第8話:港に降る黒い刃、殺し屋・時雨と不死の人狼が初めて牙を交える夜
夜の港は、昼とは別の顔を見せる。
昼間はトラックとフォークリフトが走り回る埠頭も、深夜が近づくと、急に静かになる。代わりに、遠くのタンカーの汽笛と、街のネオンの反射だけが、ゆらゆらと揺れていた。
カミヤは、その境界線を一人で歩いていた。
《月下美人》にリオを預けた後、昼間は少し眠り、夕方からまた動き出した。港湾労働の仕事は、とりあえずバックレた形になるが、源に文句を言われる頃には、どうせこの街にはいないだろう。
足元の影が、黒く伸びる。
『主人』
クロが顔を出す。
「なんだ」
『あの女のところに残る、とは言わんのか?』
「俺がいたら、かえって目立つ」
カミヤは、無造作に答えた。
「堂前の奴らは、もう俺の顔を別枠で記憶してる。あいつらの中で、リオは消せる駒で、俺は警戒すべき獣だ」
『獣、か』
「まあ、間違っちゃいねえ」
自嘲気味に笑いながらも、視線は暗闇から目を離さない。
この街に着いてから、何度か耳にした噂を繋げていく。
——「賀茂海運」の倉庫の一つに、警察もまだ場所を特定できていない「特別な倉庫」がある。
——そこに、外から入ってきた「腕のいいやり手」が出入りしている。
——そいつは、組織の人間じゃない。だが、賀茂に雇われている。
腕のいいやり手。
裏社会でそういう言葉を聞いた時、カミヤは本能的に「嫌な予感」がした。
(ただのチンピラなら、影狼を出すまでもねえ。けど——)
風が、ふいに止まった。
海面を撫でていたはずの風が、ぴたりと凪いだ。
「——やあ」
背中の皮膚が、一瞬で総毛立った。
声と同時に、風が裂ける。
カミヤは、反射で身体をひねった。
それでも、完全には避けきれない。
左腕に、鋭い痛みが走った。
ジャケットの袖が、音もなく裂ける。露出した肌に、細く深い線が刻まれ、そこから血が噴き出した。
銀色の粒子が、暗闇の中にぱらぱらとこぼれ落ちる。
「……速いな」
暗闇の中から、ゆっくりと男が現れた。
身長は高くない。だが、全身に無駄な肉がない。筋肉が硬く締まり、猫のような、しかし蛇のような、奇妙な静けさをまとっている。
黒い髪を、濡れたように額に垂らしている。目は、笑っていない。まばたきが、異様に少ない。
手には、黒い刃のナイフ。
艶消しの黒。光を反射しない。獣の目を欺くための選択。
「避けるとは、思わなかった」
男は、感心したように言った。
声には高低差があまりない。感情をどこに置いたらいいのかわからないような、平坦な声。
「どちらさんだ」
カミヤは、傷口をちらりと見てから、男を見据えた。
血はすでに止まり始めている。裂けた皮膚から、銀色の粒子がこぼれ、肉が盛り上がっていく。
男の目が、その光景を見て、わずかに見開かれた。
「……へえ」
その「へえ」が、本当に珍しいものを見た時の声だった。
「時雨」
男は自分の胸を軽く指で叩く。
「時の雨と書いて、時雨。姓はどうでもいい」
「俺は聞いてねえけどな」
「礼儀だ」
時雨は首をかしげる。
「殺す相手に、名前くらいは名乗る」
「物騒な礼儀だな」
「でも、俺はそういう主義だ」
淡々とした言葉の端々から、「それを守ってきた時間の長さ」がにじむ。
「何者だ。賀茂の犬か」
「犬じゃない」
時雨は、口元だけで笑った。
「ただの殺し屋だ。中東で傭兵をしてた。戦場で銃よりナイフの方が性に合うとわかってからは、ずっと刃物を握ってる」
ナイフが、月光を受けて黒く鈍く光った。
「ここに来たのは、依頼があったから。『厄介な獣が一匹、港に迷い込んできた。始末してほしい』って」
「獣、ね」
カミヤは、低く笑った。
「よくわかってんじゃねえか」
「まあ、まだ確信はないけどね」
時雨の目が、じっとカミヤの傷口を見る。
再生しかけた皮膚から、今もなお銀色の粒子が舞っていた。
「人間の回復じゃない」
「体質だ」
「嘘だね」
あっさり否定される。
その瞬間には、もう、時雨の姿が消えていた。
風が、また裂ける。
カミヤは、ほとんど勘だけで身体を捻る。
さっきよりも、さらに速い。
黒い刃が、闇を切り裂きながら迫ってくる。狙いは肩、脇腹、太もも——いずれも、動きを奪うには十分な部位。
