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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第9話:人狼の告白と、戻れない場所まで来た私

 その夜、倉庫の扉がきしむ音を聞いた瞬間、胸の奥がざわっと波立った。


 真珠さんが「今日はここに隠れてなさい」と言って、古びた倉庫まで一緒に来てくれたのは、もう何時間も前のことだ。ここなら、組織の連中もすぐには嗅ぎつけないだろう——そう言われて、私はカミヤが帰ってくるのを一人で待っていた。


 どれくらい待ったか、わからない。


 港の遠い機械音が少しずつ減って、代わりに波と風の音が大きくなっていった頃。


 ギィ……と、扉がゆっくり開いた。


「——カミヤ?」


 立ち上がりかけて、そのまま固まる。


 扉のところに立っていたのは、血まみれの男だった。


 黒いジャケットはあちこち切り裂かれて、白いシャツはほとんど赤に染まっている。腕にも肩にも太腿にも、複数の切り傷が走っていて、ところどころ、肉が覗いて見えた。


「っ……!」


 悲鳴が、喉の奥でつっかえて、音にならなかった。


「ただいま」


 場違いな言葉を、カミヤは口にした。


 その顔は、ひどく疲れていて——なのに、どこかホッとしたようにも見えた。


「ちょ、ちょっと待って、それ……病院……!」


 慌てて駆け寄ると、彼は肩をすくめる。


「病院、ねえ」


「笑い事じゃないでしょ!」


 袖の破れ目に指が触れた瞬間、私は息を呑んだ。


 裂けた皮膚の隙間から、銀色の粉みたいなものが、ぱらぱらと零れ落ちていたのだ。


 ガラスの粉みたいに、淡く光る粒子。


 そこから、肉が——盛り上がっていく。


「……なに、これ」


 思わず、声が震える。


 私の目の前で、開いていた傷口が、ゆっくりと閉じていく。じわじわと肉がよじれて、元の形に戻ろうとする。その度に銀色の粒が崩れ落ちて、床に散って消えた。


「見たな」


 カミヤが、小さく笑った。


「見ないわけないでしょ、こんなの……」


 膝が、勝手に笑う。慌てて近くのダンボールに手をついて、なんとか立っているふりを続けた。


「座れ」


 逆に、彼にそう言われる。


「いや、あんたの方が——」


「俺はそのうち勝手に塞がる。お前が倒れた方が面倒だ」


「……」


 言い返せなかった。


 ゆっくりと、その場に腰を落とす。膝がまだ震えていた。


 カミヤは、破れたジャケットを脱ぎ捨てる。その下のシャツもボロボロで、ところどころ肌が見えていた。


 腕の傷は、もうほとんど塞がっていた。


 さっきまで血が流れていたはずなのに、今はうっすら赤くなっているだけ。


「……な、何それ」


 やっとの思いで、もう一度、同じ言葉が口から出てきた。


「何って」


「その、回復力。銀のキラキラ。人間の身体じゃないってことくらい、馬鹿な私でもわかるんだけど」


「だろうな」


 カミヤは、埃っぽい床にそのままドサッと腰を下ろした。


 大きく息を吐く。その息も、どこか熱を帯びているように感じる。


「——俺は人間じゃない」


 顔を上げて、真っ直ぐに私を見る。


 琥珀色の瞳が、薄暗い倉庫の中でゆらゆらと揺れた。


「人狼だ」


 その一言で、空気が変わった。


「じ、んろう……」


 口の中で転がしてみる。


 童話やホラー映画の中の存在。小さい頃に読んだ絵本には、赤ずきんちゃんを食べる狼が出てきたし、深夜番組では満月の夜に人を襲う怪物として描かれていた。


 でも今、目の前にいるのは——


「そんな顔で見るな」


 カミヤが、ため息まじりに言う。


「どんな顔」


「見世物でも見るみてぇな顔」


「だって、見世物どころじゃないでしょ。さっきまでただの腕の立つ日雇いだと思ってた人が、急に人狼ですって言い出したんだよ?」


「ただのってあたり、ちょっと引っかかるな」


「そこ?」


 自分でも、笑ってしまう。


 怖いとか、気持ち悪いとか、そういう感情よりも先に、現実感のなさが来ていた。


 まるで、長い悪い夢の途中で、さらに変な夢を見せられているみたいな。


「ほら」


 気づくと、私は無意識に手を伸ばしていた。


「なに」


「触っていい?」


「は?」


「腕」


 カミヤは、ものすごく嫌そうな顔をした。


「お前な……もうちょい、普通は怯えるとこだろ」


「怯えてるよ」


「どこが」


「心の中」


「わかりづれえ」


 ぶつぶつ言いながらも、彼は左腕をこちらに差し出した。


 さっき深く切れていたはずの場所に、うっすらと赤い線が残っている。その上に、まだ銀色の粉がわずかに残っていた。


 指先で、そっと触れる。


 冷たくも熱くもない、普通の皮膚の感触。


「……本当に、塞がってる」


「そう見えるなら、そうなんだろ」


「便利ね」


 ぽろりとこぼれた言葉に、自分でハッとする。


「ご、ごめん。なんか、その、軽く言っちゃいけないこと言った気がする」


「別にいい」


 カミヤは、肩を竦めた。


「便利な時もあるし、不便な時もある。どっちでもねえ時もある。三百年もやってりゃ、だいたい飽きる」


「三百年……」


