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2話:ツグミの秘密

    2:ツグミの秘密


「よし、課題終了。ってか、マジで多すぎねえか、これ」

 言いながら、夏紀はふうっと肩から力を抜いて、シャーペンを置いた。

 文字や数字を書きすぎて、指が痛い。

「…どいつもこいつも、教師ってのは、何で課題出すのが好きなんだろうな。採点すんの、面倒くせえだろうに」

 そもそも、勉強なんてものは、学校や塾だけで十分なのだ。それ以外の時間は、青春を謳歌するため――たとえば、部活や恋愛、遊びとか、今しかできないことをするためにあるのだ。それこそが、学生の理想的なありかただと思うのだが、大人に言わせれば、ただの子供の我儘、怠慢ということになるらしい。

「つか、二時間近くもかかるってどういうことだよ。もう夕飯の時間じゃねえか」

 この時間では、ツグミの家に行けない。夕食を食べてからになる。

「けど、あいつ、寝るのすっげー早いんだよな」

 今どきの小学生だって、夜の九時くらいなら余裕で起きているだろうに、ツグミは夜の八時には布団に潜り込み、夢の世界へダイブしている。

「あー、くそ。ツグミの奴、たぶん、課題は放棄してるだろうな、この量じゃ」

 彼女の就寝時間からして、明らかに間に合わない。かといって、量が量なので、写すのにも時間がかかる。ということは、確実に課題の提出を諦めている、ということだ。

(…まあ、課題をやろうにも、今日は真冬の奴もいるから、集中できねえだろうけどな)

 そう思っていたら、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 どうやら、夕食ができたらしい。

「…あれ?」

 椅子から立ち上がって、ふと疑問に気づく。

 母親は、部屋のドアをノックしたりしない。父親は、まだ仕事から帰宅する時間ではないし、他に兄弟もいない。ということは――。

「ツグミか?」

 ドアを開けつつ訊くと、目の前に見慣れた幼馴染みが現れた。

「うん、よくわかったね。声、出さなかったのに」

「わかるに決まってんだろ。消去法でいったら、お前しか残らねえし」

 少し、どぎまぎしながら答える。

 大倉ツグミは、学校でも指折りの美少女である。さらりとした髪は艶っぽくきらめき、穏やかで慈悲深い眼差しは聖女のよう。華奢な体つきのわりに出るところは出ていて、ちょっと数字に弱いところも、何だか可愛い。そんな、どこか頼りなくて儚い印象の彼女には、桜色がよく似合う。

 今日も、お気に入りの桜色のワンピースを着て、柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。

「…ね、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

 ちょいちょいと部屋のなかを指差して、ツグミが上目遣いで見てくる。そのとき、きらきらした瞳とぶつかって、思わず仰け反りそうになった。

(…くーっ、可愛いなあ、畜生っ!)

 心底、幼馴染みでよかったと思える瞬間だ。

 ただの友達やクラスメイトなら、こうはいかない。夜、唐突に、自分の部屋に無防備な美少女がやってくるなんて――漫画ならともかく、現実的にはありえない。まさに、幼馴染みだけの特権だ。

「ま、まあ、入れよ。つか、真冬はいねえのか? そっちに行ったと思ってたんだが」

「うん、来てるよ。今も、家でテレビ観てる。ほら、今日は、真冬ちゃんの好きな俳優さんが特番のクイズ番組に出てたでしょう? ウチのお母さんも同じ人好きだから、一緒になって興奮してたよ」

「――ときどき、あいつが本当に天使なのか、疑いたくなるな」

 部屋にツグミを通しながらぼやくと、彼女はちょっとうつむいて呟いた。

「その真冬ちゃんのことなんだけど――」

 部屋のドアを閉めると、ツグミはさっきまで夏紀が座っていた椅子に腰かけて、夕方にもう一人の天使に会った話をした。

「…というわけで、真冬ちゃん、天国には帰らないで、ここに残るとか言ってるんだけど――夏紀は、どう思う? 真冬ちゃん、このままでいいのかな?」

「……天使の事情は知らねえけど、あいつがここにいたいってんなら、それはそれでいいんじゃねえか?」

 本人が決めたことならどうなっても自己責任だ。

「あいつがそうしたいっつーなら、オレたちにとめる権利はねえだろ?」

「そうだけど……」

 きゅっと唇を噛んで、ツグミが黙り込む。

 その落ち込んだ姿に見惚れつつ、夏紀は優しく声をかけた。

「とにかく、オレがちゃんと真冬と話し合ってみっからさ、んな顔すんなよ。飯食ったら、あいつ迎えに行くし。どうしても気になるなら、そんときに三人で話し合ってもいいしな」

「……うん。そうだね」

 頷いたものの、ツグミは、納得のいかない様子で、そっと部屋を見渡した。

「――部屋、小さい頃とあんまり変わってないね」

 あまりモノに執着しないせいか、夏紀の部屋には最小限のものしか置いていない。多少、小説や漫画が増えた程度で、これといって変化がない。と思っていたのだが、ツグミの視線がある場所でとまる。

「…夏紀、あれ、真冬ちゃんの?」

「ん? ああ、ビーチボールな」

 夏の終わり、真冬が海辺に捨てられていたのを拾ってきたのだ。

「夏に友達と海に行ったときに、ビーチバレーしてる奴らがいてさ。それ見て、密かに練習してオレをやっつけようとかアホなことを企んでたらしい」

 しかし、実体のない真冬には、触れることはできても空気を挿入することはできなかった。

「――…それで、付き合ってあげたの? ビーチバレー」

 ツグミの問いに、夏紀は一瞬、言葉に詰まった。

「……まあ、な。けど、あいつ、すぐに飽きてボールを潰しちまったんだよ。まったく、我儘な奴だよな」

 その言葉は、半分本当で、半分嘘だった。

(…実際は、真冬の奴、すげえ喜んでたんだよな)

 さすがに外で真冬と遊ぶわけにはいかないので、部屋で適当にボールを投げて相手をしてやったのだが、五分ほどして、その動きがとまった。

 どうしたのかと思ったら、彼女はいつになく物憂げな様子でこう呟いた。

『……みんなみたいに、ナッちゃんと外で遊びたいのですよ。家のなかは、つまんないのです』

 そして、勢いよくボールから空気を抜いて、ふて腐れたようにベッドに寝転がって寝てしまったのだ。

 こんな調子で、真冬はコロコロと表情だけでなく心も変わる。さっきまでご機嫌に笑っていたかと思えば、急に怒り出すこともあった。たいていの場合、すぐに熱が冷めて落ち着くのだが、今回のようにツグミの家にプチ家出することも多い。

「…きっと、みんなと同じように、堂々と外で遊びたかったんだよ。真冬ちゃん、他の人に見えないから――本当は、寂しかったのかも」

 囁くようにツグミが言って、夏紀は思わず頷きそうになってそっぽを向いた。

「んなこたねえよ。あいつ、好き勝手に我儘し放題やってるじゃねえか。それでオレがどんだけ迷惑こうむってるか、知ってんだろ?」

「――そんなこと言って。本当は、真冬ちゃんのこと、大好きなくせに」

「なっ、何でそうなるっ!?」

 即座に否定しようとしたのだが、ツグミがキラキラとした笑顔で、

「私と同じだね!」

 なんて言うから、反射的に頷いてしまった。

 改めて否定しようかとも思ったが、几帳面に足を揃えて、真っすぐにこちらを見つめてくる神妙な気配に、タイミングを逸してしまった。

「…ねえ、夏紀。真冬ちゃんのこと、ちゃんと見ててあげてね? それで、もし、何かあったら、これを真冬ちゃんに渡してほしいの」

 ツグミが、紙で包んだ何かをワンピースのポケットから取り出して、夏紀に手渡した。

「何だ、これ? ピンポン玉?」

 大事そうに紙で包まれていたのは、小さくて丸い物体。卓球で使うボールに見えたが、すぐに違うとわかった。触れようとしても触れられなかったからだ。きっと、夏紀同様、ツグミも触れなかったため、こうして紙に包んで持ってきたのだろう。

