第10話:警察のドアが開いた瞬間、手術台の天井の光を思い出した
翌日、《月下美人》の空気は、いつもより重かった。
営業前の店内。照明はまだ落とされ、カウンターの上には洗い立てのグラスが逆さに並んでいる。ステージ用のライトだけがほのかに点いて、薄暗い中にテーブルとソファの輪郭を浮かび上がらせていた。
「失礼します」
場違いなほど真面目な声が、ドアの向こうから聞こえた。
真珠さんが鍵を外し、扉を少しだけ開ける。
「……あら。珍しいお客様ね」
そこに立っていたのは、二人の警察官だった。
一人は、目の下に濃い隈を刻んだ中年の男。短く刈った髪には白髪が混じり、くたびれたスーツからは潮と煙草の匂いがした。
もう一人は、小柄な女の人。髪を低い位置でひっつめて、感情をあまり表に出さない目をしている。
「県警の久我山です。組織犯罪対策課」
中年の男が、手帳をほんの一瞬だけ見せた。
「こちらは、所轄の生活安全課、三門巡査部長」
「三門です」
女の人は、軽く会釈する。
警察——。
その言葉に、胃の奥がきゅっと縮んだ。
私はソファ席の隅に座っていた。真珠さんに「隠れときなさい」と言われたけど、「隠れる」のも「話の外に置かれる」のももう嫌で、人がいない時間帯に限って同席を許してもらったところだった。
「で?」
真珠さんは、カウンターの内側から出てきて、二人に向き合う。
「うちの店はちゃんと風営法守ってるし、未成年も入れてないし、違法なことはしてないつもりだけど?」
「ええ、そこについて疑っているわけではありません」
久我山警部は、落ち着いた声で言った。
「今日は、賀茂海運の件で伺いました」
その名前が出た瞬間、真珠さんの目つきが変わる。
「……公の場で、その名前を出して大丈夫?」
「ここは、そんなに公の場じゃないでしょう」
苦笑いが、久我山の口元に浮かぶ。
「あなたが、警察にも裏社会にも最低限の顔が利く人だというのは、承知しています。だからこそ、来たんです」
「光栄ね」
皮肉を含んだ声。
「で、どういう用?」
「我々は、賀茂玄悟——賀茂海運社長が、裏で薬物の流通を仕切っていることを、だいぶ前から把握しています」
久我山は、店内をぐるりと一瞥した。
「ですが、証拠が足りない。港湾倉庫は広く、運送の経路も複雑。押収に踏み切るには、もう一押し、決定的な情報が必要になる」
「回りくどいわね」
真珠さんは、ソファの背にもたれながら煙草に火をつけた。ふう、と紫煙を吐き出す。
「結局、何が言いたいの?」
「最近、あなたの店のキャストの一人が、賀茂側の売人から薬物を買っていた——そういう話を、我々は別ルートから聞きました」
その言葉に、胸がぎゅっと掴まれたようになった。
サヤ。
「その子は、被害者です」
先に口を開いたのは、三門巡査部長だった。
静かな声に、はっきりとした熱がこもっていた。
「自分の意思で選んだ自由な買い物なんかじゃない。追い詰められて、それしか選べないところまで追い込まれた結果です」
「……そうね」
真珠さんは、煙草を灰皿に押し付けた。
「それは、私もそう思う」
「そして——昨夜、その売人と、そのさらに上にいる連中が、あなたの店の別のキャストを襲おうとした」
「……」
久我山警部の視線が、ゆっくりと私の方へ向く。
逃げたくなった。けれど、目を逸らさなかった。
「その場に居合わせた通りすがりの男が、彼女を助けた」
警部の言う「通りすがり」は、もちろんカミヤのことだ。
「我々は、その男の存在も、ある程度把握しています。港の荷揚げで異様な働きをしていたこと。賀茂側の人間と、既に一度やり合っていること。そして——昨夜、埠頭で銀刃の殺し屋と遭遇したこと」
「……そこまで掴んでるなら、あとは勝手にやってくれればいいんじゃないの」
真珠さんが、少し苛立ったように言った。
「なんで、ここに来るのよ」
「被害者を、これ以上出したくないからです」
三門巡査部長が、きっぱりと言う。
「リオさん」
初めて、名前を呼ばれた。
「あなたは昨夜、サヤさんと売人のやり取りを目撃し、止めようとした。逃げることもできたのに、逃げなかった」
「……」
「そのせいで、彼らはあなたを消すべき存在と認識した」
言葉の一つ一つが、胸に刺さる。
「あなたには、そのことを証言に変えることができる立場があります」
「証言……」
私は、呟き返す。
「証言したら、サヤは救われる?」
「救われるの意味にもよりますが——少なくとも、彼女がこれ以上、組織に利用される可能性は低くなる」
久我山警部が、ゆっくりと補足した。
「ただし、その代わりに、あなた自身が危険に晒されます」
「……正直ね」
「隠しても、意味がないでしょう」
三門巡査部長が淡々と言う。
「あなたは、もう知ってしまった側にいる。昨夜、見て見ぬふりをしなかった時点で、安全な場所には戻れない」
その言葉を聞いた時、胸の奥で何かがカチリと音を立てた気がした。
——戻れない。
それは、私にとって、ずっと前から知っていた感覚だ。
手術台に上がったあの日。全身麻酔で意識が遠のく直前、天井の白い光を見ながら、「これが終わったら、私はもう元の身体には戻れない」と思った。
でも、それは「戻れない」ことへの恐怖であると同時に、「戻らなくていい」という救いでもあった。
今、同じように——




