1話:天使と堕天使と人間と
一:天使と堕天使と人間と
物心ついた頃から一人の少女に恋し続ける男、有沢夏紀。彼の初告白は、幼稚園のとき。
相手は、隣家に住む、幼馴染みの女の子。
子供らしくストレートに好きだと言ったら、きらきらした笑顔でこう切り返された。
「わたしもすきだよ、オトモダチだもんね!」
それから、一週間。好物のポテトチップスもろくに喉を通らなかった。
二度目の告白は、小学三年生の頃。
相手は、やはり、隣家の幼馴染み。可愛い彼女は、長く伸ばした髪を大好きな桜色のリボンで結び、ツインテールにしていたのを思い出す。
今度は、一度目の玉砕を教訓に手紙で想いを伝えることにした。一ヶ月以上も推敲を重ねて完成させたのに、自分の名前を書き忘れて再び玉砕。
しかも、国語が得意な彼女は、便箋三枚にびっしりと書かれた文章を一読して一言。
「……あ、ここの漢字、間違ってる。ここも。っていうか、文章が無駄に長いよね。字も汚いし…」
そこで、幼馴染みという関係性が災いして、彼女が余計なことに気づいた。
「……あれ? 何か、夏紀の字に似てる気が…」
そのとき、心臓が凍る思いがした。ここで下手くそなラブレターの主がバレたら、非常に気まずい。というか、男としてのプライドが崩壊してしまう。そこで、慌ててフォローしたのがいけなかった。
「んなわけねーだろ、馬鹿! オレなら、もっとまともなことを書くわ!」
半分、泣きそうになりながら言うと、彼女はすんなりとその言葉を信じた。そして、明るい笑顔で、
「そうだよね。夏紀なら、もっとマシな文章書くよね!」
……内心、全速力でその場を逃げたくなった。
そして、三度目の告白は、中学二年の夏。相手は、もちろん幼馴染みの女の子。彼女を含めた数人で夏祭りに出かけたとき、友達に協力してもらい、二人きりにしてもらった。
二度の失恋という辛い過去を踏まえて、今度はさりげなく好意を伝える作戦に出た。そう、人の多さを利用して、手を握ろうとしたのだ。しかし、そこへ思わぬ邪魔が入った。
彼女の右手には、フランクフルト。左手には、飲みかけのカラフルなジュースの入った紙コップ。握るはずの手は、完全に塞がっていた。
さすがに、このまま引き下がるわけにはいかず、思いきって付き合ってくれと言ったら、口元にトマトケチャップをつけた彼女は、無邪気にこう答えた。
「うん、いいよ。で、どの露店に行きたいの?」
どうやら、言うべき場所を間違えたらしい。付き合うという言葉を、交際ではなく一緒に露店に行ってくれという意味だと勘違いされてしまった。
「違うっつーの! そういう付き合うじゃなくて、オレの彼女になってくれって言ってんだよ!」
これまでの数重なる失敗から学び、今度はきっぱりはっきりと、面と向かって言葉を放ってやった。
すると、彼女は、きょとんとして、おかしなものを見るような目つきになった。
「…何で急に、私と付き合いたいなんて思ったの?」
「へ?」
さすがに、その反応は予想してなかった。驚くわけでもなければ、赤面するわけでもない。迷惑そうな顔をされなかっただけマシだが、二度もこちらを振っておきながら、今さら何を言い出すのか。
「な、何でって、そりゃ、お前が好きだからに決まってんだろ」
小声で、やや早口で答えたら、フランクフルトを齧る彼女の口から、思わぬセリフが返ってきた。