「で、これがどうしたんだ?」

「うん…真冬ちゃんに会いにきた天使が言ってたの。もし、天国に帰りたくなったら、これを使えって。真冬ちゃんは、いらないってゴミ箱に捨てちゃったんだけど――…」

「…ふうん。真冬の奴、天国に帰る手段がねえからウチにいるみたいなこと言ってやがったくせに――こんなのがあるなら、さっさと帰ればいいじゃねえか。何で帰らねえんだ?」

 誰だって、自分の家が一番落ち着くだろうし、何より、真冬は好き好んで人間界に来たわけではないのだ。帰れるとわかった段階で、喜んでもいいはずなのに、真冬はそれを拒んだという。しかも、唯一の帰還アイテムをあっさりと捨てて。

「真冬の奴、何を考えてやがんだろうな?」

 ぼやく夏紀を、何故かツグミが責めるような目で見た。

「……夏紀の鈍感」

「あ? 何か言ったか?」

 小声すぎてうまく聞き取れなかった。

 ツグミは、二度は言わず、すっと椅子から立ち上がった。

「とにかく、晩御飯が終わったらウチに来て。あ。あと、真冬ちゃんに優しくしてあげてね? 怒ったり、責めたりしたら駄目だからね?」

「――そんなに気を遣わなくてもいいと思うけどな。とにかく、わかったよ。ちゃんと気をつけて見てるから、安心しろ」

「……うん、お願い。私にやれることは限られてるから」

 そう言ったツグミは、これまで見たことがないくらい真剣で、切実で――夏紀もつられるようにして神妙な面持ちで頷いた。

「…ああ、心配すんな。真冬のことは、何があってもオレが何とかしてやるからよ」

「――うん」

 ツグミが、ほっとして肩から力を抜いた。表情からは張りつめたような緊張感が消え、彼女らしい優しい笑顔が戻る。

「ありがと。夏紀」

「…別に、礼を言われるほどのことじゃねえよ。真冬は、オレに憑いてるんだからな。むしろ、悪かったな。お前を巻き込んじまったみたいで」

「ううん、全然、迷惑じゃないよ。だって、私、真冬ちゃんも夏紀も大好きだもの」

「――へ?」

 大好き、だと!?

 一瞬、ものすごいセリフが聞こえた気がする。片想い歴が長すぎて、とうとう幻聴が聞こえるようになったのか。いや、違う。それにしては、やけにリアルに耳の奥でリフレインしている。


 ――大好き! ダイスキ! だいすき!


 駄目だ。同じ言葉が、呪文のように脳内を揺さぶる。

(お、落ち着け、オレ! 落ち着くんだっ!)

 すーはー、すーはー。

 どぎまぎしながら深呼吸をして心を落ち着けようとするが、うまくいかない。そのせいで、不自然なほど上擦った声が、喉から飛び出した。

「オ、オイ! な、何つった、今っ!?」

「…え?」

 訊かれたツグミは、狼狽する幼馴染みを不思議そうに見やり、さっぱりとした口調で繰り返した。

「えっと、真冬ちゃんも夏紀も大好きだから、全然迷惑じゃないよって言ったんだけど……私、何かおかしなこと、言ったかな?」

「い、いや、おかしなことは言ってねえけど!」

 しかし、問題発言はした。

 大好きという甘美な響きが、頭のなかで再生される。思わず興奮して悶絶しそうになったが、すぐに冷静になれた。というか、冷静にさせられた。

 ツグミの冷徹ともいえる無邪気な発言で。

「だって、二人とも私の大事なお友達だもんね!」

 それを聞いた瞬間、断崖絶壁から突き落とされるような気分を味わった。

 友達、それは、恋人未満の証。ツグミの場合、眼中にないよと公言しているのと同じ意味を持つ。

(……畜生。いつも、このパターンだ)

 素直に喜ばせておいてくれればいいものを、どうして、わざわざ地獄に突き落とすようなセリフを口にするのだろうか。

(…わざとじゃねえだろうな、ツグミの奴)

 何となく、いいように転がされているような気がしないでもないが――ここは、流しておこう。彼女の極上の笑顔に免じて。

 ツグミと別れて、夕食を終えてから、夏紀は家を出た。

 もちろん、真冬を迎えに行くために。

 しかし――。

「え、真冬の奴、いねえのか?」

 家を訪れた夏紀に、ツグミが心配そうな声で言う。

「うん。一度、一緒に私の部屋に戻ったんだけど、ちょっと席を外してるうちに、いなくなってたの。窓から外に出たらしいんだけど、夏紀の部屋に戻ってない?」

「いや、いねえよ。他にあいつが行きそうなトコに心当たりねえか?」

「ううん。夏紀こそ、どこか知らない?」

「知らねえよ。けど、公園だの街中だの、勝手にあちこちうろついてたりするからな、あいつ」

 携帯電話でも持っていれば、連絡をとることも場所を特定することもできるのだが、相手は天使だ。そんな文明の利器とは無縁で、残念ながら、漫画みたくテレパシーなんて便利なものも使えない。

「――とにかく、オレは周辺捜してみっから、お前は家にいろ。真冬が帰ってくるかもしれねえからな」

「わかったわ。夏紀、気をつけてね」

 ぎゅっと、励ますように手を握られて、俄然やる気がわいてきた。

「おう、任せとけ!」

 力強く言って、夏紀は薄暗くなった夜道へと出た。

 秋が来たといっても、まだ夏の名残りが残っていて、陽は完全には暮れきっていない。とはいえ、視界は良好といえるほど明るくもないのだが、家の周囲の道には明々と輝く防犯灯があるので、人捜しをするにはさほど困らない。

「…とりあえず、公園にでも行ってみるか」

 小学生の頃、よく遊んだ近所の小さな公園へ行ってみることにした。そこは、昔、真冬やツグミと一緒に遊びに来ていたので、ちょっとした思い出がある。

「……着いた、けど」

 当然ながら、薄暗い公園に人の気配はない。そもそも、真冬は天使なので気配そのものがないのだが――不思議と、夏紀には彼女がどこにいるのか、直感的にわかることがあった。もっとも、いつもというわけではないので、あまり当てにはできないが。

