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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第7話:ママの庇護と条件付きの信頼、「あんた、何者?」と問われる琥珀の瞳

(リオ視点)



 息が、苦しかった。


「ちょ、ちょっと待って……っ」


「止まったら、捕まる」


 カミヤの声は、息一つ乱れていない。


 倉庫の間を抜け、港湾道路のガードレールを越え、古いビルが立ち並ぶエリアへ入ると、匂いが変わった。


 潮と油から、アルコールと香水へ。


「こっち」


 私は、カミヤの手を反対側に引っ張った。


「曲がって」


「店か」


「うん。真珠さんなら、何とかしてくれる」


 《月下美人》の裏口は、細い路地のさらに奥にある。


 ごみ袋と発泡スチロールの箱が積まれていて、初めての人間にはわかりづらい。でも、私の足は迷わない。何度も、吐きそうな顔でこの路地を通って、夜と朝の境目を越えてきたから。


「ここ」


 鉄製のドアを、拳で叩く。


「真珠さん! 開けて!」


 数秒の沈黙。


 ドアの向こうで、チェーンの外れる音がした。


 ガチャ、と鍵が回る。


「あんた、朝っぱらから——」


 半分だけ開いたドアから顔を出したのは、艶のあるショートボブに濃い口紅の女。


 《月下美人》のママ、真珠さん。


「リオ……!」


 一瞬で、目の色が変わった。


「無事だったの……!」


 その声に、胸がぎゅっと締め付けられる。


「真珠さん、助けて。追われてるの」


 私の声は、思っていたよりも掠れていた。


 真珠さんは、ちらりとカミヤに視線を流す。


 一瞬で、男の全身を測る目。その鋭さに、カミヤも微かに眉をひそめた。


「……話は中で聞く。入んなさい」


 ぐい、と腕を掴まれて、店の中へ引きずり込まれる。


 カミヤも、当然のように一緒に入ろうとして——


「……ちょっと待ちなさい、あんた」


 真珠さんが、その胸を片手で押し止めた。


「あんた、誰?」


 真正面から、射抜くような視線。


「通りすがりだ」


「通りすがりが、こんな面倒に首突っ込むかい」


 声には、棘と、でも微かな期待が混じっている。


 カミヤは、肩をすくめた。


「さあな。俺にもわからん」


「はぐらかすの、上手ね」


 真珠さんは、数秒だけ考えるように黙ってから、ため息をついた。


「……いいわ。入んなさい。ここで揉められる方が迷惑だもの」


 ドアが閉まり、チェーンがかけられる。


 私は、安堵と同時に、震えが足元からせり上がってくるのを感じた。


「ソファ座りなさい」


 照明を落とした店内は、夜の顔を半分だけ残した朝の顔をしていた。


 カウンターの上には、昨夜のボトルとグラスがそのまま。テーブルには、拭き残したグリッターがきらきらと光っている。


 いつもなら、「蘭」の顔を作って、この空間に溶け込む。でも今日は、化粧も落としていないのに、「蘭」でいる余裕がなかった。


 私はソファに腰を下ろし、膝の上で両手を握りしめた。


 真珠さんが、隣に腰を落とす。


「さっき追われてるって言ったわね」


「うん……」


 声が震えそうで、でも震えさせたくなくて、喉が痛い。


「サヤのこと、見ちゃったのね」


 真珠さんの声は、驚くほど静かだった。


 私は、唇を噛む。


「……うん」


 昨夜の光景が、頭の中でフラッシュバックする。


 バックヤードの暗がりで、震える手で小さな袋を受け取るサヤ。笑いながら、「これがないと、頑張れないの」なんて言った時の、あの顔。


「止めなきゃって、思ったの」


 言葉が溢れ出す。


「でも、サヤ、大丈夫だから私が選んでやってることだからって。私、何もできなくて、ただ見てることしか——」


「何もできなかったから、昨日、あそこにいたの?」


 真珠さんが、確認するように問う。


 私は頷いた。


「見て見ぬふり、したくなかった」


「……バカね」


 真珠さんは、そう言いながら、私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「でも、そのバカは嫌いじゃない」