「え、何言ってるの? 夏紀には、とっくに彼女がいるじゃない」
「……は? 何だ、そりゃ?」
初耳だ。というか、身に覚えがない。
一体、どういうことなのか。
訊いてみると、彼女はあっさりと告げた。
「ほら、真冬ちゃんよ、真冬ちゃん。朝から晩まで、いっつも一緒で、お風呂も寝るときも傍にいるってことは、もう彼女ってことでしょう?」
「真冬だと? いやいや、ありゃ例外だろ」
真冬、という少女も、ある意味では幼馴染みのようなものであり、家族のようなものだが――断じて、そういう関係ではない。
「だいたい、一緒にいる時間が長くて当然じゃねえか。あいつ、オレに取り憑いてんだから」
真冬と名乗る少女は、夏紀が生まれたときからずっと傍にいた、謎の幽霊少女である。いや、正確には天使というべきだろうか。背中には白い翼が生え、頭の上には馬鹿みたいにピカピカと輝く輪っかを乗っけて、ふわふわ空を飛んでいる。その姿が見えるのも、声が聞こえるのも、限られた人間にだけ。幼馴染みの彼女もまた、夏紀同様、見える人間の一人だった。
「ありゃ女とは言わねえだろ、実体ねえし」
存在していても生きていないのだから、恋愛対象になるはずがない。第一、夏紀は物心ついたときから、一途に想い続けている相手がいるのだ。いつも近くにいるからという理由だけで恋に落ちるほど単純な人間ではない。
しかし、彼女は言う。やけに目をキラキラさせて。
「でも、これって、恋愛マンガじゃ絶対に好きになっちゃうシチュエーションじゃない? 天使と人間、許されざる恋――なんて、映画みたいで素敵だよね!」
「――…オイ。話が逸れてるぞ。で、ツグミ。結局、どうなんだ? オレと付き合う気はあるのか?」
「え? うーん、そうねえ」
幼馴染みの少女・ツグミは、ジュースを飲みつつ、あっさりと告げた。
「やっぱり無理。っていうか、夏紀。もっと真冬ちゃんを大事にしなきゃ駄目よ? たまには、デートに誘うとか、彼氏らしいことしないと」
「だーかーらー、あいつとはそういうんじゃねえって言ってんだろうが! 聞けよ、人の話!!」
そんなこんなで、三度も同じ相手に失恋する羽目に陥ったわけだが――ここで諦められたなら、どんなによかったか…。
残念ながら、恋愛感情というものは、とことん融通の利かない代物らしい。
(………自分の心が憎いぜ、畜生…)
心変わりするどころか、逆に諦めたくないと思ってしまうのは、男としての意地なのか、それとも、ただ自棄になっているだけなのか。
どちらにせよ、高校生になった今も報われない片想いは続いているわけで…。
「しっかし、何でああも人の気持ちに鈍いんだろうな、ツグミの奴は。長い付き合いなんだから、いい加減、ちょっとは意識してくれてもいいのにな」
思わず、夏紀がぼやく。
中学の夏祭り以降、結構自分なりに頑張ってアピールしてきたつもりなのに、一向に二人の距離は縮まらない。それどころか、ツグミの脳内では、すでに親友というカテゴリーに分類されているようで、異性であるということすら忘れられている気がする。
まあ、唯一の救いがあるとすれば、彼女に本命の相手がいないらしいということぐらいだが――恋なんてものは、いつ、何がきっかけで始まるとも知れないから、油断は禁物だ。つまり、人生は、先手必勝。誰よりも先に彼女の心をゲットするためにも、行動あるのみだ。
(…しっかし、どうすりゃいいんだ?)
