第6話:五人まとめて十秒足らず、静かな港の朝に露わになる人ならざる強さ
朝の光は、倉庫の汚れた窓ガラスを、容赦なく白く曇らせていた。
細長い矩形の光が床に落ち、その端に、丸くなって眠るリオの姿がある。
膝を抱え、壁にもたれて。昨夜あれほど気丈に笑っていた顔が、今は少しだけ緩んでいる。長い睫毛が頬に影を落とし、唇はすこし尖っていた。
子どもみたいだ、とカミヤは思う。
二十歳と言えば、人間の尺度ではもう大人だろう。だが、三百年の時間から見れば、まだ生まれたてに等しい。
(面倒なことになった)
胸の中で呟く。
昨日の夜、路地で助けただけなら、まだ切り捨てることもできた。だが、こうして自分の寝床に入れ、一晩一緒に過ごしてしまえば、簡単には「他人です」と言い切れない。
「……」
カミヤは静かに立ち上がった。
毛布の端を、リオの肩に少し掛け直す。身体を冷やせば風邪をひく——そういう、人間としてのクセが抜けない。
倉庫の外に出ると、港の一日がもう始まっていた。
トラックのエンジン音が重なり合い、フォークリフトのバックブザーが短く鳴る。カモメがうるさく啼き、潮の匂いが、冷たく鼻腔を抜けていく。
足元で、影がざわりと蠢いた。
『主人』
クロの声だ。
荒っぽく、だが芯の通った声が、骨の髄に響く。
「なんだ」
『昨夜から、こっちを窺う気配がある』
カミヤは、倉庫の角からそっと身を乗り出した。
湾岸道路の向こう側。倉庫群の間に、黒いワンボックスが一台、さりげなく停まっている。フロントガラスは反射で中が見えないが、ボディには昨夜嗅いだのと同じ、嫌な匂いがまとわりついていた。
(……昨夜の連れ戻し要員か)
ルーフには、うっすらと潮の塩が白く積もっている。だが、タイヤは冷えていない。さっきここに来たばかりだ。
「思ったより、足が早えな」
『どうする』
「どうもしねえ」
即答すると、クロがわずかに唸る。
『どうもしねえで済む相手じゃないぞ』
「わかってる」
ため息と一緒に、白い息がこぼれた。
(どのみち、ここに長居するつもりはなかった)
潮見市での「荷揚げ暮らし」は、もう終わりだ。
カミヤは倉庫に引き返し、錆びた鉄の扉をそっと開ける。
「おい」
リオの肩を、指先で軽くつついた。
「起きろ。やばい」
「ん……」
低く甘い寝息が、かすかに乱れる。
リオはゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした焦点が、やがてカミヤの顔に合う。数秒遅れで、現実が戻ってきた。
「……おはよう」
声が、かすれている。
「おはようじゃねえ」
カミヤは短く言った。
「簡単に説明する。昨夜お前を囲ってた連中の仲間が、もう倉庫の外に来てる」
一瞬で、リオの瞳から眠気が飛んだ。
「……嘘」
「嘘ならよかったな」
カミヤは、壁に立てかけていた自分のジャケットを羽織る。
「話は歩きながらする。荷物、いるものだけまとめろ。五秒だ」
「ちょ、ちょっと待って、五秒は無理——」
言いながらも、リオは慣れた動きで小さなポーチを掴み、中に財布とスマホとキーケースを放り込む。ドレスの裾をたぐり寄せて結び、歩きやすいようにする手際も早かった。
「……三十秒で許して」
「合格だ」
倉庫の中に、もう未練はない。
ジャケットのポケットに、原付のキーが当たる感触を確かめる。
扉を少しだけ開け、外の空気を読む。
潮の匂いに混じって、煙草と香水と、金属と、血の匂いが近づいてきていた。
「リオ」
「なに」
「俺から離れるな。どんなことがあっても、俺の背中より前に出るな」
言いながら、自分でも笑いそうになった。
まるで、三ヶ月前の自分が、橋の上でナギに言った台詞を、そのまま繰り返しているようで。
(学習能力ねえな、俺も)
リオが、小さく頷く。
「……わかった」
その声は震えていたが、足取りは意外なほどしっかりしていた。
カミヤは扉を押し開け、朝の光の中に一歩踏み出した。
---
倉庫を出た瞬間、空気が重くなった。
五人。カミヤは、視界に入る影と匂いだけで人数を割り出す。
正面に三人、斜め後ろに二人。どの顔にも、昨夜の金髪崩れはいない。
代わりに——一人、雰囲気の違う男がいた。
三十代後半。細身で、頬がこわばっている。目の下のうっすらとしたクマと、乾いた唇。両腕に、シャツ越しでもわかる刺青の影が透けていた。