最小限の動きで、致命傷だけを避ける。
それでも、服が裂ける。皮膚が裂ける。血が飛ぶ。
「チッ——」
舌打ちが零れるたび、傷口から光が散る。
銀色の粒子が、まるでガラスを砕いた時のように、ぱらぱらと宙に舞った。
時雨は、その光景から目を離さなかった。
「綺麗だ」
感嘆とも、興奮ともつかない声。
「……化け物か、お前」
ナイフが一瞬止まる。
「傭兵時代、噂を聞いたことがある。不死身の獣。撃っても刺しても死なない、前線に出されたら敵も味方も関係なく蹂躙する……って」
カミヤの胸が、わずかにざわめいた。
「眉唾だと思ってた」
時雨は、ほんの少しだけ口角を上げる。
「でも、今は信じる気にもなる」
「嬉しくねえ」
言葉と同時に、時雨の姿が再びかき消えた。
足元の影が、警鐘のように揺れる。
『主人!』
クロの叫びと同時に、カミヤは前に飛び出した。
だが——
「——っ!」
右手に、鋭い痛み。
ナイフの刃が、手首の内側を深くえぐった。
屈筋腱。手を握るための、大事な筋。
「ぐ……」
一瞬、指先から力が抜ける。
だが、銀色の粒子が噴き出した次の瞬間には、もう肉が盛り上がり、傷口を塞いでいく。
切られたはずの腱が勝手に繋がり、皮膚が覆う。
「なるほど」
時雨が、楽しそうに目を細める。
「銀のナイフは、まだ用意してないんだけどね」
刃を、ぺろりと舌で舐める。
「普通の鋼じゃ、斬ったそばから元通りか。……ここに銀を混ぜたら、どうなるんだろうな。もっと面白いことになるだろう」
「……趣味悪ぃな」
「殺しが好きなんだ」
時雨は、あっさりと言う。
「相手がどう苦しみ、どう痛がるかを見るのが好きだ。戦場では、そういう観察をする時間が少なかった。だから、こういう実験の場は、貴重でね」
「実験台にされる趣味はねえよ」
カミヤは、歯を食いしばる。
右手はまだ使えない。だが、足は動く。
一歩、踏み込む。
拳を、左で振るう。
だが、空を切る。
時雨は、紙一重でその拳を避け、逆にカミヤの左太腿をなぞるように切り裂いた。
「っ……!」
膝が、一瞬だけ笑う。
筋肉の奥、前脛骨筋腱のあたりを、器用に狙っていた。
(こいつ……)
クロが、影の中で唸る。
『腱を狙っている。動きを奪うために』
(わかってる)
カミヤは、舌を噛んだ。
「銀のナイフは、用意していないが——」
時雨は、淡々と告げる。
「次は用意する。今日は、顔合わせだ」
そう言って、本当にナイフを引いた。
「は?」
カミヤの口から、素直な驚きが漏れる。
「ここまでやっといて、帰るのかよ」
「うん」
時雨は、あっさり頷いた。
「お前の再生速度は把握した。切っていい場所と、まだ試してない場所もわかった。次に会う時の準備は、それで十分だ」
「ふざけんな」
「ふざけてないよ」
時雨は、黒い刃をゆっくりと鞘に収める。
「また会おう、人狼」
その言葉を残し、影の中に溶けるように姿を消した。
風が、再び動き出す。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、潮風が髪を揺らした。
カミヤは、その場に膝をついた。
血だらけの右手を見つめる。
銀色の粒子がふわりと舞うと、傷口は見る間に塞がっていった。
数秒もしないうちに、斬られた痕跡すらなくなる。
これが人狼の再生力だ。ただの鋼の刃など、いくら受けても痛痒に過ぎない。
(……普通の金属なら、これだ。切られた端から元に戻る)
だが、背筋が冷たい。
あいつは正確に腱を狙い、動きを止める実験をしていた。
回復するからこそ、何度も何度も、実験台にされたのだ。
(もし、今のが銀を混ぜたナイフだったら——)
俺の右腕は、二度と動かなかったかもしれない。
『主人』
クロが、影から顔を出す。
『あれは、危険だ』
「わかってる」
カミヤは、低く呟く。
「厄介な奴が、出てきやがった」
月が、雲の合間から顔を覗かせていた。
まだ満ちきってはいない。だが、その光は、少しずつ力を増している。
届きそうで、まだ届かない。
銀の刃と、届かぬ月。
その両方が、これからの面倒を約束するように、静かに空で光っていた。