デートにでも誘いたいが、それには、まず、彼女を連れ出す口実をつくらなければならない。そう思って、散々知恵を絞っているのだが、いい案が思い浮かばない。
「…夏が終わって、今は秋だ。とはいえ、紅葉狩りには早いし、まだ微妙に残暑が続いてて暑いからな。だいたい、どっか行くにしても資金がねえし、食欲の秋とはいえ、スイーツ類はオレが苦手だしな。うーん、難しい問題だ…」
明日提出の課題そっちのけでうんうん唸っていると、不意に背後から声が響いた。
『ナッちゃん、知ってるですか? 世間一般では、ナッちゃんみたいに諦めの悪くて執拗な性格を、ストーカー気質とか粘着質とかいうらしいですよ?』
「――何だと?」
癇に障る甲高い声に、振り返る。
ここは、正真正銘、夏紀の部屋。自分一人しかいないはずなのに、何故か、少女の声は近くから聞こえる。
「…真冬。お前、人のベッドで何やってんだ」
見やれば、白銀ツインテールの少女がベッドに寝転び、ショートパンツから覗く細い足をバタバタさせつつ読書をしている。その背には胡散臭い真っ白な翼が生え、頭の上には、蛍光灯のように輝く天使の輪っかが浮かんでいた。その、絵本から飛び出したようなメルヘン少女は、最近お気に入りの野菜チップス数枚を重ねて口に放り込み、豪快にバリバリと音を立てて食べている。
「…天使のくせに何食ってやがんだ。つか、ベッドを汚すなっつってんだろうが!」
彼女は実体がないくせに、何故か、食事だけはきっちりと摂取できる。本人いわく、『不浄じゃないものには、触ろうと思えば触れるのですよ!』だそうで――つまり、感情のない存在、無機質なモノとか調理後の食品には、触れられるし、こうして食べることもできるのだそうだ。もっとも、それが栄養になるわけではないので、あくまで、舌を楽しませるための嗜好品といったところらしいが。
『ナッちゃんは、いちいち細かすぎるのですよ。あたしが何か行動する度に、天使だから、女だからって文句つけるのは、差別的発言で格好悪いのです。そういう男は嫌われるですよ?』
「…マジでイライラすんな、この野郎」
ああ言えばこう言う。彼女は、天使の必須スキルであるはずの思いやりだの遠慮だのというものを何一つ持ち合わせていない。
「で、さっきから何読んでんだ、テメエ。また、変な雑誌じゃねえだろうな?」
天使である真冬の存在に気づいているのは、今のところ、二人。夏紀と、幼馴染みの少女・ツグミだけである。
真冬は、昔から、公園のゴミ箱や近所のゴミ捨て場から勝手に雑誌を拾ってきては、夏紀の部屋に放置していく癖があるので困る。ちなみに、小学生の頃、大人でもドン引きするような内容のエロ雑誌が自室にて発見され、両親に精神科に連れて行かれた辛い過去が夏紀にはあった。それからというもの、種類を問わず雑誌や本の類は持ち込まないように口を酸っぱくして言い聞かせているのだが、どんなに叱られても懲りない脳味噌ゼロ天使は、コロッと忘れて同じ過ちを繰り返す。
「お前のせいで、親から性癖異常者みたく思われてんだぞ? どうしてくれるんだ、このエセ天使め!」
思わず大きな声を出しかけて、慌てて声量を抑える。ただでさえ、異常に独り言が多いと思われているのだ。これ以上、変人扱いされたくはない。
一方、真冬は、叱られたという感覚がないのか、相変わらず雑誌を読むのをやめない。
「…おい、真冬。聞いてんのか、こら」
苛立ちながら声をかけると、急に彼女が大声で叫んだ。
『ヤ、ヤヤ、ヤバいです! マジヤバなのですよ、ナッちゃん!!』
「は? 何だ、急に」
彼女は、わざとらしく憂鬱な表情をつくり、雑誌を手に、ふわふわと目の前まで飛んできた。
『ここを見るのですよ、ここ!』
細い指先で指し示す先には、とあるアンケート結果が載っている。
「…えーと、何々? 彼氏にしたくない男ランキング? お前、こんなの読んでたのか?」
呆れた。天使のくせに、恋愛脳とは。