「……いねえのか?」

 こじんまりとした公園には、目ぼしい遊具はブランコくらいしかない。

「…とりあえず、呼んでみるか。おーい、真冬ーっ! いたら返事しろーっ!」

 誰もいない公園の中央で、呼びかけてみる。しばらく待ってみても返事がなかったので立ち去ろうとしたら、がさり、と近くで音がした。

「? 真冬か?」

 近くの茂みを覗き込んで、目を凝らす。

 すると、勢いよくバッと何かが飛び出して、雨に濡れた犬よろしくぶるぶると全身を振った。その髪や服から、ぱらぱらと木の葉が落ちる。

「ぷはあーっ! うう、いろんなトコがちくちくするのですよ!」

 聞き慣れた声、生意気な口調。ぴょこんと動くツインテールに背中に生えた嘘くさい翼。それらは、夏紀のよく知る真冬の特徴と一致するものの、違いが三つ。

 まずは、髪の色。青い月の光を吸ったような白銀の髪は黒く染まり、羽も同様に黒く変色している。一番の変化は、頭の上にあったはずのピカピカ光る輪っかがないことだ。

「……ま、真冬、か? お前、どうしたんだ、その格好?」

 ぽかんとして訊く夏紀に、真冬は、やや濁ったスカイブルーの目をしばたたかせた。

「――…堕天したですよ。神様の加護がなくなったから、あたしは前のあたしではなくなったのですよ」

「…堕天って、見た目が変わるだけなのか?」

 それだけなら、大変なことになるのではないかというツグミの心配は、ただの杞憂ですむ。しかし、真冬は首を横に振って否定した。

「…それだけではないのですよ。ナッちゃん、手を出してみるです」

 夏紀は、事態が呑み込めないまま、手を出した。その手のひらのうえに、真冬は小さな光の欠片を乗せた。

 雪のような、小さな花のようなその輝きには、見覚えがある。

「…これ、お前の頭に浮いてた奴と同じ光じゃねえのか?」

「そうですよ。これを拾いにきたですよ、あたしは」

 そう言った真冬は、それをつまんで、ひょいっと呑み込んだ。すると、わずかに彼女の輪郭が淡く輝き、かすかに羽の色が変わる。漆黒から灰色へと。

「――何やってんだ、お前? その羽、何で色が変わって…」

「人間が生きるには、食べ物がいるですよ。それと同じで、光は、天使にとっての食糧なのです。いつもは、神様から輪っかを通して送られてきてたですが、今のあたしにはそれができないのですよ。だから、こうして、光の欠片を自分で探さなきゃ駄目なのですよ」

「光が食糧? って、もし、その光の欠片とやらがなくなったら、どうなるんだ?」

 そう訊いたとき、少しだけ胸騒ぎがした。

 真冬は、さして気にしていないように、いつもの笑顔であっさりと告げた。

「消えるですよ。堕天した天使は、長く生きられないですからね」

 茫然とする。その言葉の意味に、ではなく、何の不安もなく笑顔でそんなことを言える真冬が信じられなかった。

「おい、何だよ、それ? 消えるって、お前、滅茶苦茶大ピンチじゃねえか! 何で天国へ帰らねえんだ、この馬鹿!」

 怒鳴る夏紀を不思議そうに見つめ、真冬は言う。

「だって、天国にはナッちゃんもツグミンもいないじゃないですか。一緒にお喋りしたり、おやつ食べたりできないとか、そんなの、絶対に嫌なのですよ」

「アホか! そういう問題じゃねえだろ!」

「そういう問題なのですよ、ナッちゃん」

 言って、真冬は空を見上げ、来た方角とは逆の道へ視線を投げる。

「…見つけたですよ」

 そう呟き、飛んでいく。

「おい、待て、真冬!」

 夏紀も、慌てて、そのあとを追いかける。

 角を二つほど曲がって、五分ほど走った先には、小さな橋がある。その橋の下にいた真冬は、手に入れた光の欠片を呑み込んで、少し羽の色が白くなったのを確認してから、夏紀のところへ戻ってきた。

「おまたせなのです、ナッちゃん。そろそろ帰るですよ」

 平然と帰宅しようとする真冬に、夏紀が声をかける。

「待て。おい、話はまだ終わってねえぞ」

「…終わってるですよ」

 真冬が、いつになく真面目な顔で言う。

「あたしは、ここにいるのですよ。消えるまで、ずっと。ナッちゃんが駄目だって言っても、あたしはここに居続けてやるのです。だから、怒っても無駄なのですよ」

「――…っ」

 真冬の目は、真っすぐに夏紀を見つめている。そこに迷いや恐怖はなく、あるのは、強い決意だけだ。

(……こりゃ、何言っても聞かねえ顔だな)

 夏紀は、しかめ面で吐息して、腕を組んだ。

「――真冬。確認しときたいんだが、その光の欠片ってのがありゃ、お前は消えずにすむんだな?」

「そうですよ」

「…それって、どこででも手に入るモンなのか?」

「――どこでもってわけじゃないですが、結構、この辺りにはあるですね。でも、すぐに取りに行かないと、消えちゃうですよ」

 入手した新情報に、夏紀がふむと唸る。

「…ということは、お前がこのままここにいても、すぐには消えねえってことだな。光の欠片がある限り」

「そうなるですね」

 ということは、ツグミが心配するほど危機迫った状況ではないのかもしれない。正体は不明だが、光の欠片とやらがこの周辺から消えない限り、真冬は今まで通り過ごせるということになるのだから。

「…ナッちゃん、どうしたですか?」

 灰色の翼を羽ばたかせながら、真冬が顔を覗き込んでくる。そのややくすんだ青い瞳を見つめ、夏紀は強い口調で言った。

「真冬。お前が残りてえのなら、残りゃいい。オレもツグミも、お前が消えねえように協力してやる。けど、マジでヤバくなったら帰れ。いいな?」

「――…仕方ないですね、わかったのですよ」

 そう言いながらも、彼女は目を合わせない。きっと、従う気などないのだろう。

 夏紀は、そんな真冬を真剣な目で見つめた。

「約束しろ、真冬。何があっても、絶対に消えるんじゃねえ。もし消えたら、オレもツグミも、お前を許さねえからな」

「………」

 真冬が沈黙する。しばらく考えるように目を閉じ、にんまりと笑う。

「――何だ。何がおかしいんだ、この野郎」

 少し苛立った様子の夏紀に、彼女は肩をすくめてみせた。

「…わかったのですよ、約束するです。消えそうになったら、必ず、天国に帰るのですよ。それにしても――ナッちゃんもツグミンも、本当に駄目駄目なのですねー。あたしがいなくなるのが、そんなに寂しいのですか? 泣いちゃったりするですか?」

「は? 泣くわけねえだろ、むしろ、ムカつくんだよ」

 さんざん迷惑かけておいて、急にいなくなるとか、そんなのはナシだ。だいたい、夏紀にしてみれば、生まれたときからずっと一緒にいる真冬は、すでに家族同然なのだ。

 ずっと――それこそ、死ぬまで傍にいるものだとばかり思っていたから、この唐突すぎる展開にどう対処すればいいのか、わからない。

 だが、それでも――今、自分にできることをやるしかない。それが、何一つ、問題の解決に結びつかないとわかっていても――…。

「――とにかく、真冬。帰って、詳しく話を聞かせろ。光の欠片のこと、天国のこと、天使のこととかな。オレも知っといたほうがいいだろ」

 言いながら歩き出した夏紀のあとを、低空飛行しながら真冬がついていく。バサバサと、大きな鳥が羽ばたくような音をさせながら。

「ええー? ナッちゃんってば、そんなにあたしのことが知りたいのですかー? 女の子のアレコレを詮索するのは、マナー違反なのですよ。これだから、ナッちゃんはツグミンに相手にされないのです」

「うるせえよ! つか、茶化すんじゃねえ! こっちは真面目なんだ、お前ももっと真面目にやれ!」

 いつもの調子が戻ってきた真冬を一喝するが、彼女には通じない。これまで通り、茶化したり、はぐらかしたりするだけだ。

 夏紀は、ツグミの家に寄って真冬の無事を伝えてから、自宅へと戻った。通常ならば、一足先に壁をすり抜けて夏紀の部屋に行く真冬も、今回は、珍しく玄関から一緒に帰宅した。

「…ただいまー」

 夏紀が靴を脱ぎながら言い、真冬も元気よく声を出す。

「ただいまなのですよー」

 その声が聞こえないとわかっていても、真冬はよく両親に話しかけたりする。家族ごっこをするみたいに。

 今日も、そんな軽いノリで放たれた真冬の声に、リビングにいた両親が、ぎょっとした顔で飛び出してきた。

「…な、夏紀? 今の声は何だ?」

 やや間の抜けた父親の声に、夏紀が首を傾げる。

「どうした、親父。んな、ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔して?」

 不思議がる息子そっちのけで、今度はぽっちゃり体型の母親が目を見開いたまま、スリッパをパタパタ鳴らして近づいてきた。

「な、ななな、夏紀! ちょっと、こっちにいらっしゃい!」

「は? 何だよ、急に」

 ぐいぐいと女とは思えない力で引っ張られて、リビングの近くまで歩く。

「どうしたんだよ、二人して。何かあったのか?」

 どこか青ざめて見える両親の様子に、夏紀は眉をひそめた。

(…たいていのことじゃ動じないってのに、何なんだ?)

