第9話:人狼の告白と、戻れない場所まで来た私
その夜、倉庫の扉がきしむ音を聞いた瞬間、胸の奥がざわっと波立った。
真珠さんが「今日はここに隠れてなさい」と言って、古びた倉庫まで一緒に来てくれたのは、もう何時間も前のことだ。ここなら、組織の連中もすぐには嗅ぎつけないだろう——そう言われて、私はカミヤが帰ってくるのを一人で待っていた。
どれくらい待ったか、わからない。
港の遠い機械音が少しずつ減って、代わりに波と風の音が大きくなっていった頃。
ギィ……と、扉がゆっくり開いた。
「——カミヤ?」
立ち上がりかけて、そのまま固まる。
扉のところに立っていたのは、血まみれの男だった。
黒いジャケットはあちこち切り裂かれて、白いシャツはほとんど赤に染まっている。腕にも肩にも太腿にも、複数の切り傷が走っていて、ところどころ、肉が覗いて見えた。
「っ……!」
悲鳴が、喉の奥でつっかえて、音にならなかった。
「ただいま」
場違いな言葉を、カミヤは口にした。
その顔は、ひどく疲れていて——なのに、どこかホッとしたようにも見えた。
「ちょ、ちょっと待って、それ……病院……!」
慌てて駆け寄ると、彼は肩をすくめる。
「病院、ねえ」
「笑い事じゃないでしょ!」
袖の破れ目に指が触れた瞬間、私は息を呑んだ。
裂けた皮膚の隙間から、銀色の粉みたいなものが、ぱらぱらと零れ落ちていたのだ。
ガラスの粉みたいに、淡く光る粒子。
そこから、肉が——盛り上がっていく。
「……なに、これ」
思わず、声が震える。
私の目の前で、開いていた傷口が、ゆっくりと閉じていく。じわじわと肉がよじれて、元の形に戻ろうとする。その度に銀色の粒が崩れ落ちて、床に散って消えた。
「見たな」
カミヤが、小さく笑った。
「見ないわけないでしょ、こんなの……」
膝が、勝手に笑う。慌てて近くのダンボールに手をついて、なんとか立っているふりを続けた。
「座れ」
逆に、彼にそう言われる。
「いや、あんたの方が——」
「俺はそのうち勝手に塞がる。お前が倒れた方が面倒だ」
「……」
言い返せなかった。
ゆっくりと、その場に腰を落とす。膝がまだ震えていた。
カミヤは、破れたジャケットを脱ぎ捨てる。その下のシャツもボロボロで、ところどころ肌が見えていた。
腕の傷は、もうほとんど塞がっていた。
さっきまで血が流れていたはずなのに、今はうっすら赤くなっているだけ。
「……な、何それ」
やっとの思いで、もう一度、同じ言葉が口から出てきた。
「何って」
「その、回復力。銀のキラキラ。人間の身体じゃないってことくらい、馬鹿な私でもわかるんだけど」
「だろうな」
カミヤは、埃っぽい床にそのままドサッと腰を下ろした。
大きく息を吐く。その息も、どこか熱を帯びているように感じる。
「——俺は人間じゃない」
顔を上げて、真っ直ぐに私を見る。
琥珀色の瞳が、薄暗い倉庫の中でゆらゆらと揺れた。
「人狼だ」
その一言で、空気が変わった。
「じ、んろう……」
口の中で転がしてみる。
童話やホラー映画の中の存在。小さい頃に読んだ絵本には、赤ずきんちゃんを食べる狼が出てきたし、深夜番組では満月の夜に人を襲う怪物として描かれていた。
でも今、目の前にいるのは——
「そんな顔で見るな」
カミヤが、ため息まじりに言う。
「どんな顔」
「見世物でも見るみてぇな顔」
「だって、見世物どころじゃないでしょ。さっきまでただの腕の立つ日雇いだと思ってた人が、急に人狼ですって言い出したんだよ?」
「ただのってあたり、ちょっと引っかかるな」
「そこ?」
自分でも、笑ってしまう。
怖いとか、気持ち悪いとか、そういう感情よりも先に、現実感のなさが来ていた。
まるで、長い悪い夢の途中で、さらに変な夢を見せられているみたいな。
「ほら」
気づくと、私は無意識に手を伸ばしていた。
「なに」
「触っていい?」
「は?」
「腕」
カミヤは、ものすごく嫌そうな顔をした。
「お前な……もうちょい、普通は怯えるとこだろ」
「怯えてるよ」
「どこが」
「心の中」
「わかりづれえ」
ぶつぶつ言いながらも、彼は左腕をこちらに差し出した。
さっき深く切れていたはずの場所に、うっすらと赤い線が残っている。その上に、まだ銀色の粉がわずかに残っていた。
指先で、そっと触れる。
冷たくも熱くもない、普通の皮膚の感触。
「……本当に、塞がってる」
「そう見えるなら、そうなんだろ」
「便利ね」
ぽろりとこぼれた言葉に、自分でハッとする。
「ご、ごめん。なんか、その、軽く言っちゃいけないこと言った気がする」
「別にいい」
カミヤは、肩を竦めた。
「便利な時もあるし、不便な時もある。どっちでもねえ時もある。三百年もやってりゃ、だいたい飽きる」
「三百年……」
聞き捨てならない数字が、さらっと出てきた。