まさか、ツグミ同様、天使と人間の禁断の愛とやらに憧れているわけではないだろうが――とりあえず、その雑誌に目を通してみる。
「……一位が俳優の○×で、二位がアイドルの△□…。ふうん、まあ、わからないでもないな。何度も女絡みのスクープとられてるし、我儘そうだし、かなり横柄な態度で周囲から煙たがられてるらしいしな。しっかし、顔だけしか取り柄がねえって、辛いよなあ。今はよくても、歳くったとき、女に相手にされなくなって、孤独で寂しい一生を終えるんだぜ、きっと」
ニュースやワイドショーで仕入れたネタを元に話してやると、真冬が溜息をついた。
『はあっ。そうなのですよ。完全に、ナッちゃんと被ってるのですよ、モテない男ランキング…』
「――ちょっと待て。どういう意味だ?」
カチンときた。
「オレの一体どこが奴らと似てるっつーんだよ? どこも似てねえだろうが!」
ムカムカしながら言うと、彼女は宙に浮かんだままこちらを見下ろして訴える。
『ナッちゃんも、容姿は、まあギリ及第点なんですけどね。神聖なる神の使いに対する暴言の数々に加え、優しさとは程遠い、この仕打ち。何より、アレも駄目、コレも駄目と常に監視・束縛しておいて、自分は寛容だと思い込んでいる傲慢さときたら……。はあっ。そうです、わかっているのですよ、あたしは。人間とはかくも自分本位で愚かな生きものだということくらい。でも、ナッちゃん。あなたが哀れでならないのですよ。そういうところがツグミンにモテないと何故わからないのか…』
「は? 何でそこでツグミが出てくるんだ?」
真冬はともかく、ツグミには優しくしているつもりだというのに。
きょとんとする夏紀に、真冬は空中で一回転した。頭を逆さにして、重力を無視した前髪の乱れを直しながら言う。
『考えてもみるですよ。目の前に女の子が二人いて、片方には鬱陶しいくらい気を遣っているくせに、もう片方には足蹴にしそうなほどに無礼な振る舞いの数々。そういう姿を見ていると、嫌でも気づいてしまうのですよ。この男は、相手によって態度を変えるロクデナシなんだと』
「――何だそりゃ」
言って、はっとする。
そういえば、三度目の告白の際、ツグミが言っていたではないか。
真冬をもっと大事にすべきだ、とか何とか。
「……おい、真冬。テメエ、ツグミに何か余計なことを吹き込んでるんじゃねえだろうな?」
不安を感じつつ訊くと、天使は空とぼけた表情になった。
『え? 別に、何も言ってないですよ? ただ、おやつ禁止されて悲しいとか、読書してたらやめろって怒られたとか、ちょっとした愚痴程度の話しかしてないですし』
「って、言ってんじゃねえか、オレの評判を落とすようなことを!」
真冬のことだから、おやつを零してベッドを汚したこととか、エロ雑誌を広げて面白半分に批評をしていることとか、自分に都合の悪いことは話していないに違いない。そんな真冬の言い分を真に受けたツグミに、ただの口うるさい狭量な男だと判断されているとしたら、かなり不本意だ。
しかし、真冬は言う。残酷なほど明るい声で。
『大丈夫なのですよ。ツグミンのなかじゃ、最初からナッちゃんの評価は最低ランクですからね!』
「っ!」
グサッときた。ザクッとやられた。心とか、男のプライドとか、そういうものが一瞬にして砕け散りそうな言葉の暴力だ。
「…テメエ、天使のくせに人の精神を抉るような攻撃をしやがって――」
『日々、天使の純真な心を抉ってるナッちゃんに言われたくないのですよ。って、ああっ、マズイのです! そろそろ、夕方のドラマの時間なのですよ!』
真冬が、ウキウキしながら部屋に設置してあるテレビのスイッチを入れた。パッと画面に映ったのは、彼女の大好きな連続ドラマではなく、何故かニュース番組。堅苦しい服装の男性キャスターが映っている。どうやら、緊急を要する事件が起きたようだ。
『な、何ですか、この男はっ!? 早くそこからどくのですよ! ドラマ! ドラマが始まらないではないですかーっっ!!』
テレビにしがみつき、泣きそうな声で喚く天使の背中を見つめ、夏紀がニヤリと笑う。
