61 Side.アナスタシア
身体中が痛い…。
もはや立ち上がることが困難な程に、全身に疲労が蓄積している…。
けれど逃げなければ…、逃げなければ連れ戻される…!
しかし走って逃げる体力も殆ど残っていない…。
私は疲労で痛む身体に耐えながら、少しでも遠くへ移動しようと足を動かす…。
兎に角、何処か遠くへ…。
※ ※ ※
偶然見つけた洞窟だけれど…、今の私の体力でこれ以上移動することは困難だ…。
ここが見つかるのも時間の問題だろう…。
到底落ち着ける場所ではないが…、体力を回復させなければこれ以上逃げることもできない…。
疲労回復を早める魔法を使ったから、ほんの数分で移動できるようになるだろう…。
体力が戻るまで、暫くここに隠れていなければ…。
しかし警戒を怠ることもできない…。
緊張を解くこともできないとなると、疲労の回復にも支障が出るだろう…。
だが今は体力の回復に努めなければならない、背に腹は代えられない…。
……少し落ち着いてきたことで、何故このような事態になったのか…、原因が脳裏に思い浮かんでくる…。
──やはり彼奴が原因なのだろう…。
思えば彼奴に会った時から、怪しいものを感じていた…。
彼奴が城に出入りするようになった原因…、帝国による皇国への侵攻から全てが始まった…。
諸外国に対して威圧的だった帝国は、遂に領土拡大に乗り出した…。
その足掛かりとして…、我がロマノフ皇国が選ばれた…。
帝国と皇国では、その戦力差は歴然だった…。
皇国の戦力を1とするならば、帝国の戦力は1000を優に超えていた…。
質も量も、全てにおいて皇国よりも帝国の方が凌駕していた…。
なのに皇国が勝利した。
現実的に考えてありえない事だ…。
どれ程の奇策を用いても…、どれほどの英雄が存在したとしても…、数に勝つことは不可能だ…。
だというのに…、あの男はたった一人で帝国を追い返し、そのまま帝国に攻め込んで帝国を滅ぼしてしまった…。
どれ程の力があれば…、単身で帝国を滅ぼすことが可能だと言うのか…。
何故それほどの力の持ち主が…、唐突に我が国に現れたのか…。
何もかもが疑問ではあった…。
だが父は…、国王は彼奴を城に招き入れた…。
それ自体は、仕方がないという思いはある…。
国を救ってくれた英雄を、歓待しない訳にはいかない…。
そしてそんな英雄を、国として召し抱えない訳にもいかない…。
単身で国を滅ぼせる存在を他国に逃すわけにはいかないし…、そんな劇物を放置することもできないのは理解できる…。
だがやはり…、招き入れたのは失策であった──と、今ならば断言できる…。
彼奴を召し抱えてから…、まず父がおかしくなった。
続いて母が…、大臣が…、近衛の者達が…、騎士達が…、そして兄が…。
誰もが彼奴を讃え、好意的に接し始めた…。
頭がおかしくなりそうだった…。
召し抱えたばかりの頃は、父も母も兄も、大臣達も皆彼奴を恐れていた…。
だが一月もしないうちに…、皆が彼奴を讃え、まるで彼奴が国の王で在るかのように扱われた…。
そして何故か、彼奴は私を妃にするのだと言った…。
冗談ではない…。
得体のしれない奴にこの身を許す気はないし、第一彼奴は最初に出会った時から好ましく思うことができないのだ…。
普段の態度は横暴にして傲慢、感じる視線からは情欲と嗜虐的なものしか感じられない…。
妃にする等と言ったが、彼奴にとって私など嬲りがいのある奴隷程度にしか見ていない…。
会話をする時も視線がちらちらと胸を見ているし、私に対して薄汚い欲望しか見えず、好意を一度として感じたことはない…。
彼奴は私の事など見てはいないのだ…。
ただの見目麗しい奴隷程度にしか思っていない奴に、何故好意を抱けるというのか…。
私は彼奴を遠ざけるように父に進言した…、しかし…。
父は私に…、彼奴の妃になることを命じてきた…。
母と兄も、それに追従するかのように私に言ってきた…。
大臣や近衛の者達も、皆が彼奴のものになれと言ってきた…。
私は愕然とした…。
皆の目からは、意思の色を感じ取れなかった…。
皆が彼奴の言いなりになっていることを、直感で感じ取れた…。
私は恐ろしくなり…、国から逃げ出した…。
城を出て街を出て、国も出て山奥まで逃げてきた…。
いずれ私も彼奴の言いなりになってしまうのではないかと、恐ろしくなったからだ…。
兄たちのように…、彼奴に喜んで賛同し、彼奴に身を捧げることになるのだと考えたら…、私はどうしようもないほどの怖気を感じ、着の身着のまま逃げ出した…。
走ることに向いていない服や靴も、あちこち擦り切れて既にボロボロだ…。
魔法を使って人目に触れないように逃げてきたが…、こちらは一人向こうは多数…、何れは見つかってしまうのは自明の理であった…。
落ち着いてきたことで…、冷静な自分が声をかけてくる…。
──どうせ逃げられないのだから、諦めて彼奴に服従してしまえばいいじゃない。
そんなのは嫌だ…!
あんな奴の言いなりになるなんて…、死んでも嫌だ!!
──何故そんなに嫌がるの? 何れは何処かの国に嫁いでいく身…。 自国に留まることが出来るのだから、良縁と言えるのではないかしら?
確かに彼奴は英雄と言えるだろう…。
だが彼奴の性根は、決して英雄と言えるものではない…!
何より私は彼奴を生理的に好きになれない…!
初めて会った時から、嫌悪感しか湧いてこない奴に、妥協できるわけもない…!
──問題ないわ…。 彼奴に洗脳されればそんな嫌悪感も感じなくなる…。 何も気にする必要はないのよ…。
嫌だ…!
人間で在ることを放棄してまで、彼奴に身を委ねるくらいなら…、私が彼奴を…!
──無理だと解ってて言ってるでしょう? 彼奴の力は途方も無く強大よ…。 貴女じゃどう足掻いても勝ち目はない…。
だとしても…!
いずれ何処かの殿方に、身も心も委ねる時が来るのだとしても…!
断じて!!
彼奴にだけは!!!
──なら死ぬの? 彼奴に従うのも嫌。 抗うこともできない。 ならもう死ぬしか道は残されていないじゃない…。 それでいいのかしら…?
…そんなわけない!
彼奴におかしくされた父を…、母を…、兄を…、国の皆を…!
解放するまでは…、私は死ねない…!
──どうやって? 貴女には彼奴をどうにかする力はない…。 何も為すことが出来ないというのに、何かをしようだなんて滑稽ね…。
それは違うわ…。
私に何も力が無いのだとしても…、私が何もしない理由にはならない…!
力の有無なんて関係ない…!
私が意志を持たない限り…、力があろうと何も為せない…!
──成し遂げようとする心だけで、本気でどうにかなると思ってるのかしら?
確かに彼奴は力だけは途方もないかもしれないけど…。
私は私自身の全てを擲ってでも、彼奴を殺す!!
『いいねぇ…! そういう気丈さ、嫌いじゃないぜ…』
「!?」
何処からか声が…!?
洞窟の…、奥…?
其処に居た男は、漆黒の髪を風に靡かせ、長い耳を持ち、漆黒の瞳で此方を面白そうに見つめていた…。