「今、三百って言った?」
「言ったな」
「さりげなく老け盛ったわね」
「盛ってねえわ。実年齢だ」
「……」
何も言えなくなる。
二十歳の私は、「二十年」でも重いと思う瞬間がある。子どもの頃のこと、思春期のこと、家族のこと。いろんなものを詰め込んだ二十年。
その十五倍。
「三百年も、生きてるの?」
「そういうことになる」
「ずっと、この世界で?」
「まあ、大陸を変えたり、山の中で数十年引きこもってたこともあるけどな」
笑いながら言うけれど、その笑いの奥に、どれだけの時間と孤独が詰まっているんだろう。
胸が、きゅっと鳴った。
「……それ、なんで今まで黙ってたの」
やっと絞り出した声は、思っていたよりも少しだけ寂しそうに聞こえた。
カミヤは、目を伏せる。
「黙ってたんじゃねえよ。言う機会がなかっただけだ」
「俺、人狼ですって自己紹介する機会なんて、そうそうないだろ」
「まあ、そうかもね」
思わず笑ってしまう。
「でもさ」
私は、膝の上で手をぎゅっと握った。
「今、教えてくれた」
「見られちまったからな」
カミヤは、腕の赤い跡を見下ろす。
「見られた以上、誤魔化せねえ。だったら、いっそ先に言っといた方が楽だ」
「そういう仕方なくみたいな言い方、ずるい」
「なんでだよ」
「だって、信じて話してくれたって思ったのに、誤魔化せないから話したって言われたら、ちょっとガッカリするじゃん」
「贅沢な女だな」
「知ってる」
私が少し拗ねたふりをすると、カミヤは小さく息を吐き、それから真面目な表情になった。
「……本当のことを言うとだな」
「うん」
「お前は、聞いたら逃げるタイプじゃねえと思ったから、言った」
一瞬、時間が止まった気がした。
「だってさ」
カミヤは続ける。
「お前、ニューハーフなんだろ」
「……」
「真珠さんから、ちょろっと聞いた。男として生まれて、でも女として生きてて、なんかいろいろあったらしい、って」
「また、真珠さん余計なこと……」
思わず額を押さえる。
「別に悪くは言ってなかったぞ。あの子は強い子だから、ちゃんと話せる大人が必要なのよって」
「真珠さん……」
涙腺が緩みかける。
「で、お前は自分で自分の身体を変えたんだろ」
カミヤが、まっすぐ言う。
「俺みたいに、生まれつき異物だったんじゃなくて、自分で変わる方を選んだ」
「……うん」
気づいたら、頷いていた。
「男として生まれて、でも、どうしても自分は女だって感覚が消えなくて。中学生くらいから、本気で悩んで、高校の途中から、海外で手術を受けるために準備して」
言葉にすると、妙に簡単に聞こえる。
でも、その一歩ごとに、どれだけ躓いたか。
鏡に映る自分の身体が、嫌で、憎くて、でもそれを「嫌だ」と言う自分も責めて。
「手術して、身体を完成させた時、嬉しかったよ。鏡に映る自分を見て、これが自分の身体だってやっと思えた」
「……」
カミヤは黙って聞いている。
「でもね」
私は、小さく笑った。
「術後に熱出して、傷が痛くてうなされて、ベッドの上で天井を見てた時に、ふと思ったの」
ああ、もう戻れない場所まで来たんだなって。
「身体は変わった。でも、心の中の寂しさとか、どこにも居場所ないって感覚は、消えてくれなかった」
それは、誰にも言えなかった弱音だ。
「だからさ」
私は、カミヤの琥珀色の目を見つめた。
「普通じゃないって言われる気持ちは、少しだけわかるつもり」
「……」
「人間の中に紛れて生きてる獣と、自分の身体をいじってまで人間の枠の中に入ろうとした女もどき」
自嘲気味に、そう言ってみる。
「どっちも、どこかで『本物じゃない』って言われる側の生き物でしょ」
倉庫の空気が、少しだけ冷たくなったような気がした。
長い沈黙。
カミヤは、床の一点をじっと見ていた。
やがて——
「……お前、強いな」
ぽつりと、零れた言葉。
「強くなんか、ないよ」
反射的に否定する。
「強い」
今度は、はっきりと言われた。
「戻れねえ場所まで自分で歩いていって、それでも失敗したかもとか寂しいとか思いながら、まだ前に進もうとしてる奴は、強ぇよ」
「……前に、進めてるように、見える?」
「少なくとも、昨夜あんな路地裏で、見て見ぬふりしねえ女は、俺の中じゃ弱いってカテゴライズされねえ」
思わず、目の縁が熱くなった。
「なんで、そんなズルいこと言うの」
「ズルいか?」
「ズルい」
涙が、ぽろりと零れる。
「……泣くなよ」
「泣かせたの、誰だと思ってるの」
「知らねえよ」
「最低」
そう言いながら、笑ってしまう。
涙と一緒に、胸の奥の苦いものが、少しだけ流れ出ていくような気がした。
——この時、私はもう、決定的に戻れないところまで来ていたのかもしれない。
人狼である彼への恐怖よりも、その孤独に触れた時の切なさの方が、ずっと強かったから。