 思い当たることは何もない。そう、何も。

 しかし、両親は息をひそめて、玄関のほうを見つめている。

「――あのさあ。さっきから、何なんだよ。あそこに何かあんのか?」

 両親同様に、玄関を見てみるが、灰色の羽の少女が見えるくらいで、他には何も変わったところはない――。

(……ん? 待てよ?)

 両親を観察して、その目線がどこに向かっているのか、確かめてみる。

 二人の目は、明らかに真冬に向けられていて。

 見開かれた瞳には、はっきりと一人の少女の姿が映っていて。

 そこから導き出される結論は、一つだけ。

(――まさか、真冬の姿が見えてるのか!?)

 はっと息を呑む夏紀に、真冬が能天気に笑いかける。

「ナッちゃん、どうしたですか。早く部屋に行くですよ」

 その言葉に、母親が鋭い眼差しを息子に送る。

「へ、部屋っ!? な、夏紀! あんた、女の子を密室に連れ込んで何をするつもり!? しかも、あんなヘンテコな羽までつけさせて! 一体、どういう趣味なのっ!?」

「あーもう。ウゼエなあ。何もしねえし、羽は自前だよ、あいつの」

 言ってみるが、あいにく、母親は自分の息子を何一つ信用していなかった。ふるふると肩を震わせ、出てもいない涙を拭う仕草をしてみせる。

「な、何てことなのっ!? 女の子に、日常的にあんな恥ずかしい格好を強要するだなんてっ! ああ、情けない。情けないわ、母さん! お前はちょっと異常な性癖のある、ちょっと独り言の多い、ちょっと変わった息子だと思っていたけれど、ついには、彼女にコスプレさせて遊び始めただなんて! ああ、もう、相手のお嬢さんと親御さんにどう謝ればいいのかわからないわ!」

 本気で泣きそうな顔で訴えられて、さすがの夏紀も嫌気がさしてきた。

「おい、それが母親の言うことかよ。ちょっとくらい、息子を信じる気はねえのか?」

 半分怒っている夏紀の肩に、父親のがっしりとした大きな手が載った。

「…夏紀、ここは、男同士、腹を割って冷静に話し合おうじゃないか!」

「――親父まで何言ってんだ」

 呆れるというより、悲しくなってきた。

 確かに、これまでの両親の目には、夏紀は奇異な息子に映っていただろう。

 真冬の持ち込んだエロ本騒動が原因で、性癖異常者のように扱われ、真冬との会話で、独り言の多いおかしな奴だと誤解され、とうとう、女にコスプレをさせるマニアだと思われて。

(――いやいや、問題はそこじゃねえだろ。どうして、二人にも真冬の姿が見えてるんだ??)

 今までこんなことは一度もなかったというのに。

 すぐにでも真冬に事情を聞きたかったが、今は、いろいろと勘違いしている両親を説得するところから始めなくてはいけないようだ。

「…ったく。アホらしい。おい、真冬。ちょっと来い」

 玄関にいる真冬を呼ぶと、彼女は嬉しそうに羽をパタつかせながらやってきた。明らかにつま先が床についていないが、両親が不審がる様子はない。もしかすると、最近の玩具の羽には飛行能力があるとでも思っているのかもしれない。

「何ですか、ナッちゃん」

 やってきた真冬の腕を――これまで、触れられなかったその腕を、がしりと掴んで引き寄せる。

「おい、真冬。お前の姿が親父たちに見えてんぞ。どういうことだよ?」

「え? 見えてるですか?」

 目をしばたたかせた真冬は、ふと何か思い出したように、ぽんっと手を打つ。

「道理で、ツグミンの部屋を出るとき、壁を擦り抜けられなかったはずです。結局、窓を開けて、外に出たですが――なるほどなのです。今のあたしには、実体があるのですね。納得、納得!」

「納得してんじゃねえよ! いいか、真冬。親の前では、とにかく黙ってろ。オレの言葉にひたすら頷いてろ。わかったな?」

 恫喝するような声に、真冬は思いきり唇を尖らせた。

「むうっ、嫌なのですよ。せっかく、ママさんパパさんとお話できるですのに、何で黙らなきゃいけないのですか」

「決まってんだろ、余計に話がこじれるからだ!」

「そんなの、知ったこっちゃないのですよ」

「おい、こら、真冬!」

 夏紀の制止を振り切り、真冬は、満面の笑みを浮かべて両親の前に出た。

「初めましてじゃないけど、初めましてなのですよ。真冬というのです。ママさんパパさんとずっとお話したいと思ってたですから、今、ものすごく嬉しいのですよ。めっちゃドッキドキでワックワクなのです!」

 いきなりテンションの高すぎるアイドルみたいな口調で話しかけられて、両親は、ぽかんとしている。それを無視して、真冬が弾丸のように喋り出す。誰も口を挟めないほどの勢いで。

「そうそう、前から言おうと思ってたですが、ママさんのカレーは天下一品なのですよ! お店のよりも、ずっとずうううっと美味なのです。それなのに、ナッちゃんは甘すぎて食べられないだのもっとスパイスをきかせろだの文句ばっかり言って、とんだ親不孝者なのですよ。カレーが甘くて、何が悪いのですか? 美味しいじゃないですか、練乳たっぷり激甘フルーツカレー! 辛味なんてなくていいのですよ。むしろ、辛味は邪道なのです。辛いカレーなんか、滅びればいいのですよ! そうそう、パパさんの趣味のゴルフ。ナッちゃんは下手だって馬鹿にしてるですけど、ナッちゃんのほうがもっと下手っぴだから、落ち込む必要はないのですよ。前にゲームセンターでゴルフゲームをやったですが、慰めるのも逆に可哀想な成績だったのですよ。あのときのナッちゃんってば、ププーッ。経験が足りないからだーとか言って、めっちゃ練習してたのに、ツグミンにもあっさり負けちゃって半泣きになってたですよ。ホント、格好悪いったらなかったですねー。身の程知らずもいいトコなのです」

「真冬、テメエ。オレに喧嘩売るとは、いい度胸じゃねえか」

 苛々する。というか、一応、初対面ということになるのに、いきなりここまでぶちまけトークができるとか、ある意味、すごい奴なのかもしれない。

 しかし、好戦的な夏紀の態度に反応したのは、真冬ではなく母親だった。

「まあ、夏紀! 女の子相手に、何て言い草なの!?」

 夏紀母は、初対面にもかかわらず、真冬を我が子のようにぎゅうっと抱きしめたかと思うと、

「可哀想な真冬ちゃん! うちのバカ息子の暴言なんて気にしちゃ駄目よ。あんなのは、工事現場の騒音だと思って無視してちょうだい。本当、女の子相手に喧嘩売るとか、信じられないわ。親の顔が見てみたいものね!」