「……ごめんなさい」


 小さく呟く。


「謝んなくていい。あんたは悪くない」


 真珠さんの声に、少しだけ震えが混じった。


「悪いのは、薬売ってる連中と、その後ろにいる奴らよ」


「後ろ……?」


 そこで、隣に座っていたカミヤが、初めて口を挟んだ。


「賀茂海運か」


 真珠さんの目が、鋭くなる。


「……どこでその名前を」


「この街に来る前から、ちょっと噂は聞いてた。港を押さえてる運送屋が、裏で薬物の流通も握ってるって話だ」


「耳がいいどころじゃないわね」


 真珠さんは、カウンターの奥へ行き、水が入ったグラスを三つ持って戻ってきた。


 一つを私に、一つをカミヤに。


「朝っぱらから災難だったわね。水で悪いけど、喉を潤しなさいな」


 グラスを両手で包んで、一気に飲み干す。冷たい水が喉から胃まで落ちていく感覚に、少しだけ現実感が戻る。


「賀茂海運のボス、賀茂玄悟は、表向きは地元の名士よ。港湾運送を仕切ってて、祭りやらなんやらに寄付もしてる。警察にも市役所にも、顔は利く」


 真珠さんの声は、その名を口にしただけで、わずかに冷えた。


「でも裏じゃ、薬の流通網を握ってる。港を押さえてるから、荷物の出入りをどうとでもできるし、倉庫を使えば、証拠も薄められる」


「警察は?」


 カミヤが問う。


「もちろん動いてるわよ。でも、決定的な証拠がない。そこを向こうはよくわかってるから、尻尾をなかなか出さない」


 真珠さんは、私の肩に腕を回した。


「サヤはね、あいつらに弱みを握られてたの。元々は客として薬を買ってた。でも、やめたくてもやめられないところまで来た時に、じゃあ働いて返せって」


「売人の片棒を担がされてた」


 カミヤが、淡々と続きを言う。


「そう。サヤみたいな子は、この街に何人もいる」


 私は、膝の上で手をぎゅっと握りしめた。


「……私が見なかったふりしてたら、サヤは、もっと深く沈んでたかもしれない」


 怖かった。


 でも、怖いからって、目をそらしたくなかった。


「だから、あんたは間違ってない」


 真珠さんが、はっきりと言った。


「ただ——」


 そこで、真珠さんは、一瞬だけ言葉を切る。


「見ちゃったことには、代償がついて回る」


「……口封じに来る」


 カミヤの声は、驚くほど冷静だった。


「最悪、殺される。もしくは、薬漬けにして逃げられなくする」


「そうね」


 真珠さんは、あっさり肯定する。


「だから、あんたをここで匿う」


「でも——」


 私は、思わず口を開いた。


「私のせいで、ここにも迷惑が——」


「出るわよ」


 真珠さんは、にこりともせずに言い切った。


「でも、私は、あんたを守るためなら、そのくらいの迷惑は引き受ける」


 胸が詰まりそうになった。


「……真珠さん」


「それが、ママの役目だから」


 真珠さんは、片目だけでウインクをしてみせる。


 その顔が、少しだけ滲んだ。


「ただね」


 真珠さんは、グラスをテーブルに置き、カミヤを正面から見た。


「あんたのことは、まだ信用してない」


「だろうな」


 カミヤは、素直に頷いた。


「私の店と子たちを守る義務は、私にある。よその男が勝手に首突っ込んで、勝手に出ていって、後始末はこっちに押しつけられる——そんなの、ごめんだわ」


「筋は通ってる」


「だから、聞かせて」


 真珠さんの目が、射抜くように鋭くなる。


「あんた、何者?」


 店の中の空気が、少しだけ張り詰めた。


 私も、思わず息を止める。


 カミヤは、数秒だけ目を伏せた。


 睫毛が頬に影を落とす。その影が、揺れている。


「……通りすがりの、日雇いだよ」


「さっきも聞いた。そんなの、信用しろって方が無理よ」


「じゃあ、ちょっと腕の立つ日雇いってことで」


「誤魔化してる自覚はあるのね」


 真珠さんが、鼻で笑う。


 それでも、その笑いはさっきより少しだけ柔らかかった。


「まあいいわ」


 真珠さんは、カウンター奥からタオルを取ってきて、私の濡れた髪に掛けた。


 知らないうちに、汗でベタベタになっていたらしい。


「リオは、しばらくここに隠す。あんたは?」


「俺は、外で動く」


 カミヤの答えは、早かった。


「外?」


「相手のことを、少しは知っとく必要がある。どれだけの人数で動いてて、どこを根城にしてるのか。そういうの、放っとくとあとで面倒だ」


「自分から面倒に突っ込んでいってるようにしか、聞こえないんだけど」


 思わず口を挟んでしまった。


「普通、関わりたくないから逃げるって選択肢もあるよ?」


「逃げても、追ってくるだろ」


 カミヤは、あっさりと言う。


「だったら、追ってくる足を折るか、鎖で繋いでおいた方が、結果的には楽だ」


「物騒な例えね」


「事実だ」


 冷静で、諦めにも似た口調。


 真珠さんが、ふうと息を吐いた。


「……あんた、本当に通りすがり?」


「通りすがりにも、いろいろいる」


「はぁ。まあ、いいわ」


 真珠さんは立ち上がり、バックヤードの方を顎でしゃくった。


「とりあえずリオは、私の部屋に隠れてなさい。カミヤ、だったわね。あんたは、勝手に死なない程度に、好きにしなさい」


「勝手に死ぬ気は、さらさらねえよ」


「なら結構」


 真珠さんは、私の手を引いた。


「行くわよ」


 私は、振り返る。


 カミヤが、ドアの前でこちらを見ていた。


「……気をつけて」


 それしか言えなかった。


「お前もな」


 淡々とした返事。


 でも、その琥珀色の瞳の奥に、一瞬だけ宿った何かを、私は見逃さなかった。


 不安と、決意と——そして、ほんの少しの、心配。


 胸が、きゅっと鳴った。



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