第5話:ベッドも風呂もない寝床で、居場所のないニューハーフが見つけた一夜の避難所
——潮の匂いが、鼻の奥を刺していた。
「ここ」
男——名前は、まだ聞いていない。私は、彼の後ろ姿だけを見つめながら、使い古された鉄の階段を上がった。
ギシギシと、頼りない音がする。ヒールが階段の隙間にはまらないように、慎重に足を運んだ。
「一応言っとくけど」
彼が、鍵を開けながら、ぼそりと言う。
「ベッドも風呂もねえぞ。文句言うなら、今のうちに帰れ」
「帰る場所がないから、困ってるの」
自分でも、ちょっと意地の悪い言い方だと思った。
でも、口から出てしまった言葉は、戻せない。
男は、鍵を回す手を止めて、振り返った。
フードの影から覗いた眼は、琥珀色だった。街のネオンを映して、金色に揺れている。綺麗だ、と思った瞬間、その目がわずかに細くなる。
「……そうか」
それだけ言って、鍵を開けた。
中は、想像以上に「何もなかった」。
六畳くらいの、がらんとした空間。畳はところどころめくれ上がり、壁紙は黄ばんでいる。窓は一つ。そこから、港のライトが見えた。
床の隅に、ダンボールと、薄い毛布が一枚。
「ここで寝てるの?」
気づいたら、聞いていた。
「他にねえからな」
男は、ジャケットを脱いで壁に掛け、ポケットからタバコとライターを取り出した。
火をつけようとして -一瞬、私の方を見た。
そして、タバコを箱に戻す。
「……ごめん」
「ううん、いいの。……タバコ、実はちょっと苦手だから。助かるわ」
煙草の煙が苦手だ。店では笑顔で受け流すけれど、肺が痛くなる。
この人は、それを察してやめたのか、それともたまたまなのか。
どちらにせよ、その小さな「やめる」に、少し救われた気がした。
「座れ」
男が、ダンボールの向かい側を指さした。
「スカート、汚れるわ」
「もう路地裏で十分汚れてるだろ」
「……それもそうね」
ドレスの裾を気にしながら、そっとしゃがむ。
床は冷たい。でも、座ってしまえば、その冷たさにもすぐ慣れた。
「えっと……さっきは、ありがとう」
角度を変えて顔を見ると、あらためて「整った顔」だと思う。
通った鼻筋。長い睫毛。男にしては、細すぎるくらいの輪郭。でも、首の太さと肩幅が、「女」ではないことを主張している。
「助けてくれなかったら、私、あのまま車に押し込まれてたかもしれない」
「別に」
彼は、目を合わせない。
「俺がムカついただけだ。女が三人に囲まれてるの見たら、寝付き悪くなる」
「ふーん」
その言い方がおかしくて、少し笑ってしまう。
「何が可笑しい」
「いい人ぶるの、下手ね」
「ぶってねえ」
「そう?」
彼は、本当に不器用だ。
でも、不器用って、安心する。
店に来る男の人たちは、みんな上手に「いい人」を演じる。優しい言葉も、涙を誘う話も、慣れた手つきで差し出してくる。
そういうのを、仕事として受け取る私は、「蘭」としては楽だけど、「リオ」としては、いつもどこかで冷めていた。
この人は、「演じようとしていない」のが、わかる。
「名前は?」
今さらのように、彼が聞いてきた。
「……リオ。白鳥リオ。お店では蘭って名前でやってるの。……あなたは?」
「狼谷。カミヤでいい」
「カミヤ」
口に出してみる。
柔らかい音だ。私の「リオ」とは違う、尖りのない響き。
「変わった名字ね」
「よく言われる」
それ以上、特に説明しようとしない。
普通なら、「どこの出身」とか「親は」とか、そういう話になる。でも、この人は、そこに踏み込んでこない。
踏み込まれないことに、安堵と、少しの物足りなさを感じる自分がいる。
「怪我、してない?」
彼が、不意にそう聞いた。
さっきの路地の騒ぎで、腕を掴まれたところが少し痛い。でも、痣ができるほどじゃなさそうだ。
「平気」
私は、笑ってみせた。
「空手やってたから。ああいうの、ちょっとは慣れてる」
「空手?」
「うん。高校の時、男子に混じって部活やってたの。黒帯よ?」
少し、誇らしげに言う。
これは、「蘭」としての武器じゃない。「リオ」として、私が私のために選んだ強さだ。
「へえ」
カミヤは、ほんの少しだけ眉をあげた。
「……どうりで、蹴りが綺麗なわけだ」
その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。
店では、「スタイルいいね」「顔小さいね」「脚長いね」と、外見を褒められることはよくある。でも、「蹴りが綺麗」と言われたのは、久しぶりだった。
「見てたの?」
「まあな」
「覗き見とは、趣味が悪いわね」
「見えるところにいたお前が悪い」
口調はそっけないのに、どこか柔らかい。
私は、彼の手元に目を落とした。
拳の皮膚が、少し硬い。骨も太い。でも、爪は短く清潔で、手の甲に必要以上の傷はない。
「カミヤは、喧嘩慣れしてるの?」
「多少な」
「多少どころじゃなさそうだったけど」
「まあ、人よりは」
何度聞いても、肝心なところははぐらかされる。
それが、余計に気になった。