「鏡見ろよ、鏡。何なら持ってきてやるぞ」

 夏紀のツッコミに、父親が肩に手を置いたまま、しみじみと言う。

「…夏紀。とりあえず、女性陣に謝っておけ。人生、何事も負けるが勝ちだぞ」

 妻の尻に年中敷かれっぱなしの男の意見は、それなりに含蓄があるようで、実は何の教訓にもならない。

「ああもう、マジで腹立つなあ!」

 ムカついて頭をガシガシ掻いていると、ふうっと真冬が息を吐いた。

「…ナッちゃん。あんまり刺激を与えすぎると、ハゲるですよ」

「うるせえよ、黙れよ、こん畜生! オレがハゲたらお前のせいだからな!」

「責任転嫁も甚だしいのです」

 真冬の涼しい反応に、母親がうんうんと頷いて見せる。

「そうよねえ。ハゲは自己責任よねえ。心配なら、今のうちに育毛剤でも買っておけばいいんじゃない? あ、でも、カツラだけは、みっともないから母さんは反対よ。そんな真似するくらいなら、堂々とハゲちらかしてなさい」

「――母親のセリフとは思えねえな…」

 本当に、どこまで息子の心を傷つければ気がすむのか。

 父親の様子をちらりと窺うと、こっそり頭をさすって髪のボリュームを確かめているのが見えた。

(……え? ま、まさか、ハゲの兆候が…!?)

 親がハゲなら、その子供もハゲるという話を耳にしたことがある気がする。

(…ということは――)

 恐る恐る、頭に当てていた手をおろして、じっと見つめてみる。

(こ、これは――っっ!!)

 十本ばかりの毛髪が指に絡まりついている。それも、かなり立派な太い毛が。

(………これからは、頭を掻くのは厳禁だな…)

 やはり、毛根及び頭皮は優しく扱わなければ。そう、慈しむように、心から大切にしよう。将来の自分のためにも。

 密かにそんな決意をしているうちに、女二人はすっかり意気投合してしまい、仲良くリビングのソファーに腰掛け、料理話で盛り上がっていた。

「ねえねえ、真冬ちゃん! 前から考えてたんだけど、カレーに缶詰のみかんとか入れてみたらどうかしら?」

「いいと思うですよ。甘酸っぱさがアクセントになって美味しそうなのです」

「そうよね! あ、桃缶の桃とかもいいと思わない? 私、これまではフレッシュさにこだわってたけど、最近は、缶詰のフルーツもすごくおいしいし、カレーにも合うかなーなんて思ってるんだけど」

「ていうか、いっそのこと、シロップごとぶちこんだらどうですか? ついでに、アイスクリームとか生クリームとかもたっぷり贅沢に使って、ケーキみたいにするってのもありだと思うのですよ。あ、でも、日本人らしく和の心を忘れないように、餡とか黒蜜とかも入れなきゃ駄目なのです。それで、片っぱしから美味しいもの全部入れていったら、きっと、ほっぺたが落ちるくらい甘くて美味しくなると思うのです!」

「あら、それは斬新ね! カレーなのに、ケーキって。しかも、若いのに、和の心を忘れないなんて、なかなかできることじゃないわ! 真冬ちゃん、料理の才能あるんじゃない? 和の心を詰め込んだケーキのようなカレー。うん、素晴らしい目の付けどころだわ! 早速、明日にでもチャレンジしなきゃ。あ、そうだ。真冬ちゃん、明日の夜、暇なら一緒につくってみない?」

「え、いいのですか? やったー! わあい、ママさんとお料理なのです! 猛烈楽しみなのです!」

 実に和気あいあいと、楽しげなのはいいのだが。

「…おい、親父。そろそろとめねえと、ただでさえ悲惨な我が家の食生活が取り返しのつかねえ事態になるぞ」

 夏紀が声をひそめて言う。父親は、太めの眉をひそめ、重々しく頷いた。

「…そうだな。だが、夏紀。お前に一つ、言っておきたいことがある」

「は? 何だよ、えらく深刻な顔して」

 父親は、ごくりと唾を飲み込み、これまで見たことのないくらい真剣な顔つきで言った。

「料理に必要なのは、味じゃない。愛情だ。それさえあれば、何とかなる!」

「…いや、味だろ、大事なのは」

 何を言い出すのか、この恐妻家は。

 息子の冷めた眼差しにめげず、夏紀父は持論を展開する。

「いいか、夏紀。家庭内を円満にやりすごすには、一に我慢、二に辛抱だ。それさえあれば、万事、順風満帆に過ごせると知れ!」

「……何言ってんだ、親父…」

 そういうのは、順風満帆とは言わない。そもそも、我慢と辛抱とは同じような意味合いしかないではないか。

「要するに、母さんを敵に回したくねえだけだろ。つーか、そういうことなら、カレーの処理は全部親父に任せるよ。オレは、コンビニ弁当でいいから」

「っっ!?」

 夏紀の言葉に、父親は愕然とした。信じられないとばかりに目を見開き、がっくりとその場に膝をつく。

「…な、何てことだ! 母さんの一途な愛を拒むとは! こんな親不孝があっていいものか!?」

「やめろよ、その大げさな演技…」

 父親は、就職するまで演劇一筋だったせいか、いちいち芝居がかった言動をする。今も、絶望に打ちひしがれている主人公を演じているつもりなのか、床に手をつき、ぷるぷる身体を震わせている。おそらく、頭のなかでは、スポットライトを一身に浴びているつもりなのだろう。

「………はあ、アホらしい」

 殺人的甘味料理(ひたすら甘く、ひたすらマズイ、健康を害する料理の総称)をつくる母親と、恐妻家である自分に酔い痴れる父親を相手にしていると、真面目に話すのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

「おい、真冬。話がすんだら、部屋に来いよ」

 とりあえず、リビングに声を投げておく。真冬は、にかっと笑って手を振って返した。

「はいなのですー。それで、ママさん。ハンバーグの話なのですが」

 ウキウキと真冬が声を弾ませる。

 どうやら、被害はカレーだけでなくハンバーグにまで及ぶらしい。

(…明日からは、毎食コンビニ弁当だな…)