「そら見ろ、人間様を傷つけた罰だ。いやー、神様はよく見てんなあ」
笑いながら言ってやると、真冬は、涙目で振り向き、
『神様は何も見てないのですよ!』
天使とは思えぬ発言をしたかと思うと、持ったままの雑誌を投げつけ、壁をすり抜けて出て行ってしまった。よほどドラマを楽しみにしていたらしい。
それにしても、よりにもよって、神様を非難しつつ逃亡とは。本当に天使かと疑いたくなる行動だ。
「…はあ、面倒くせえなあ」
夏紀は、自分に当たることなく床に落ちた雑誌を拾い上げ、溜息をついた。
彼女――真冬とは生まれたときからの付き合いで、初対面のときから、その姿は変わっていない。
白い肌に、小柄な体躯。眩しい白銀のツインテール。サバサバした口調で毒を吐き、勝ち気で生意気な瞳は、澄んだ宝石のようにきらめいている。ツグミは、そんな彼女を初めて見て『お姫様みたい』と評したが、その実、食っちゃ寝の生活を満喫する駄目天使だったりする。
まあ、そんなこんなでお気楽に人間界での生活を楽しんでいる真冬だが、実は、彼女なりに重い悩みがある。
以前は、天国――天使しか存在しない神聖な場所にいたらしいのだが、退屈のあまり、真冬は最大の禁忌を犯した。禁じられていたにもかかわらず、人間界の様子を見ることができるという不思議な泉を覗き込んで、地上に落ちてしまったのだ。彼女によれば、自分で落ちたのではなく、誰かに背中を押されたとのことだが、その辺りの記憶は曖昧らしい。とにかく、天国へ帰ろうにも帰る術がないため、結局、人間界に居座ることにした。その際、人間界で最初に出会った、天使を見ることのできる人物・夏紀を気に入り、家に居着いてしまったというわけだ。しかし、今では、夏紀の部屋だけではなく、ツグミのところにもしょっちゅう出入りするようになってしまった。
「…真冬の奴、またツグミんトコに行きやがったな」
真冬がすり抜けていった壁を見つめて、ぼやく。
彼女が家を飛び出すときは、決まってツグミのところと決まっている。そこで、愚痴だの悪口だのを吐き出して、すっきりして帰ってくるのが常だ。逆に言えば、この世界で真冬の知り合いは二人しかいない、ということになるが――。
(…そういや、他に天使って来てないのか?)
ふと、そんな疑問がよぎる。
何者かに人間界へと突き落された、と彼女は言っていた。理由はどうあれ、同じような目にあった天使はいないのだろうか。もしくは、自分から人間界にやって来たモノ好きな天使とか――。
(いてもおかしくはねえけど……ま、どうでもいいな)
天使の事情になんて興味はない。とりあえず、今は、山のように出た学校の課題を仕上げるべきだろう。まずは、ツグミの苦手な理数系のものを最優先して。
(…よし、早く終わらせて、ツグミに課題を写させてやろう)
それを口実にして彼女に会えるし、真冬が余計なことを言わないか見張ることもできる。まさに、一石二鳥。我ながら、何と完璧な計画だろうか。
「そうと決まれば、速攻で終わらせちまうか」
さっさと頭を切り換えた夏紀は、放り出したままのシャーペンを手に取り、目の前の課題を片付けるのに専念することにしたのだった。
* * *
『…ってな感じで、ひどいのですよ、ナッちゃんは!』
一通り、ことの顛末を話し終えた真冬にハーブティーを出しながら、ツグミが困ったように笑う。艶やかなセミロングの茶髪がさらりと揺れて、ほのかに爽やかな石鹸の香りが漂う。
「んー、確かに、好きな番組がニュースで潰れるのって辛いよね。でも、中止じゃなくて遅れて放送されることもあるし。試しにテレビつけてみようか?」
気遣うように言ったツグミがリビングのテレビの電源を入れてみると、聞き慣れたオープニングが耳に届いてきた。そのリズミカルな音楽に、真冬の顔がぱあっと明るくなる。
『は、始まったのですよーっ! やったー、ツグミンってばすごい! 神様みたいなのですよっっ!』
絶妙なタイミングだった。まさに、今から始まるぞというところで仕掛けるとは、神業としか言いようがない。
