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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第8話:港に降る黒い刃、殺し屋・時雨と不死の人狼が初めて牙を交える夜

 夜の港は、昼とは別の顔を見せる。


 昼間はトラックとフォークリフトが走り回る埠頭も、深夜が近づくと、急に静かになる。代わりに、遠くのタンカーの汽笛と、街のネオンの反射だけが、ゆらゆらと揺れていた。


 カミヤは、その境界線を一人で歩いていた。


 《月下美人》にリオを預けた後、昼間は少し眠り、夕方からまた動き出した。港湾労働の仕事は、とりあえずバックレた形になるが、源に文句を言われる頃には、どうせこの街にはいないだろう。


 足元の影が、黒く伸びる。


『主人』


 クロが顔を出す。


「なんだ」


『あの女のところに残る、とは言わんのか?』


「俺がいたら、かえって目立つ」


 カミヤは、無造作に答えた。


「堂前の奴らは、もう俺の顔を別枠で記憶してる。あいつらの中で、リオは消せる駒で、俺は警戒すべき獣だ」


『獣、か』


「まあ、間違っちゃいねえ」


 自嘲気味に笑いながらも、視線は暗闇から目を離さない。


 この街に着いてから、何度か耳にした噂を繋げていく。


 ——「賀茂海運」の倉庫の一つに、警察もまだ場所を特定できていない「特別な倉庫」がある。


 ——そこに、外から入ってきた「腕のいいやり手」が出入りしている。


 ——そいつは、組織の人間じゃない。だが、賀茂に雇われている。


 腕のいいやり手。


 裏社会でそういう言葉を聞いた時、カミヤは本能的に「嫌な予感」がした。


(ただのチンピラなら、影狼を出すまでもねえ。けど——)