 金はかかるが、仕方がない。成人病等の健康被害が出そうな料理は、回避するに越したことはないからだ。

 夏紀は、疲れた溜息をつきつつ、自室のある二階への階段を上がっていった。



       *       *       *



「それにしても、真冬ちゃんがいい子でよかったわー」

 ソファーに座る夏紀母が、ややぽっちゃりした足を組み、にこにこと上機嫌で言う。

「ウチの夏紀って、ほら、アレでしょう? かなりおかしな子だから、どんな子と付き合いがあるのか、心配してたのよ」

「確かに、ナッちゃんはおかしいのです。すぐ怒るし、しょうもないことで悩んでるし、ツグミンの前では気持ち悪いぐらいおとなしいですし」

 ちょっとくらいは、こちらにも優しい言葉をかけてくれたり、気を遣ってほしいものだ。そう思って言う真冬に、心なしか母親の顔が曇る。

「あら、真冬ちゃん、ツグミちゃんのことも知ってるのね。仲良しなの?」

「はいですよ。一緒に遊んだり、お茶したりしてるです」

「…そう。こう言っちゃなんだけど、私、あの子、ちょっと苦手なのよねえ」

 足を組み直し、母親は言い難そうに呟く。

「もちろん、いい子だっていうのは、わかっているのよ? でも、何て言うか…そう、違和感があるのよねえ」

「違和感、ですか?」

「ええ。真冬ちゃんも感じたことない?」

 言われて、真冬はちょっと考える。

「――そういえば、たまに、そういうのあるですね。でも、原因はわからないのですよ」

 ときどき、ふっと風が吹くようにして、違和感が心の隅を掠める。

 いつ、そうなるのかはわからない。だが、急に、何かがおかしいと思う瞬間があるのだ。

 母親は、愛らしく首を傾げる真冬を優しく見つめて言う。

「…私が思ったのはね、ツグミちゃんは完璧すぎるんじゃないかってこと」

「――完璧、ですか?」

 真冬自身、ツグミに対してそう感じたことがある。しかし、どこがどう完璧で、何が悪いのかまではわからない。

「…そう、完璧なの。まるで、台本があるみたいに、泣くべきところで泣いて、笑うべきところで笑って、怒るところで怒ってみせて。でも、そのどれもが嘘っぽく感じてしまうっていうか」

「――嘘、ですか?」

 そこまでは思わないが――確かに、不自然だと思うことはこれまでに何度かあった。

 たとえば、ツグミの祖母が亡くなったときのことだ。仲のよかった夏紀も参列した葬式の場で、彼女は悲しげに泣いていた。それこそ、悲劇のヒロインの如く。しかし、火葬がすむまでの間、彼女は、いつものように愛らしく晴れやかな笑顔を見せていた。そして、火葬が終わり、遺骨を前にしたとき、再び、彼女は泣いた。まるで、そうするように指示されたように、表情と感情が的確に切り替わる。

 でも、そんなことは、人間にはよくあることだ。建前と本音が違うように、場に合った言動をすることは、別に間違ってはいない。ただ、ツグミは極端すぎるのだ。気持ちの切り替えが早すぎて、夏紀の母親の目には、異様に映るのだろう。

「…なんてね。考えすぎかしら」

 母親は誤魔化すように微笑み、立ち上がった。

「真冬ちゃん。ココアとミルクティー、どっちが好き?」

「ココアがいいのです。お砂糖たっぷり入れてほしいのです」

 真冬の言葉を受けた母親は台所へ向かい、ココアとブラックコーヒーの入ったカップを盆に載せて帰ってきた。

「コーヒー、夏紀に持って行ってあげて。あ、あと、あの子に変なことされそうになったら、とにかく大声で悲鳴をあげるのよ? ドアをぶち壊してでも助けに行ってあげるからね」

「はいなのです」

 どこまでも信用のない夏紀に少しばかり同情しつつ、真冬は盆を手に二階の部屋へと向かった。

「ナッちゃん、開けてほしいのですよ」

 ドアの前で声を出すと、二秒ほど間を置いて、ドアが開いた。

「ったく。女ってのは、マジで姦しいよな。二階にいてもキャーキャー騒ぐ声がうるせえの何の。一体、何をそんなに話すことがあるんだか」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、夏紀は真冬から盆を受け取って、机へ置いた。

 そして、ココアのカップを真冬に渡してから、コーヒーカップを手に取る。

「――で、真冬。さっきの話だが」

「さっき? ああ、カレーですか? 明日、一緒につくることになったですよ」

「…ちげえよ。つか、お前、何、馴染んでんだ」

 呆れ声でぼやき、夏紀は話を戻した。

「天使の話だよ。あと、光の欠片って奴のこともな」

「ああ、そっちの話ですか」

 そういえば、そんな話をしていたような気がする。

 異常に甘いココアを美味しそうに飲みながら、真冬はベッドに腰かけて簡単に説明した。

「天使は、天国に住んでるですよ。でも、前に話した通り、あたしは地上に通じる神様の泉から落ちて、ここに来たです。あの天使も、きっと、泉を使ってやって来たと思うですよ」

「…で、お前が堕天するとか言ったんだろ? そもそも、堕天って何なんだ? 見た目が変わって、姿が他の奴に見えるようになって、消える可能性もあるってこと以外に、何かあるのか?」

「――…そうですねえ」

 真冬は、喉に引っかかる甘みを気にしながら、カップのなかのチョコレート色を見つめる。

「…天国にいる天使は、いつか、人間に生まれ変わる運命ですが、堕天したらそれができないって言われてるです。つまり、転生できずに消滅するってことですね」

「ふうん? 生まれ変わるとか言われてもピンとこねえな。つか、それって、人間が死ぬのと同じことじゃねえのか?」

 人間も、死んだらそこで終わり。死後の世界があるかどうかはともかく、自分が生まれ変わるかどうかを心配したところで無意味だ。

 しかし、真冬は言う。彼女らしからぬ、真面目な口調で。

「人間は、死んだら天使になるですよ。全部忘れて、心が空っぽになって、神様の言うことを聞くだけの人形みたいになって、また、人間になるです。だから、もし、ナッちゃんがあたしと同じ立場だと仮定するなら、ナッちゃんはもう天使になることも、人間になることもできなくなるってことなのですよ」

「んなの、どうでもいいだろ。一度死んじまったら、オレが何を考えてどう生きたかなんて、関係ねえわけだし」

 苦みの強いコーヒーを飲みながら言う夏紀に、真冬は小さく笑った。

「…そうなのですよ。あたしも、そう思うです。大事なのは、今、どう生きるかということなのだと思うのですよ」

 未来なんて、どうでもいい。生まれ変わったとしても、また夏紀やツグミと出会えるとは限らないし、再会できたとしても、全部忘れてしまっているかもしれない。二人を懐かしいと思うこともなく、積み重ねた思い出も絆も全部消えてしまって、ただ、道ですれ違うだけの、記憶の片隅にすら残らない存在になってしまうのだとしたら――…。

(…そんなの、嫌なのですよ)

 今が幸せで、未来のほうが不幸なのだとしたら。

 別れが、本当の意味での離別になってしまうのだとしたら。

(……いらないのですよ、未来なんて)

 ここにあるものが大事ならば、それを失わないように、ひたすら抱きしめていればいい。かたときも離れず、ずっと傍にいて、守り続ければいい。

(…あたしは、あたしが間違ってるとは思わないのです。おかしいのは、神様と天使たちなのですよ)

 天使に心は必要ない。それが、神様の言い分。その意思の下で生まれた天使たちには思考能力が欠如しているから、神様の意見が正しいかどうか、判断することはできない。しかし、真冬にはそれができた。何故かはわからない。でも、それを後悔したことはなかった。異端だと言われようが、神様から見放されようが、真冬には確信があった。

(…あたしには、必要なのですよ。ナッちゃんと、ツグミンとの時間が)