 聞き捨てならない数字が、さらっと出てきた。


「今、三百って言った?」


「言ったな」


「さりげなく老け盛ったわね」


「盛ってねえわ。実年齢だ」


「……」


 何も言えなくなる。


 二十歳の私は、「二十年」でも重いと思う瞬間がある。子どもの頃のこと、思春期のこと、家族のこと。いろんなものを詰め込んだ二十年。


 その十五倍。


「三百年も、生きてるの?」


「そういうことになる」


「ずっと、この世界で?」


「まあ、大陸を変えたり、山の中で数十年引きこもってたこともあるけどな」


 笑いながら言うけれど、その笑いの奥に、どれだけの時間と孤独が詰まっているんだろう。


 胸が、きゅっと鳴った。


「……それ、なんで今まで黙ってたの」


 やっと絞り出した声は、思っていたよりも少しだけ寂しそうに聞こえた。


 カミヤは、目を伏せる。


「黙ってたんじゃねえよ。言う機会がなかっただけだ」


「俺、人狼ですって自己紹介する機会なんて、そうそうないだろ」


「まあ、そうかもね」


 思わず笑ってしまう。


「でもさ」


 私は、膝の上で手をぎゅっと握った。


「今、教えてくれた」


「見られちまったからな」


 カミヤは、腕の赤い跡を見下ろす。


「見られた以上、誤魔化せねえ。だったら、いっそ先に言っといた方が楽だ」


「そういう仕方なくみたいな言い方、ずるい」


「なんでだよ」


「だって、信じて話してくれたって思ったのに、誤魔化せないから話したって言われたら、ちょっとガッカリするじゃん」


「贅沢な女だな」


「知ってる」


 私が少し拗ねたふりをすると、カミヤは小さく息を吐き、それから真面目な表情になった。


「……本当のことを言うとだな」


「うん」


「お前は、聞いたら逃げるタイプじゃねえと思ったから、言った」


 一瞬、時間が止まった気がした。



「だってさ」


 カミヤは続ける。


「お前、ニューハーフなんだろ」


「……」


「真珠さんから、ちょろっと聞いた。男として生まれて、でも女として生きてて、なんかいろいろあったらしい、って」


「また、真珠さん余計なこと……」


 思わず額を押さえる。


「別に悪くは言ってなかったぞ。あの子は強い子だから、ちゃんと話せる大人が必要なのよって」


「真珠さん……」


 涙腺が緩みかける。


「で、お前は自分で自分の身体を変えたんだろ」


 カミヤが、まっすぐ言う。


「俺みたいに、生まれつき異物だったんじゃなくて、自分で変わる方を選んだ」


「……うん」


 気づいたら、頷いていた。


「男として生まれて、でも、どうしても自分は女だって感覚が消えなくて。中学生くらいから、本気で悩んで、高校の途中から、海外で手術を受けるために準備して」


 言葉にすると、妙に簡単に聞こえる。


 でも、その一歩ごとに、どれだけ躓いたか。


 鏡に映る自分の身体が、嫌で、憎くて、でもそれを「嫌だ」と言う自分も責めて。


「手術して、身体を完成させた時、嬉しかったよ。鏡に映る自分を見て、これが自分の身体だってやっと思えた」


「……」


 カミヤは黙って聞いている。


「でもね」


 私は、小さく笑った。


「術後に熱出して、傷が痛くてうなされて、ベッドの上で天井を見てた時に、ふと思ったの」


 ああ、もう戻れない場所まで来たんだなって。


「身体は変わった。でも、心の中の寂しさとか、どこにも居場所ないって感覚は、消えてくれなかった」


 それは、誰にも言えなかった弱音だ。


「だからさ」


 私は、カミヤの琥珀色の目を見つめた。


「普通じゃないって言われる気持ちは、少しだけわかるつもり」


「……」


「人間の中に紛れて生きてる獣と、自分の身体をいじってまで人間の枠の中に入ろうとした女もどき」


 自嘲気味に、そう言ってみる。


「どっちも、どこかで『本物じゃない』って言われる側の生き物でしょ」


 倉庫の空気が、少しだけ冷たくなったような気がした。


 長い沈黙。


 カミヤは、床の一点をじっと見ていた。


 やがて——


「……お前、強いな」


 ぽつりと、零れた言葉。


「強くなんか、ないよ」


 反射的に否定する。


「強い」


 今度は、はっきりと言われた。


「戻れねえ場所まで自分で歩いていって、それでも失敗したかもとか寂しいとか思いながら、まだ前に進もうとしてる奴は、強ぇよ」


「……前に、進めてるように、見える?」


「少なくとも、昨夜あんな路地裏で、見て見ぬふりしねえ女は、俺の中じゃ弱いってカテゴライズされねえ」


 思わず、目の縁が熱くなった。


「なんで、そんなズルいこと言うの」


「ズルいか?」


「ズルい」


 涙が、ぽろりと零れる。


「……泣くなよ」


「泣かせたの、誰だと思ってるの」


「知らねえよ」


「最低」


 そう言いながら、笑ってしまう。


 涙と一緒に、胸の奥の苦いものが、少しだけ流れ出ていくような気がした。


 ——この時、私はもう、決定的に戻れないところまで来ていたのかもしれない。


 人狼である彼への恐怖よりも、その孤独に触れた時の切なさの方が、ずっと強かったから。



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