ウキウキしながらテレビの前に移動すると、ふと、ツグミが壁の掛け時計を見やった。
「あ、私、買い物に行かなきゃ。今日は、私が夕食の買い物当番なの」
『そうなのですか。じゃ、車と変な幼馴染みに気をつけていってらっしゃいなのですよ。お留守番はお任せなのです!』
「…うん、じゃあ、ちょっと行ってくるね」
画面に全神経を集中させながら手を振る真冬に微笑み、ツグミが出ていく。それを気配で感じながら、真冬が身を乗り出すようにしてテレビの正面に正座する。
ドラマの内容は、よくある恋愛モノ。両想いなのに、いろんな事情や感情が入り乱れ、すれ違って離れていってしまう。前回までのお話は、男に単身赴任の話が持ち上がり、女には見合い話が持ち込まれて終わった。
『…ううう、ドキドキなのですよ!』
男は仕事を取りそうだが、女の見合い話を聞けば、必ず彼女の元へ駆けつけるに違いない。というか、それ以外のストーリー展開なんて真冬には許せない。
鼻息荒く、画面に張り付くようにしてドラマの世界に没頭していると、不意に玄関のほうで物音がした。
『? ツグミン? 随分と早いのですね。財布でも忘れたのですか?』
振り返らずに訊くと、戸惑い気味なツグミの声が返ってきた。
「…えと、真冬ちゃん。ちょっと困ったことになったみたいなんだけど――」
『ほへ?』
真冬がわずかに顔を動かせて振り返ると、ツグミと一緒に、一人の少女――恐ろしいことに、自分そっくりの天使が立っているのが見えた。
白い肌も、大きな瞳も、髪の色も、天使の衣装も。
鏡に映したように、真冬と瓜二つの少女――。
『な、んで――!?』
びくりと身体が震える。人間なら卒倒していてもおかしくない驚きっぷりだったが、それは別に、もう一人の自分と対面したからではない。
天国において、天使というと、みんな同じ姿、声、服装をしている。真冬とその他の天使の違いといえば、表情の変化があるかどうかだけ。本来、天使は心を持たず、無表情なのが普通なため、真冬のように表情豊かな天使のほうが奇異なのだ。
それ故に、目の前の天使は、天真爛漫な真冬と違い、どこか虚ろな瞳をしている――。
(……? 何か、こいつ、他の天使とは違う感じがするのですよ…)
それは、直感だった。ただの天使のはずなのに、どこかがおかしい。何かが気にかかる。それが何なのかはわからないが、違和感が付きまとう。
「…あの、真冬ちゃん。この天使さんが話したいことがあるらしいんだけど」
おずおずと言うツグミの声に、はっと我に返る。
(そうです、呑気に考えごとをしている場合ではないのですよ! 何か、めっちゃヤバい気がするのです。とにかく、逃げるですよ!)
慌てて背中の翼を動かそうとした真冬だったが、同じ顔をした天使が何かを呟いた瞬間、金縛りにあったように身体の自由がきかなくなった。そして、立ち上がろうとした格好のまま、床の上に突っ伏してしまう。
(――う、動けないのですよ!?)
必死に起き上がろうとしているのに、何故か、指の一本すら動いてくれない。
「ま、真冬ちゃんっ!?」
驚き駆け寄ろうとするツグミを、天使の手が制した。
『真冬、久しぶりですね。どうです、そろそろ天国が恋しくなりましたか?』
その声は真冬と似ているが、まったくの別モノだ。温もりも感情も何一つ感じない。機械音と同じ、ただ、淡々と流れるだけの代物。
その声を聞くと、真冬は無性に気持ちが悪くなる。
天国に住む天使は、すべてが平等であり、個性がない。神様の望むままに行動するだけの操り人形。パソコンと同じように、インプットされたことを淡々とこなすだけの道具と何ら変わらない。真冬には、そんなふうに思えた。
(……あたしにとっては、居心地が悪いのですよ、あそこは)
しかし、どんなに嫌いでも、そこにしか自分の居場所はないとわかっていたから、我慢していた。しかし、それも長くは続かなかった。自由に自分の意思を持つことが許される世界の存在を知ってしまったからだ。