 天国にはなかった、幸福。心を繋げるという行為。そこから派生する、愛情や友情。それらは、今の真冬には必要不可欠なものになっていた。

「――ナッちゃん。ナッちゃんには、あたしはどう見えてるですか?」

 不意の質問に、夏紀が眉をひそめる。

「は? 何だ、急に」

 訝しげに問う夏紀を真っすぐに見つめて、真冬は訊いた。

「あたしは、不幸に見えるですか? 生まれ変われなくて、可哀想だと思うですか?」

「……んなもん、決まってんだろ」

 夏紀はカップを置いて、ベッドに座る真冬を見下ろした。

 天井の蛍光灯の光が、彼の顔に影を落とす。しかし、そこには暗い感情は微塵もなくて、いつも通りにこちらを見つめる瞳に戸惑いは見えない。

「…不幸な奴が、あんなに楽しそうに笑えるもんかよ。アホなこと聞くんじゃねえ」

 ぐりぐりと、頭を押さえるようにして撫でてくる。そこに彼らしい不器用な優しさが垣間見えて、真冬は嬉しくなった。

「……そうなのですよ。あたしは、幸せなのです。これからも、ずっと、すーっと幸せであり続けるのですよ。だから、ナッちゃん。これからもよろしくなのです」

 見上げて笑いかけると、小馬鹿にしたような声が返ってきた。

「うわ、キモっ。お前がしおらしいとか、ありえねえ。何を企んでやがんだ?」

「――ナッちゃんは、もうちょっと空気を読む努力をしたほうがいいと思うのですよ…」

 ここは、ちょっと恥ずかしげにデレつつ「当然だろ」とか言うべき場面だったのに。すっかり肩すかしをくらった真冬が不満げに口をへの字にしていると、いきなり大きな音が響いた。夏紀の携帯電話からだ。

「…お、ツグミからだ」

 ちょっと声のトーンを上げて、電話に出る。その頬はやや上気していて、内心の喜びが顔に表れている。

(……むう。ナッちゃんは、露骨すぎるのですよ)

 ツグミと真冬への態度が百八十度違う。それは知っているし、慣れているが、いつもちょっとだけ面白くない。

(…そうだ! たまには、こらしめてやるですよ!)

 真冬は、そっと音を立てずに立ち上がり、部屋を出た。そして、台所の引き出しに収納されていたスティックシュガーを五本ほどつかんで、部屋に戻る。

(……むふふ。これをナッちゃんのコーヒーにぶちこんでやるのですよ!)

 夏紀は、母親のつくる激甘料理のせいで、甘い食べ物が極端に苦手になってしまった。それこそ、吐くほどに。

 苦かったはずのコーヒーが急に甘くなっていて、思わず噴き出す夏紀の姿を想像しながらスタンバイしていると、背後にただならぬ気配を感じた。

「…で、そのクソ甘い物体を、一体、どうするつもりなんだろうなあ?」

 スティックシュガーの袋を開けたところで動きをとめた真冬の背後から、低く囁く声がする。

「! ナ、ナッちゃん! で、電話は…?」

「終わった。で、真冬。それをどうする気なんだ、ああん?」

「――こ、これは、その…」

 振り返らなくてもわかる、殺気にも似た、この威圧感。

 じわりと、真冬の額に嫌な汗が滲む。

「……これは、さ、砂糖ではないのですよ。塩、そう、塩なのです!」

 苦し紛れに言い逃れしようとする真冬の腕を、夏紀の手がガシリとつかむ。

「へえ、塩ねえ。どう見ても、母さん愛用の激甘スティックシュガーに見えるんだが。オレの見間違いか?」

「…そ、そう、見間違いなのですよ! あたしが、ナッちゃんの嫌がることをするはずないじゃないですか! ナッちゃんが甘いもの食べたら吐くって知ってるですから、飲んだ途端、驚いて噴き出したら面白いなあとか、そんな意地悪なこと、微塵も考えてないのですよ!」

「…真冬。お前にぴったりな言葉を教えてやろう」

「な、何ですか?」

 真冬の手から砂糖の小袋を没収しつつ、夏紀が言う。

「語るに落ちる。――お前みたいに口数が多くて思慮に欠ける奴は、誤魔化してるつもりでも本音をポロッと出しちまうもんなんだよ」

「え、な、何のことですか?」

 ぎくりとする。そんなにマズイことを口走ってしまっただろうか。

 冷や汗の滲む真冬の白い耳を、夏紀が無言で引っ張った。しかも、両耳を左右に伸ばすように、思いきり力を込めて。

「ひゃっ、いたい、痛いのですよ、ナッちゃん! 耳が伸びちゃうのですよ!」

「伸びろ伸びろ! そんで、ちょっとは罪悪感を感じろ! お前、オレが本気で甘いの駄目だって知ってるだろうが! 塩くらいなら許してやらないでもねえが、砂糖はマジで生命にかかわるんだよ。母さんの料理で何度、死ぬ思いをしたことか!」

 そういえば、過去、三度ほど、夏紀は母親の料理が原因で救急車にお世話になったことがある。ただ甘いだけなら、まだいい。しかし、夏紀の母親は、料理下手にありがちな好奇心と冒険心に溢れていた。さすがの真冬ですら、あれはなかったと思う。一口どころか、ちょっと舐めただけで、舌が焼けつくような異様な味がするなんて、誰も想像しないだろう。魔女がつくった猛毒。まさに、そんな感じの料理だった。

「……この歳にして、一度ならず、三度も走馬灯を見たオレの気持ちになってみろ! 完全に、トラウマだよ!」

 ぐいぐいと耳を引っ張りながらの切実な訴えに、さすがの真冬も申し訳ないなと思い始めた。

「…ご、ごめんなのです。ちょっとした出来心って奴なのですよ」

「――わかりゃいい。今度やろうとしたら、その鼻を引き伸ばしてピノキオ鼻にしてやるからな」

 その言葉に、真冬は怯えた。

 ピノキオの物語は、小さい頃の夏紀がよく母親に絵本を読んでもらっていたので、怖いくらいリアルに記憶に残っている。嘘をつくたびに鼻が伸びていく様は、想像力豊かな真冬にとっては恐怖そのものだった。

「い、嫌なのですよ! あんな鼻になったら、泣いちゃうですよ!」

「だろう。それが嫌なら、やめろ。お前がピノキオ鼻になるのと同じ、いや、それ以上にオレは甘いものが嫌いなんだ!」

「そ、そんなに嫌だったですか!」

 それなら、耳を引っ張られても文句は言えない。泣きそうなほど嫌なことをされたのだから。

 すっかりしょんぼりしてしまう真冬の様子に、夏紀はそっと耳から手を離した。

「で、さっきの電話だけどな」

 気を取り直して、夏紀が話を始める。

「ツグミと話したんだが、お前、実体をなくすことはできねえのか?」

「え? うーん、そうですね。やりかたそのものがわからないですから、無理だと思うですよ」

 自動的に消えない以上、何かしらの対策を講じる必要があるのだろうが、その手段が思い浮かばない。いや、それ以前に、そんな方法があるかどうかも定かではない。

 夏紀は、ふむと小さく頷き、ある提案をした。

「…お前、夜の間はツグミの部屋に行け。あいつとは話つけてるから」

「? どうして、ツグミンの家に行くですか?」

 これまでそんなことを言われたことがないので、ちょっと驚いて訊くと、夏紀は思いきり顔をしかめた。そんなこともわからないのかと言いたげな目でこちらを見やり、

「世間体があるんだよ。実体がある以上、お前をオレの部屋に泊めるわけにはいかねえんだ。わかるだろ?」

「?? 実体があると、何かマズイのですか?」

 別に、邪な感情があるわけでもないのに、何をそんなに気にしているのか。

 まったく理解できない夏紀の提案を不思議がっていると、再び、携帯電話が鳴った。ツグミからだ。

「…おう、ツグミ。うん、今からそっちに連れてくから、あとは頼む。悪いな、面倒かけちまって」

 まるで子供を預ける父親みたいな口調でいくつか言葉を交わして、電話を切る。

「……やっぱり、ツグミンの家に行くですか?」

 真冬が訊くと、夏紀は携帯電話を机の上に置いて、振り返った。

「ああ。って、何で変な顔してんだよ? お前、好きだろ、ツグミの家」

「――…好きなのですよ。ナッちゃん家(ち)の次に」

 真冬としては、実体があろうがなかろうが、夏紀がこれまで通り一緒にいてくれると思い込んでいたので、いきなり、どこかへ行けと言われると、少なからず戸惑い、傷ついてしまう。