「あなた、さっき……簡単に、あの人たち、投げてた」
あの瞬間の光景を思い出す。
二人同時に胸倉をつかんで、まるでおもちゃみたいに振り回していた。
普通じゃない。
「何者?」
気づけば、口に出していた。
彼は、一瞬だけ目を伏せる。
長い睫毛が、頬に影を落とした。
「……通りすがりの、日雇い労働者だよ」
「そんな日雇い見たことない」
「世の中、いろいろいるんだよ」
それ以上、突き詰めて聞くのはやめた。
自分だって、「何者」と聞かれて、何度も答えに詰まってきたからだ。
男として生まれたけれど、男でいたくなかった。女になりたくて、身体を変えた。でも、本当に「女」になれたのか、自信がない時もある。
「何者」って、そんな簡単に答えられるもんじゃない。
「……ありがとう」
もう一度、言った。
「助けてくれて。寝床まで貸してくれて」
「礼はいらねえ」
彼は、窓の外を向いたまま呟く。
「助けたいと思ったのは、俺の勝手だ」
その言葉が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。
店の外で、誰かに「助けたい」と言われることなんて、ほとんどなかった。いつも私は、「蘭」として「助ける側」で、「癒す側」で、「笑わせる側」だったから。
「……ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「私、今、ちょっとだけ救われてる」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。口が勝手に、心の奥を言葉にしてしまう。
「店を出た後の私って、いつもどこにも居場所ないなって思うの。家にも、店にも、学校にも、社会にも。どこにも私のための場所なんてないんじゃないかって」
カミヤは、黙って聞いていた。
「でも、今日、うち、ベッドも風呂もねえぞって言いながら、ここに入れてくれたでしょ」
「……」
「その、ボロボロのダンボールの上がね、なんか、今、一番落ち着く」
思ってもない言葉が、ぽろりと出る。
ふふ、と自分で笑った。
「変よね」
「変だな」
即答された。
「そういうこと、面と向かって言われたことねえから、困る」
「じゃあ、慣れて」
「……は?」
「私、図々しいから。居心地いいと思ったら、平気で居座るタイプなの」
「冗談じゃねえ」
「冗談よ」
もっとも、少しは本気かもしれない。
こんなふうに素で話せる人なんて、そうそういないから。
彼の琥珀色の目が、ふと窓の外の空を見上げた。
「……もうすぐ、満月だな」
「え?」
「月が、でかくなる」
「ロマンチスト?」
「違う」
そっけなく返される。
ただ、その言い方に、何か重みがあった。
満月という言葉に、特別な意味があるみたいに。
「とりあえず、今日は寝ろ」
彼が立ち上がる。
「明日になったら、またややこしいことになるかもしれねえ。その前に、寝れるだけ寝とけ」
「カミヤは?」
「床、あっちの隅でいい」
「一枚しかない毛布は?」
「お前使え。俺、寒さには強いから」
「……」
「遠慮すんな。女を冷やして風邪ひかす趣味はねえ」
そう言われると、断れなくなる。
毛布を半分だけ体にかけて、ゴロンと横になる。コンクリートが、背中に硬く当たる。でも、不思議と嫌じゃなかった。
目を閉じると、さっきの路地裏の光景が脳裏に浮かぶ。
あの時、私は選んだ。
見て見ぬふりをしないことを。
サヤの震える手、壊れそうな笑顔。彼女が「あの人たちがいないと、私、生きていけないから」なんて言った時、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
私は、もう「誰かにしがみついて生きる」のをやめたかった。
その代わりに、「誰かを巻き込む」ことになった。
「……ごめんね」
小さく呟く。
誰に向けての謝罪なのか、自分でもわからない。サヤにか。真珠にか。カミヤにか。それとも、自分自身に。
「謝んなくていい」
隅のほうから、低い声が返ってきた。
「お前は、間違ったことはしてねえ」
「……聞こえてた?」
「耳はいいからな」
「盗み聞きじゃないの」
「勝手にしゃべってるのはそっちだろ」
くす、と笑いそうになる。
瞼が重くなってきた。
「ねえ、カミヤ」
「なんだ」
「……ありがとう」
さっきも言った。でも、もう一度。
「礼は——」
「言わせて。私が言いたいの」
少し、意地になっていた。
沈黙。
やがて、「勝手にしろ」という、呆れたような声が、闇の中に落ちた。
その声音が、ひどく優しく聞こえたのは、多分、私が眠りに落ちかけていたせいだ。
潮の匂いと、油の匂いと、見知らぬ男の体温の気配。
ボロボロの倉庫の一室で、私は、不思議なくらいすぐに眠りに落ちた。
——この時はまだ知らなかった。
彼が「人」じゃないことも。
この一夜が、私の「普通には戻れない人生」の、二度目の転機になることも。
ただ、夢の中で見た月だけは、やけに大きくて、やけに近かった。