「……堂前さん」
背後で、リオが小さく息を呑む。
声が、わずかに震えた。
「知り合いか」
カミヤは、目を離さずに問う。
「……麻薬組織の幹部。現場のまとめ役。売人の管理と、回収」
短く、噛み締めるような説明。
なるほどな、とカミヤは思う。
群れの中で、自分で獲物を仕留めるタイプではない。だが、牙と爪を持つ奴らの手綱を締める役目の男だ。
堂前と呼ばれた男が、乾いた声で口を開いた。
「蘭ちゃん、昨夜はうちの若いのを、ずいぶん可愛がってくれたそうじゃないか」
乾いた笑いが、言葉の端に張り付いている。
「——それと、そっちの兄ちゃんも」
カミヤは、堂前から視線を外さないまま、さりげなく一歩前に出た。
リオを、自分の肩の影に隠すように。
「おいおい」
堂前が肩をすくめる。
「英雄気取りか? 悪いことは言わねえ。その女を置いて、今すぐ消えな。そうすりゃ、あんたのことは見逃してやるよ」
「……断る」
即答だった。
「は?」
堂前の目が、冷たく細くなる。
「耳が遠いのか」
カミヤは、面倒くさそうに肩を回した。
「断るって言ったんだよ。日本語、わかるか」
堂前は、ひゅうと口笛を吹いた。
唇が、わずかに吊り上がる。
笑っている。だが、目は少しも笑っていなかった。
「……若いな」
名前も呼ばない。
短い指示だった。
「——やれ」
空気が、動いた。
---
最初の一人が、真っ直ぐ突っ込んできた。
拳は素人ではない。肩から腰まで連動している。だが、踏み込みが重く、動きが読みやすい。
カミヤは半歩だけ身体をずらし、飛んできた拳をすかす。
同時に、相手の肘を左手で軽く押さえ、その反動で顎を掌底で打ち抜いた。
「——ぐっ」
鈍い音と共に男の意識が飛び、膝から崩れ落ちる。
二人目が、横から回り込むようにして距離を詰めてきた。後ろから三人目の足音も迫っている。
カミヤは、二人目の手首を掴み、そのまま腰をひねる。
体重を乗せて、渾身の力で振り回す——ふりをして、ほんの少しだけ手加減する。
骨が砕ける音だけは、聞きたくなかった。
「うわっ——!」
二人目が宙を舞い、三人目と見事に正面衝突する。二人まとめて地面に転がった。
背後から気配。
四人目だ。
ナイフの金属臭が、空気を裂くより一瞬早く鼻に届いた。
カミヤは振り返らない。腕だけを後ろに回す。
「——あ?」
男の手首を、ナイフごと掴む。
そのまま手首を外側にねじると、関節が悲鳴を上げる。
「ぎゃっ!」
ナイフが手から離れ、コンクリートの上にカツンと落ちた。
「そんなおもちゃ、持ち歩くな」
カミヤは、落ちたナイフを足先で蹴り飛ばしつつ、四人目の足首を払う。バランスを崩した男が後ろに倒れ、その勢いで頭を打った。
——十秒も、かかっていない。
五人のうち四人が、地面に転がっていた。呻き声を上げる者もいれば、完全に意識を失っている者もいる。
残った一人——堂前だけが、青ざめた顔で立っていた。
視線が、ゆっくりとカミヤをなぞる。
動揺を隠そうとしているが、指先の小さな震えがそれを裏切っていた。
「……化け物か、てめえ」
搾り出すような声。
「そうかもな」
カミヤは、あっさりと認める。
堂前との距離を詰め、胸倉を掴んだ。
細い身体は、驚くほど軽かった。筋肉よりも、神経をすり減らして生きてきたタイプだ。
「伝言だ」
カミヤは、堂前の顔をぐっと近づける。
「俺と、あの女に、これ以上手を出すな。次はない」
堂前の喉が、ごくりと鳴った。
「お前……何者だ……」
「通りすがりだよ」
カミヤは、乱暴に堂前を突き飛ばす。
「行くぞ」
振り返らずに言う。
すぐ背後にいたリオの手首を、迷いなく掴んだ。
「え——」
驚く暇もなく、リオの身体が前に引き出される。
カミヤは、転がる男たちを避けながら、倉庫群の間を駆け抜けた。
リオの細い手首は、思ったよりも骨張っていて、しかし内側には確かな筋肉の芯があった。
(……やっぱり、鍛えてやがるな)
そんな場違いな感想が、走りながら頭の片隅をよぎる。
彼らの背後で、堂前の声が低く響いた。
「——追え」
短い指示。だが、その声の中には、怒りと恐怖が入り混じっていた。
潮見の港で、静かに暮らすつもりだった数週間の計画が、音を立てて崩れていく。
だが——胸のどこかが、少しだけ軽くなっているのを、カミヤは感じていた。




