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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第2章:三百年の孤独が、君の瞳に溶けていく。――潮騒の街のニューハーフバーで、不器用な人狼が恋をした、一夜の約束。

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第5話:ベッドも風呂もない寝床で、居場所のないニューハーフが見つけた一夜の避難所

 ——潮の匂いが、鼻の奥を刺していた。


「ここ」


 男——名前は、まだ聞いていない。私は、彼の後ろ姿だけを見つめながら、使い古された鉄の階段を上がった。


 ギシギシと、頼りない音がする。ヒールが階段の隙間にはまらないように、慎重に足を運んだ。


「一応言っとくけど」


 彼が、鍵を開けながら、ぼそりと言う。


「ベッドも風呂もねえぞ。文句言うなら、今のうちに帰れ」


「帰る場所がないから、困ってるの」


 自分でも、ちょっと意地の悪い言い方だと思った。


 でも、口から出てしまった言葉は、戻せない。


 男は、鍵を回す手を止めて、振り返った。


 フードの影から覗いた眼は、琥珀色だった。街のネオンを映して、金色に揺れている。綺麗だ、と思った瞬間、その目がわずかに細くなる。


「……そうか」


 それだけ言って、鍵を開けた。


 中は、想像以上に「何もなかった」。


 六畳くらいの、がらんとした空間。畳はところどころめくれ上がり、壁紙は黄ばんでいる。窓は一つ。そこから、港のライトが見えた。


 床の隅に、ダンボールと、薄い毛布が一枚。


「ここで寝てるの?」


 気づいたら、聞いていた。


「他にねえからな」


 男は、ジャケットを脱いで壁に掛け、ポケットからタバコとライターを取り出した。


 火をつけようとして -一瞬、私の方を見た。


 そして、タバコを箱に戻す。


「……ごめん」


「ううん、いいの。……タバコ、実はちょっと苦手だから。助かるわ」


 煙草の煙が苦手だ。店では笑顔で受け流すけれど、肺が痛くなる。


 この人は、それを察してやめたのか、それともたまたまなのか。


 どちらにせよ、その小さな「やめる」に、少し救われた気がした。


「座れ」


 男が、ダンボールの向かい側を指さした。


「スカート、汚れるわ」


「もう路地裏で十分汚れてるだろ」


「……それもそうね」


 ドレスの裾を気にしながら、そっとしゃがむ。


 床は冷たい。でも、座ってしまえば、その冷たさにもすぐ慣れた。


「えっと……さっきは、ありがとう」


 角度を変えて顔を見ると、あらためて「整った顔」だと思う。


 通った鼻筋。長い睫毛。男にしては、細すぎるくらいの輪郭。でも、首の太さと肩幅が、「女」ではないことを主張している。


「助けてくれなかったら、私、あのまま車に押し込まれてたかもしれない」


「別に」


 彼は、目を合わせない。


「俺がムカついただけだ。女が三人に囲まれてるの見たら、寝付き悪くなる」


「ふーん」


 その言い方がおかしくて、少し笑ってしまう。


「何が可笑しい」


「いい人ぶるの、下手ね」


「ぶってねえ」


「そう?」


 彼は、本当に不器用だ。


 でも、不器用って、安心する。


 店に来る男の人たちは、みんな上手に「いい人」を演じる。優しい言葉も、涙を誘う話も、慣れた手つきで差し出してくる。


 そういうのを、仕事として受け取る私は、「蘭」としては楽だけど、「リオ」としては、いつもどこかで冷めていた。


 この人は、「演じようとしていない」のが、わかる。


「名前は?」


 今さらのように、彼が聞いてきた。


「……リオ。白鳥リオ。お店では蘭って名前でやってるの。……あなたは?」


「狼谷。カミヤでいい」


「カミヤ」


 口に出してみる。


 柔らかい音だ。私の「リオ」とは違う、尖りのない響き。


「変わった名字ね」


「よく言われる」


 それ以上、特に説明しようとしない。


 普通なら、「どこの出身」とか「親は」とか、そういう話になる。でも、この人は、そこに踏み込んでこない。


 踏み込まれないことに、安堵と、少しの物足りなさを感じる自分がいる。


「怪我、してない?」


 彼が、不意にそう聞いた。


 さっきの路地の騒ぎで、腕を掴まれたところが少し痛い。でも、痣ができるほどじゃなさそうだ。


「平気」


 私は、笑ってみせた。


「空手やってたから。ああいうの、ちょっとは慣れてる」


「空手?」


「うん。高校の時、男子に混じって部活やってたの。黒帯よ?」


 少し、誇らしげに言う。


 これは、「蘭」としての武器じゃない。「リオ」として、私が私のために選んだ強さだ。


「へえ」


 カミヤは、ほんの少しだけ眉をあげた。


「……どうりで、蹴りが綺麗なわけだ」


 その言葉が、思っていた以上に嬉しかった。


 店では、「スタイルいいね」「顔小さいね」「脚長いね」と、外見を褒められることはよくある。でも、「蹴りが綺麗」と言われたのは、久しぶりだった。


「見てたの?」


「まあな」


「覗き見とは、趣味が悪いわね」


「見えるところにいたお前が悪い」


 口調はそっけないのに、どこか柔らかい。


 私は、彼の手元に目を落とした。


 拳の皮膚が、少し硬い。骨も太い。でも、爪は短く清潔で、手の甲に必要以上の傷はない。


「カミヤは、喧嘩慣れしてるの?」


