第7話:ママの庇護と条件付きの信頼、「あんた、何者?」と問われる琥珀の瞳
(リオ視点)
息が、苦しかった。
「ちょ、ちょっと待って……っ」
「止まったら、捕まる」
カミヤの声は、息一つ乱れていない。
倉庫の間を抜け、港湾道路のガードレールを越え、古いビルが立ち並ぶエリアへ入ると、匂いが変わった。
潮と油から、アルコールと香水へ。
「こっち」
私は、カミヤの手を反対側に引っ張った。
「曲がって」
「店か」
「うん。真珠さんなら、何とかしてくれる」
《月下美人》の裏口は、細い路地のさらに奥にある。
ごみ袋と発泡スチロールの箱が積まれていて、初めての人間にはわかりづらい。でも、私の足は迷わない。何度も、吐きそうな顔でこの路地を通って、夜と朝の境目を越えてきたから。
「ここ」
鉄製のドアを、拳で叩く。
「真珠さん! 開けて!」
数秒の沈黙。
ドアの向こうで、チェーンの外れる音がした。
ガチャ、と鍵が回る。
「あんた、朝っぱらから——」
半分だけ開いたドアから顔を出したのは、艶のあるショートボブに濃い口紅の女。
《月下美人》のママ、真珠さん。
「リオ……!」
一瞬で、目の色が変わった。
「無事だったの……!」
その声に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「真珠さん、助けて。追われてるの」
私の声は、思っていたよりも掠れていた。
真珠さんは、ちらりとカミヤに視線を流す。
一瞬で、男の全身を測る目。その鋭さに、カミヤも微かに眉をひそめた。
「……話は中で聞く。入んなさい」
ぐい、と腕を掴まれて、店の中へ引きずり込まれる。
カミヤも、当然のように一緒に入ろうとして——
「……ちょっと待ちなさい、あんた」
真珠さんが、その胸を片手で押し止めた。
「あんた、誰?」
真正面から、射抜くような視線。
「通りすがりだ」
「通りすがりが、こんな面倒に首突っ込むかい」
声には、棘と、でも微かな期待が混じっている。
カミヤは、肩をすくめた。
「さあな。俺にもわからん」
「はぐらかすの、上手ね」
真珠さんは、数秒だけ考えるように黙ってから、ため息をついた。
「……いいわ。入んなさい。ここで揉められる方が迷惑だもの」
ドアが閉まり、チェーンがかけられる。
私は、安堵と同時に、震えが足元からせり上がってくるのを感じた。
「ソファ座りなさい」
照明を落とした店内は、夜の顔を半分だけ残した朝の顔をしていた。
カウンターの上には、昨夜のボトルとグラスがそのまま。テーブルには、拭き残したグリッターがきらきらと光っている。
いつもなら、「蘭」の顔を作って、この空間に溶け込む。でも今日は、化粧も落としていないのに、「蘭」でいる余裕がなかった。
私はソファに腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。
真珠さんが、隣に腰を落とす。
「さっき追われてるって言ったわね」
「うん……」
声が震えそうで、でも震えさせたくなくて、喉が痛い。
「サヤのこと、見ちゃったのね」
真珠さんの声は、驚くほど静かだった。
私は、唇を噛む。
「……うん」
昨夜の光景が、頭の中でフラッシュバックする。
バックヤードの暗がりで、震える手で小さな袋を受け取るサヤ。笑いながら、「これがないと、頑張れないの」なんて言った時の、あの顔。
「止めなきゃって、思ったの」
言葉が溢れ出す。
「でも、サヤ、大丈夫だから私が選んでやってることだからって。私、何もできなくて、ただ見てることしか——」
「何もできなかったから、昨日、あそこにいたの?」
真珠さんが、確認するように問う。
私は頷いた。
「見て見ぬふり、したくなかった」
「……バカね」
真珠さんは、そう言いながら、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「でも、そのバカは嫌いじゃない」
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
「謝んなくていい。あんたは悪くない」
真珠さんの声に、少しだけ震えが混じった。
「悪いのは、薬売ってる連中と、その後ろにいる奴らよ」
「後ろ……?」
そこで、隣に座っていたカミヤが、初めて口を挟んだ。
「賀茂海運か」
真珠さんの目が、鋭くなる。
「……どこでその名前を」
「この街に来る前から、ちょっと噂は聞いてた。港を押さえてる運送屋が、裏で薬物の流通も握ってるって話だ」
「耳がいいどころじゃないわね」
真珠さんは、カウンターの奥へ行き、水が入ったグラスを三つ持って戻ってきた。
一つを私に、一つをカミヤに。
「朝っぱらから災難だったわね。水で悪いけど、喉を潤しなさいな」
