元から、少し血を滲ませながら、時雨は言った。
「やっぱり、獣はこうでなくちゃ」
「お前も十分、化け物じみてるがな」
舌打ちしながら、カミヤは距離を取った。
足場の砂利が、二人の間で音を立てる。
月明かりの下、獣と殺し屋が向かい合う。
時雨は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
次に顔を上げた時、その瞳には、先ほどまで以上の熱が宿っていた。
「屈筋腱」
呟くように言って、時雨の姿がかき消える。
(——来る)
カミヤが反応するより、わずかに早く、左手首の内側に冷たい感触が走った。
「っ!」
手のひらから力が抜ける。
指を動かそうとしても、動かない。
「上腕二頭筋腱」
今度は右肘の内側だ。
銀の刃が、肉の薄い部分を正確にかすめ取っていく。
「っぐ……!」
右腕に力が入らない。
「アキレス腱」
かかとの後ろ。少しでも動きが遅れれば、完全に断ち切られていた。
カミヤは、ぎりぎりのところで身をひねり、刃先を浅く受けるようにした。
それでも、鋭い痛みが走る。
「前脛骨筋腱」
足首の前面。
「膝蓋腱」
膝の皿のすぐ下。
一つ一つの言葉が、刃とセットで突き刺さる。
時雨は、本当に「観察」していた。
どこを切れば、相手の機動力を一番効率的に奪えるか。どの深さで切れば、死なずに苦しめられるか。
傭兵時代に磨いたナイフ捌きが、人間ではない相手に向けられている。
カミヤの身体は、再生と破壊を同時に繰り返していた。
切られる。血が噴き出す。銀色の粒子がこぼれる。肉が盛り上がる。だが、その前に、また次の刃が来る。
「……はぁっ……」
息が、少しずつ荒くなる。
満月からの力が、再生にどんどん食われていく。
「銀は人狼の天敵だ」
時雨が、淡々と告げる。
「知っていたか?」
「今、身をもって実感してるところだよ」
皮肉っぽく返す余裕は、まだあった。
だが——膝が、笑う。
「くそ……」
片膝が地面に落ちる。
砂利が膝に食い込む感覚が、妙に鮮明だった。
右腕は、ほとんど言うことを聞かない。左手も、握ろうとすると震えが走る。両足の腱も、何度も切られ、何度も繋がれ、そのたびに再生の速度はほんの少しずつ遅くなっていた。
「最後に、心臓を突く」
時雨が、歩み寄る。
「これが俺の流儀だ」
銀のナイフを、逆手に持ち替える。
刃先が、月光を受けて白く光る。
「——終わりだ、人狼」




