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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第10話:警察のドアが開いた瞬間、手術台の天井の光を思い出した

 翌日、《月下美人》の空気は、いつもより重かった。


 営業前の店内。照明はまだ落とされ、カウンターの上には洗い立てのグラスが逆さに並んでいる。ステージ用のライトだけがほのかに点いて、薄暗い中にテーブルとソファの輪郭を浮かび上がらせていた。


「失礼します」


 場違いなほど真面目な声が、ドアの向こうから聞こえた。


 真珠さんが鍵を外し、扉を少しだけ開ける。


「……あら。珍しいお客様ね」


 そこに立っていたのは、二人の警察官だった。


 一人は、目の下に濃い隈を刻んだ中年の男。短く刈った髪には白髪が混じり、くたびれたスーツからは潮と煙草の匂いがした。


 もう一人は、小柄な女の人。髪を低い位置でひっつめて、感情をあまり表に出さない目をしている。


「県警の久我山です。組織犯罪対策課」


 中年の男が、手帳をほんの一瞬だけ見せた。


「こちらは、所轄の生活安全課、三門巡査部長」


「三門です」


 女の人は、軽く会釈する。


 警察——。


 その言葉に、胃の奥がきゅっと縮んだ。


 私はソファ席の隅に座っていた。真珠さんに「隠れときなさい」と言われたけど、「隠れる」のも「話の外に置かれる」のももう嫌で、人がいない時間帯に限って同席を許してもらったところだった。


「で?」


 真珠さんは、カウンターの内側から出てきて、二人に向き合う。


「うちの店はちゃんと風営法守ってるし、未成年も入れてないし、違法なことはしてないつもりだけど?」


「ええ、そこについて疑っているわけではありません」


 久我山警部は、落ち着いた声で言った。


「今日は、賀茂海運の件で伺いました」


 その名前が出た瞬間、真珠さんの目つきが変わる。


「……公の場で、その名前を出して大丈夫?」


「ここは、そんなに公の場じゃないでしょう」


 苦笑いが、久我山の口元に浮かぶ。


「あなたが、警察にも裏社会にも最低限の顔が利く人だというのは、承知しています。だからこそ、来たんです」


「光栄ね」


 皮肉を含んだ声。


「で、どういう用?」


「我々は、賀茂玄悟——賀茂海運社長が、裏で薬物の流通を仕切っていることを、だいぶ前から把握しています」


 久我山は、店内をぐるりと一瞥した。


「ですが、証拠が足りない。港湾倉庫は広く、運送の経路も複雑。押収に踏み切るには、もう一押し、決定的な情報が必要になる」


「回りくどいわね」


 真珠さんは、ソファの背にもたれながら煙草に火をつけた。ふう、と紫煙を吐き出す。


「結局、何が言いたいの?」


「最近、あなたの店のキャストの一人が、賀茂側の売人から薬物を買っていた——そういう話を、我々は別ルートから聞きました」


 その言葉に、胸がぎゅっと掴まれたようになった。


 サヤ。


「その子は、被害者です」


 先に口を開いたのは、三門巡査部長だった。


 静かな声に、はっきりとした熱がこもっていた。


「自分の意思で選んだ自由な買い物なんかじゃない。追い詰められて、それしか選べないところまで追い込まれた結果です」


「……そうね」


 真珠さんは、煙草を灰皿に押し付けた。


「それは、私もそう思う」


「そして——昨夜、その売人と、そのさらに上にいる連中が、あなたの店の別のキャストを襲おうとした」


「……」


 久我山警部の視線が、ゆっくりと私の方へ向く。


 逃げたくなった。けれど、目を逸らさなかった。


「その場に居合わせた通りすがりの男が、彼女を助けた」


 警部の言う「通りすがり」は、もちろんカミヤのことだ。


「我々は、その男の存在も、ある程度把握しています。港の荷揚げで異様な働きをしていたこと。賀茂側の人間と、既に一度やり合っていること。そして——昨夜、埠頭で銀刃の殺し屋と遭遇したこと」


「……そこまで掴んでるなら、あとは勝手にやってくれればいいんじゃないの」


 真珠さんが、少し苛立ったように言った。


「なんで、ここに来るのよ」


「被害者を、これ以上出したくないからです」


 三門巡査部長が、きっぱりと言う。


「リオさん」


 初めて、名前を呼ばれた。


「あなたは昨夜、サヤさんと売人のやり取りを目撃し、止めようとした。逃げることもできたのに、逃げなかった」


「……」


「そのせいで、彼らはあなたを消すべき存在と認識した」


 言葉の一つ一つが、胸に刺さる。


「あなたには、そのことを証言に変えることができる立場があります」


「証言……」


 私は、呟き返す。


「証言したら、サヤは救われる?」


「救われるの意味にもよりますが——少なくとも、彼女がこれ以上、組織に利用される可能性は低くなる」


 久我山警部が、ゆっくりと補足した。


「ただし、その代わりに、あなた自身が危険に晒されます」


「……正直ね」


「隠しても、意味がないでしょう」


 三門巡査部長が淡々と言う。


「あなたは、もう知ってしまった側にいる。昨夜、見て見ぬふりをしなかった時点で、安全な場所には戻れない」


 その言葉を聞いた時、胸の奥で何かがカチリと音を立てた気がした。


 ——戻れない。


 それは、私にとって、ずっと前から知っていた感覚だ。


 手術台に上がったあの日。全身麻酔で意識が遠のく直前、天井の白い光を見ながら、「これが終わったら、私はもう元の身体には戻れない」と思った。


 でも、それは「戻れない」ことへの恐怖であると同時に、「戻らなくていい」という救いでもあった。


 今、同じように——



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