グラスを両手で包んで、一気に飲み干す。冷たい水が喉から胃まで落ちていく感覚に、少しだけ現実感が戻る。
「賀茂海運のボス、賀茂玄悟は、表向きは地元の名士よ。港湾運送を仕切ってて、祭りやらなんやらに寄付もしてる。警察にも市役所にも、顔は利く」
真珠さんの声は、その名を口にしただけで、わずかに冷えた。
「でも裏じゃ、薬の流通網を握ってる。港を押さえてるから、荷物の出入りをどうとでもできるし、倉庫を使えば、証拠も薄められる」
「警察は?」
カミヤが問う。
「もちろん動いてるわよ。でも、決定的な証拠がない。そこを向こうはよくわかってるから、尻尾をなかなか出さない」
真珠さんは、私の肩に腕を回した。
「サヤはね、あいつらに弱みを握られてたの。元々は客として薬を買ってた。でも、やめたくてもやめられないところまで来た時に、じゃあ働いて返せって」
「売人の片棒を担がされてた」
カミヤが、淡々と続きを言う。
「そう。サヤみたいな子は、この街に何人もいる」
私は、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。
「……私が見なかったふりしてたら、サヤは、もっと深く沈んでたかもしれない」
怖かった。
でも、怖いからって、目をそらしたくなかった。
「だから、あんたは間違ってない」
真珠さんが、はっきりと言った。
「ただ——」
そこで、真珠さんは、一瞬だけ言葉を切る。
「見ちゃったことには、代償がついて回る」
「……口封じに来る」
カミヤの声は、驚くほど冷静だった。
「最悪、殺される。もしくは、薬漬けにして逃げられなくする」
「そうね」
真珠さんは、あっさり肯定する。
「だから、あんたをここで匿う」
「でも——」
私は、思わず口を開いた。
「私のせいで、ここにも迷惑が——」
「出るわよ」
真珠さんは、にこりともせずに言い切った。
「でも、私は、あんたを守るためなら、そのくらいの迷惑は引き受ける」
胸が詰まりそうになった。
「……真珠さん」
「それが、ママの役目だから」
真珠さんは、片目だけでウインクをしてみせる。
その顔が、少しだけ滲んだ。
「ただね」
真珠さんは、グラスをテーブルに置き、カミヤを正面から見た。
「あんたのことは、まだ信用してない」
「だろうな」
カミヤは、素直に頷いた。
「私の店と子たちを守る義務は、私にある。よその男が勝手に首突っ込んで、勝手に出ていって、後始末はこっちに押しつけられる——そんなの、ごめんだわ」
「筋は通ってる」
「だから、聞かせて」
真珠さんの目が、射抜くように鋭くなる。
「あんた、何者?」
店の中の空気が、少しだけ張り詰めた。
私も、思わず息を止める。
カミヤは、数秒だけ目を伏せた。
睫毛が頬に影を落とす。その影が、揺れている。
「……通りすがりの、日雇いだよ」
「さっきも聞いた。そんなの、信用しろって方が無理よ」
「じゃあ、ちょっと腕の立つ日雇いってことで」
「誤魔化してる自覚はあるのね」
真珠さんが、鼻で笑う。
それでも、その笑いはさっきより少しだけ柔らかかった。
「まあいいわ」
真珠さんは、カウンター奥からタオルを取ってきて、私の濡れた髪に掛けた。
知らないうちに、汗でベタベタになっていたらしい。
「リオは、しばらくここに隠す。あんたは?」
「俺は、外で動く」
カミヤの答えは、早かった。
「外?」
「相手のことを、少しは知っとく必要がある。どれだけの人数で動いてて、どこを根城にしてるのか。そういうの、放っとくとあとで面倒だ」
「自分から面倒に突っ込んでいってるようにしか、聞こえないんだけど」
思わず口を挟んでしまった。
「普通、関わりたくないから逃げるって選択肢もあるよ?」
「逃げても、追ってくるだろ」
カミヤは、あっさりと言う。
「だったら、追ってくる足を折るか、鎖で繋いでおいた方が、結果的には楽だ」
「物騒な例えね」
「事実だ」
冷静で、諦めにも似た口調。
真珠さんが、ふうと息を吐いた。
「……あんた、本当に通りすがり?」
「通りすがりにも、いろいろいる」
「はぁ。まあ、いいわ」
真珠さんは立ち上がり、バックヤードの方を顎でしゃくった。
「とりあえずリオは、私の部屋に隠れてなさい。カミヤ、だったわね。あんたは、勝手に死なない程度に、好きにしなさい」
「勝手に死ぬ気は、さらさらねえよ」
「なら結構」
真珠さんは、私の手を引いた。
「行くわよ」
私は、振り返る。
カミヤが、ドアの前でこちらを見ていた。
「……気をつけて」
それしか言えなかった。
「お前もな」
淡々とした返事。
でも、その琥珀色の瞳の奥に、一瞬だけ宿った何かを、私は見逃さなかった。
不安と、決意と——そして、ほんの少しの、心配。
胸が、きゅっと鳴った。