神様が人間の世界を監視するためにつくった泉。そこには、個性的な人々の住む世界が映し出されている。
常に変化し続け、希望と絶望の交錯する場所。
天使には無縁の喜怒哀楽に満ちたその世界は、真冬にとっては楽園のように思えた。
そして、気づけば、人間界を観察することだけが真冬の唯一の楽しみになっていた。たとえ、それが禁忌だとしても、やめられない。やめられるはずがない。何故なら――。
(…人間ふうにいうなら、泉を見ることは、あたしにとっての生きがいだったのですよ)
愛情、憎悪、その他の複雑な感情の入り混じる不浄な場所。それ故に、地上の世界は、無垢な天使の心を汚し、惑わせる。
それでも、真冬は見続けた。不自由を強要されている自分と、自由に生きる人間たちを見比べるように。
それからしばらく経った頃、真冬は、落っこちた。憧れの人間界に。
(…今、考えると、誰かに突き落とされたのか、無意識に自分から落ちたのか、よくわからないのですが)
しかし、とにかく、真冬は人間界で暮らすことになった。天国へ帰る方法がわからないというのは嘘ではないが――実は、最初からそんなものを探していなかったし、帰ること自体、望んでもいなかった。
(…人間たちの世界は、とても、自由なのですよ)
一度、この世界を知ってしまったら、もう戻れない。たとえ、神様がそれを命じたとしても。
真冬は、強い瞳で天使を見据えて言う。
『…あたしは、帰らないのですよ。何があっても、絶対に』
天使は、静かに微笑むような表情を浮かべた。その体温を感じさせない笑顔は、人形よりもつくりものめいている。
『…そうですか。ですが、一応、教えて差し上げなくてはなりません。真冬。あなたに残された時間は、長くありません。一刻も早く天国に帰らなければ、神の御加護を失い、堕天してしまうでしょう。堕天。その意味は、ご存じですか?』
薄く開いた天使の瞳が真冬を見つめる。脅しているわけではないのに、どこか恫喝めいて響く声に、真冬は鼻を鳴らした。
『…ふん、知っているのですよ、それくらい』
天使は、神様から与えられた仕事を終えると、人間に生まれ変わることができる。しかし、堕天使――神様から見放された天使は、永遠にその機会を失い、死が本当の意味での消滅になる。
『でも、あたしはそれで構わないのですよ。むしろ、そうしたいのですよ。だって、ここには、天国にはない大事なものがたくさんあるのですからね』
友達も、おいしいお菓子も、面白いテレビも、本も。欲しかったものが、この世界には溢れている。逆に言えば、この世界にしか、望むものは存在しない。
『つまり、おたくはさっさと帰りやがれってことなのですよ。出る幕じゃないのです、天使も神様も』
真冬の乱暴な言い様に、天使は静かな瞳で応じる。
『…そうですか。しかし、規則ですので、これをあなたに差し上げなくてはなりません』
そう言って真冬の目の前に差し出したのは、ピンポン玉くらいの大きさの光り輝く球体。
『……何です、これは?』
見たこともないアイテムに眉をひそめる真冬に、天使は告げた。これは、天国へ帰るための道しるべなのだと。
『帰りたくなったなら、これにそう願いなさい。さすれば、天への道が示され、あなたを導いてくれるでしょう』
『嫌なのですよ、あたしは。こんなもの、ポイポイッと捨ててやるのです』
唾を吐き捨てるように言ってやるが、天使は動じない。それどころか、憐れみを含んだような声で言う。
『お好きになさい。ですが、忘れてはなりませんよ。天使に憑かれた人間に幸福は訪れないということを。あなたのせいで、有沢夏紀の運命が大きく狂うという現実を』
『う、うるさいのですよ! 用事がすんだなら、さっさと帰るがいいのです!』
真冬が怒鳴ると、天使は、無言ですうっと姿を消した。その消えた天使の足元に、音もなく白い球体が転がった。
「――真冬ちゃん」
もの言いたげなツグミに、真冬はバツが悪そうに飛び起きてテレビの前に正座し直した。