「多少な」


「多少どころじゃなさそうだったけど」


「まあ、人よりは」


 何度聞いても、肝心なところははぐらかされる。


 それが、余計に気になった。


「あなた、さっき……簡単に、あの人たち、投げてた」


 あの瞬間の光景を思い出す。


 二人同時に胸倉をつかんで、まるでおもちゃみたいに振り回していた。


 普通じゃない。


「何者?」


 気づけば、口に出していた。


 彼は、一瞬だけ目を伏せる。


 長い睫毛が、頬に影を落とした。


「……通りすがりの、日雇い労働者だよ」


「そんな日雇い見たことない」


「世の中、いろいろいるんだよ」


 それ以上、突き詰めて聞くのはやめた。


 自分だって、「何者」と聞かれて、何度も答えに詰まってきたからだ。


 男として生まれたけれど、男でいたくなかった。女になりたくて、身体を変えた。でも、本当に「女」になれたのか、自信がない時もある。


「何者」って、そんな簡単に答えられるもんじゃない。


「……ありがとう」


 もう一度、言った。


「助けてくれて。寝床まで貸してくれて」


「礼はいらねえ」


 彼は、窓の外を向いたまま呟く。


「助けたいと思ったのは、俺の勝手だ」


 その言葉が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。


 店の外で、誰かに「助けたい」と言われることなんて、ほとんどなかった。いつも私は、「蘭」として「助ける側」で、「癒す側」で、「笑わせる側」だったから。


「……ねえ、カミヤ」


「なんだ」


「私、今、ちょっとだけ救われてる」


 自分でも、何を言っているのかわからなかった。口が勝手に、心の奥を言葉にしてしまう。


「店を出た後の私って、いつもどこにも居場所ないなって思うの。家にも、店にも、学校にも、社会にも。どこにも私のための場所なんてないんじゃないかって」


 カミヤは、黙って聞いていた。


「でも、今日、うち、ベッドも風呂もねえぞって言いながら、ここに入れてくれたでしょ」


「……」


「その、ボロボロのダンボールの上がね、なんか、今、一番落ち着く」


 思ってもない言葉が、ぽろりと出る。


 ふふ、と自分で笑った。


「変よね」


「変だな」


 即答された。


「そういうこと、面と向かって言われたことねえから、困る」


「じゃあ、慣れて」


「……は?」


「私、図々しいから。居心地いいと思ったら、平気で居座るタイプなの」


「冗談じゃねえ」


「冗談よ」


 もっとも、少しは本気かもしれない。


 こんなふうに素で話せる人なんて、そうそういないから。


 彼の琥珀色の目が、ふと窓の外の空を見上げた。


「……もうすぐ、満月だな」


「え?」


「月が、でかくなる」


「ロマンチスト?」


「違う」


 そっけなく返される。


 ただ、その言い方に、何か重みがあった。


 満月という言葉に、特別な意味があるみたいに。


「とりあえず、今日は寝ろ」


 彼が立ち上がる。


「明日になったら、またややこしいことになるかもしれねえ。その前に、寝れるだけ寝とけ」


「カミヤは?」


「床、あっちの隅でいい」


「一枚しかない毛布は?」


「お前使え。俺、寒さには強いから」


「……」


「遠慮すんな。女を冷やして風邪ひかす趣味はねえ」


 そう言われると、断れなくなる。


 毛布を半分だけ体にかけて、ゴロンと横になる。コンクリートが、背中に硬く当たる。でも、不思議と嫌じゃなかった。


 目を閉じると、さっきの路地裏の光景が脳裏に浮かぶ。


 あの時、私は選んだ。


 見て見ぬふりをしないことを。


 サヤの震える手、壊れそうな笑顔。彼女が「あの人たちがいないと、私、生きていけないから」なんて言った時、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。


 私は、もう「誰かにしがみついて生きる」のをやめたかった。


 その代わりに、「誰かを巻き込む」ことになった。


「……ごめんね」


 小さく呟く。


 誰に向けての謝罪なのか、自分でもわからない。サヤにか。真珠にか。カミヤにか。それとも、自分自身に。


「謝んなくていい」


 隅のほうから、低い声が返ってきた。


「お前は、間違ったことはしてねえ」


「……聞こえてた?」


「耳はいいからな」


「盗み聞きじゃないの」


「勝手にしゃべってるのはそっちだろ」


 くす、と笑いそうになる。


 瞼が重くなってきた。


「ねえ、カミヤ」


「なんだ」


「……ありがとう」


 さっきも言った。でも、もう一度。


「礼は——」


「言わせて。私が言いたいの」


 少し、意地になっていた。


 沈黙。


 やがて、「勝手にしろ」という、呆れたような声が、闇の中に落ちた。


 その声音が、ひどく優しく聞こえたのは、多分、私が眠りに落ちかけていたせいだ。


 潮の匂いと、油の匂いと、見知らぬ男の体温の気配。


 ボロボロの倉庫の一室で、私は、不思議なくらいすぐに眠りに落ちた。


 ——この時はまだ知らなかった。


 彼が「人」じゃないことも。


 この一夜が、私の「普通には戻れない人生」の、二度目の転機になることも。


 ただ、夢の中で見た月だけは、やけに大きくて、やけに近かった。





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