 風が、ふいに止まった。


 海面を撫でていたはずの風が、ぴたりと凪いだ。


「——やあ」


 背中の皮膚が、一瞬で総毛立った。


 声と同時に、風が裂ける。


 カミヤは、反射で身体をひねった。


 それでも、完全には避けきれない。


 左腕に、鋭い痛みが走った。


 ジャケットの袖が、音もなく裂ける。露出した肌に、細く深い線が刻まれ、そこから血が噴き出した。


 銀色の粒子が、暗闇の中にぱらぱらとこぼれ落ちる。


「……速いな」


 暗闇の中から、ゆっくりと男が現れた。


 身長は高くない。だが、全身に無駄な肉がない。筋肉が硬く締まり、猫のような、しかし蛇のような、奇妙な静けさをまとっている。


 黒い髪を、濡れたように額に垂らしている。目は、笑っていない。まばたきが、異様に少ない。


 手には、黒い刃のナイフ。


 艶消しの黒。光を反射しない。獣の目を欺くための選択。


「避けるとは、思わなかった」


 男は、感心したように言った。


 声には高低差があまりない。感情をどこに置いたらいいのかわからないような、平坦な声。


「どちらさんだ」


 カミヤは、傷口をちらりと見てから、男を見据えた。


 血はすでに止まり始めている。裂けた皮膚から、銀色の粒子がこぼれ、肉が盛り上がっていく。


 男の目が、その光景を見て、わずかに見開かれた。


「……へえ」


 その「へえ」が、本当に珍しいものを見た時の声だった。


「時雨」


 男は自分の胸を軽く指で叩く。


「時の雨と書いて、時雨。姓はどうでもいい」


「俺は聞いてねえけどな」


「礼儀だ」


 時雨は首をかしげる。


「殺す相手に、名前くらいは名乗る」


「物騒な礼儀だな」


「でも、俺はそういう主義だ」


 淡々とした言葉の端々から、「それを守ってきた時間の長さ」がにじむ。


「何者だ。賀茂の犬か」


「犬じゃない」


 時雨は、口元だけで笑った。


「ただの殺し屋だ。中東で傭兵をしてた。戦場で銃よりナイフの方が性に合うとわかってからは、ずっと刃物を握ってる」


 ナイフが、月光を受けて黒く鈍く光った。


「ここに来たのは、依頼があったから。『厄介な獣が一匹、港に迷い込んできた。始末してほしい』って」


「獣、ね」


 カミヤは、低く笑った。


「よくわかってんじゃねえか」


「まあ、まだ確信はないけどね」


 時雨の目が、じっとカミヤの傷口を見る。


 再生しかけた皮膚から、今もなお銀色の粒子が舞っていた。


「人間の回復じゃない」


「体質だ」


「嘘だね」


 あっさり否定される。


 その瞬間には、もう、時雨の姿が消えていた。


 風が、また裂ける。


 カミヤは、ほとんど勘だけで身体を捻る。


 さっきよりも、さらに速い。


 黒い刃が、闇を切り裂きながら迫ってくる。狙いは肩、脇腹、太もも——いずれも、動きを奪うには十分な部位。


 最小限の動きで、致命傷だけを避ける。


 それでも、服が裂ける。皮膚が裂ける。血が飛ぶ。


「チッ——」


 舌打ちが零れるたび、傷口から光が散る。


 銀色の粒子が、まるでガラスを砕いた時のように、ぱらぱらと宙に舞った。


 時雨は、その光景から目を離さなかった。


「綺麗だ」


 感嘆とも、興奮ともつかない声。


「……化け物か、お前」


 ナイフが一瞬止まる。


「傭兵時代、噂を聞いたことがある。不死身の獣。撃っても刺しても死なない、前線に出されたら敵も味方も関係なく蹂躙する……って」


 カミヤの胸が、わずかにざわめいた。


「眉唾だと思ってた」


 時雨は、ほんの少しだけ口角を上げる。


「でも、今は信じる気にもなる」


「嬉しくねえ」


 言葉と同時に、時雨の姿が再びかき消えた。


 足元の影が、警鐘のように揺れる。


『主人!』


 クロの叫びと同時に、カミヤは前に飛び出した。


 だが——


「——っ!」


 右手に、鋭い痛み。


 ナイフの刃が、手首の内側を深くえぐった。


 屈筋腱。手を握るための、大事な筋。


「ぐ……」


 一瞬、指先から力が抜ける。


 だが、銀色の粒子が噴き出した次の瞬間には、もう肉が盛り上がり、傷口を塞いでいく。

 切られたはずの腱が勝手に繋がり、皮膚が覆う。



「なるほど」


 時雨が、楽しそうに目を細める。


「銀のナイフは、まだ用意してないんだけどね」


 刃を、ぺろりと舌で舐める。


「普通の鋼じゃ、斬ったそばから元通りか。……ここに銀を混ぜたら、どうなるんだろうな。もっと面白いことになるだろう」


「……趣味悪ぃな」


「殺しが好きなんだ」


 時雨は、あっさりと言う。


「相手がどう苦しみ、どう痛がるかを見るのが好きだ。戦場では、そういう観察をする時間が少なかった。だから、こういう実験の場は、貴重でね」


「実験台にされる趣味はねえよ」


 カミヤは、歯を食いしばる。


 右手はまだ使えない。だが、足は動く。


 一歩、踏み込む。


 拳を、左で振るう。


 だが、空を切る。


 時雨は、紙一重でその拳を避け、逆にカミヤの左太腿をなぞるように切り裂いた。


「っ……!」


 膝が、一瞬だけ笑う。


 筋肉の奥、前脛骨筋腱のあたりを、器用に狙っていた。


(こいつ……)


 クロが、影の中で唸る。


『腱を狙っている。動きを奪うために』


(わかってる)


 カミヤは、舌を噛んだ。


「銀のナイフは、用意していないが——」


 時雨は、淡々と告げる。


「次は用意する。今日は、顔合わせだ」


 そう言って、本当にナイフを引いた。


「は?」


 カミヤの口から、素直な驚きが漏れる。


「ここまでやっといて、帰るのかよ」


「うん」


 時雨は、あっさり頷いた。


「お前の再生速度は把握した。切っていい場所と、まだ試してない場所もわかった。次に会う時の準備は、それで十分だ」


「ふざけんな」


「ふざけてないよ」


 時雨は、黒い刃をゆっくりと鞘に収める。


「また会おう、人狼」


 その言葉を残し、影の中に溶けるように姿を消した。


 風が、再び動き出す。


 さっきまでの静けさが嘘みたいに、潮風が髪を揺らした。


 カミヤは、その場に膝をついた。


 血だらけの右手を見つめる。


 銀色の粒子がふわりと舞うと、傷口は見る間に塞がっていった。

 数秒もしないうちに、斬られた痕跡すらなくなる。

 これが人狼の再生力だ。ただの鋼の刃など、いくら受けても痛痒に過ぎない。


(……普通の金属なら、これだ。切られた端から元に戻る)


 だが、背筋が冷たい。

 あいつは正確に腱を狙い、動きを止める実験をしていた。

 回復するからこそ、何度も何度も、実験台にされたのだ。


(もし、今のが銀を混ぜたナイフだったら——)


 俺の右腕は、二度と動かなかったかもしれない。


『主人』


 クロが、影から顔を出す。


『あれは、危険だ』


「わかってる」


 カミヤは、低く呟く。


「厄介な奴が、出てきやがった」


 月が、雲の合間から顔を覗かせていた。


 まだ満ちきってはいない。だが、その光は、少しずつ力を増している。


 届きそうで、まだ届かない。


 銀の刃と、届かぬ月。


 その両方が、これからの面倒を約束するように、静かに空で光っていた。



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