『…何でもないのですよ、ツグミン。心配ご無用なのです。あの天使は、あたしを連れ帰ろうとする、悪い天使なのですよ』
「――でも、あの天使の言う通りにしないと大変なことになるんじゃないの? 本当に大丈夫?」
不安げに訊かれて、真冬は明るく笑い飛ばした。
『だーいじょうぶなのですよ! あたしはこう見えて、めっちゃ強いのですからね! だいたい、神様なんてあたしは嫌いなのですよ。だから、今さら、縁を切られたところで痛くも痒くもないのです。むしろ、ツグミンやナッちゃんと離れるほうが考えられないのですよ』
「……そう、そっか。うん、そうだね」
ツグミは、少し感動したように――しかし、どこか悲しげに声を震わせた。
「友達だもんね、私たち。ずっと一緒にいるんだもんね」
『当然なのですよ。友達は、一生の宝物なのです』
何かの雑誌だかテレビだかで聞いた言葉を口にした真冬に、何故かツグミはひどく真面目な顔つきで頷いた。
「そうだね。うん、私たちは友達だから――約束して。もし、何か困ったことが起きたら絶対に相談するって。いい、絶対だからね? もし破ったら、夏紀に頼んで、一週間おやつ抜きにしてもらっちゃうんだから」
『なっ! おやつがなかったら、干からびて死んでしまうじゃないですかっ!』
想像しただけで泣きそうになる。
「大げさねえ。約束を破らなければいいだけじゃない」
『そ、それはそうなのですが……今日のツグミン、ナッちゃんみたいに意地悪なのですよ』
唇を尖らせる真冬に、彼女はくすりと笑った。
「人間はね、つい意地悪を言っちゃう生きものなの。でも、それって真冬ちゃんのことが好きだから、思わず出ちゃうんだよ。夏紀もそう。真冬ちゃんだから、ついいろんなことを言っちゃうの。だって、私には絶対に意地悪なこと、言わないでしょう? それって、私よりも真冬ちゃんに心を許してるってことなんだと思うよ」
『…ツグミンは、本当に罪な女なのですよ』
夏紀の場合、暴言を吐く相手を選んでいるだけの話で、別に真冬を特別扱いしているわけではない。むしろ、ツグミに好意があるからこそ嫌われるようなことをしないだけだとわからない辺り、彼女の鈍感さは凶器レベルに達していると思われる。女でも惚れ惚れとするような極上の微笑を浮かべたまま、無意識に男心を傷つけるのだから。
「えー、罪な女ってどういう意味? 私、何もしてないよね?」
ちょっと不満げに文句を言うツグミは、小憎らしいほど愛らしい。拗ねたような唇も、眉の角度も、文句のつけようがないくらいに芸術的だった。
(……でも、何ですかね? ときどき、違和感があるのですよ)
ツグミは、学校の成績こそ中の上といった平均値レベルだが、性格や容姿といった人間としての魅力は、最高級品だ。笑えば咲き誇る一輪のバラのように人の心を惹きつけてやまず、声は小鳥が囀るように愛らしい。瞳はいつも優しく微笑み、的確な言動で場の空気を乱すことはしない。
誰もが思い描く、理想的な女の子。それが、ツグミだ。
しかし、逆にそれがおかしいと感じる瞬間がある。
(…ナッちゃんは、欠点だらけで、いかにも人間臭いのですが――ツグミンは、何だか少し違うのですよ)
ツグミには、欠点と呼べるものがない。誰にでも優しく、公平で、いつも笑顔で接してくれる。嬉しいときは一緒に喜んでくれるし、悲しいときは一緒に泣いてもくれる。お涙ちょうだいのドラマを見て、二人して泣いたこともあった。
だから、何がおかしいのかと訊かれても、具体的なことは何も言えないのだが、漠然と、夏紀とは違う独特な空気を持っているのは確かだった。
(でも――そんなことは、どうでもいいのです)
そう。ツグミはツグミだ。真冬に優しく、夏紀にはちょっと意地悪な、可愛い人間の女の子。それ以上の何ものでもない。
『さあて、それじゃ、今度こそドラマを観るのですよ!』
気を取り直して、テレビにかじりつく。その背中に、ツグミのもの言いたげな視線を感じたが、ドラマに没頭しているうちに消えていた。