 たとえ、一時的だとしても――夏紀にその気がないとしても、お前はいらないと言われているような気がして、ちょっとばかり悲しくなる。

 不平たらたらの表情で黙り込む真冬の頭を、夏紀の手がくしゃりと撫でる。

「朝になりゃ、帰ってこられるんだから、別にいいだろ?」

「…それはそうなのですが」

 実体があるということは、いいこともあれば悪いこともある。他の人と話せるようになった代わりに、人間のルールに従わなくてはならない。

「……ナッちゃんとツグミンは、明日も学校なのです。ということは、あたしは、独りぼっちでお留守番するですか?」

「…まあ、姿を消せねえなら、仕方ねえだろ。お前、ウチの生徒じゃねえし、他に頼る当てもねえしな」

「だ、だったら、あたしも生徒になるですよ! そしたら、一緒に学校に行けるですし」

「アホか。子供みてえな我儘言ってんじゃねえ。オレも学校が終わったら、即帰ってきてやっから、光の欠片ってのを探してろよ。お前にとって、大事なんだろ?」

「………そんなの、言われなくても、わかってるですよ」

 光の欠片を探す重要性も、自分が夏紀やツグミみたいには生きられないことも――痛いくらいに、わかっている。しかし――。

(…ナッちゃんは、冷たいのですよ)

 当たり前のことを当たり前のように告げてもいいのは、こちらに精神的余裕があるときだけた。今の真冬にとっては、ちょっとしたことが嬉しくて、ちょっとしたことが悲しい。寂しくて仕方ない。情緒不安定、という奴かもしれない。

「…ふて腐れてねえで、さっさと行くぞ」

 夏紀は、ツグミに会う口実ができて、心なしか嬉しそうだ。声が不自然に浮ついている。

(――…何か、面白くないのです)

 真冬はムッとして、大きく動かせた翼で、浮かれている軽い頭を思いきりはたいてやった。

「ぶっ! お前、何しやがんだ!」

「…ナッちゃんが邪魔すぎて、羽が当たってしまっただけなのですよ。さ、ぱぱっと行くのですよ」

 バサバサと羽を動かせて、先に部屋を出る。

「…んだよ、機嫌悪ィな」

 ぶつぶつ言いながら、夏紀があとに続く。

「あらあ、真冬ちゃん! もう、帰っちゃうの?」

 すっかり真冬ファンになったらしい母親の声を遮り、夏紀は真冬を促した。

「ほら、さっさと行くぞ」

「…ナッちゃんは威張りんぼなのです」

 文句を垂れる真冬を無視して、夏紀は、鼻歌まじりに靴を履いて外に出た。それに続いて外に出た真冬は、隣家の門扉の前で佇むツグミの姿を見つけた。

「あ、真冬ちゃん!」

 彼女は、こちらに気づいて小走りで駆け寄ってくる。

「何か、いろいろ大変だったね。夏紀に聞いてると思うけど、これからは、夜の間はウチに泊まってね。あ、遠慮はしないでいいからね? 両親はちゃんと説得済みだし、私も、女同士、お喋りしたいし」

 にこにこと嬉しそうに微笑むツグミは、いつも通り優しい。しかし、真冬にしてみれば、何の気休めにもならない。

 思えば、夏紀と出会ってから、一人で他人の家に泊まるなんて経験はなかった。プチ家出をしたときも、夏紀の就寝時間には仲直りしていたから、初めて離れ離れに過ごす夜が妙に怖い。

(……何だか、不安なのですよ)

 このまま、夏紀とお別れになってしまうような気がして。もちろん、そんなのは気のせいだとわかっているのだが――今日は、いろんなことが起きすぎて疲れているのかもしれない。

 しかし、そんな真冬の微妙な心の変化に気づかない夏紀は、声を弾ませてツグミと話している。

 その様子を、どこか蚊帳の外みたいな気分で見つめていたら、話が終わったのか、ツグミがぎゅっと手を握ってきた。じわりと伝わる温もりが、ほんの少しだけ真冬の不安を消してくれる。

「それじゃ、真冬ちゃん、行こっか」

 慈愛に満ちた眼差しに、真冬は無意識に頷いた。

「……はいなのです。これからお世話になるですよ、ツグミン」

「こちらこそ、よろしくね」

 明るい声で言って、ツグミが手を引いてくれる。子供みたいに彼女について行きながら、夏紀のほうを振り返ると、小さく手を振ってくれた。

「んじゃ、迷惑はかけんなよ。また、明日な」

「――…明日…」

 何だか、遠い響きだ。

 永遠にその日がこないような気がして、真冬は何も言えなかった。

 夏紀は、真冬らしからぬ反応を気にしながらも、自宅へと戻っていった。そのドアの閉まる音を聞いた途端、何故か、少しだけ胸の辺りがざわついた。

「真冬ちゃん、どうしたの?」

 その声に、真冬は首を傾げた。

「…どうもしないのですよ。たぶん、何でもないのです」

 よくわからないまま、ツグミと繋いでいないほうの手で、胸の辺りをさすってみた。すると、それだけで違和感がなくなった。

「やっぱり、何でもなかったのです」

「そう? じゃ、とりあえず、私の部屋に行こっか。着替えの服とか、いろいろ考えなきゃいけないし」

 呟いたツグミは、真冬を見て、思い出したように訊いてきた。

「そういえば、その羽。自分で小さくしたりできないの?」

「小さく? そんなの、できないですよ」

 そもそも、この翼は移動のために必要不可欠なもので、人間にとっての足と同じ役目があるのだ。人間が足の長さを操れないのと同じで、天使にも羽の大きさを変えることはできない。

 そう思っていたのだが――何を思ってか、ツグミがそっと手を伸ばして、翼に触れた。その瞬間、

「……えっ?」

 しゅんっと風を切る音がして、浮力が消える。咄嗟にツグミにつかまって、何とか転ぶことはなかったが――ひんやりとしたアスファルトが、素足に触れた。

「…え、ええっ? は、羽が消えたですよ!?」

 背中に手を回してみるが、これまであった場所に翼の感触はない。慌てる真冬に、ツグミは静かに微笑んだ。

「消えたわけじゃないよ、一時的に小さくなっただけ。二時間もすれば、自動的に戻っちゃうわ。ほら、触ってみて?」

 ツグミが言って、真冬の手を背中へと導いた。

「た、確かに、何かあるです。え、でも、これって――ツグミン、どうやったですか?」

 天使の真冬ですら、こんなことができるなんて知らなかった。しかし、ツグミは、迷うことなく、それをやってみせた。まるで、最初から羽の仕組みを知っていたみたいに。

 不思議がる真冬の視線に微笑みを返し、ツグミは言った。

「とりあえず、家に入ろうよ。話は、それからってことでいいよね?」

「……い、いいのですよ」

 にこにこと、不気味なほど静かな笑みを浮かべたまま、ツグミは自分の部屋へ真冬をつれていった。途中で、ツグミの両親に会って挨拶したが、夏紀の両親ほどのリアクションはなかった。

「…で、ツグミン。どうやって、翼を小さくしたですか? 何で、そんなことができるですか? もしかして、他に天使の知り合いがいたりするですか?」

 部屋に入るなり、鼻息荒く身を乗り出して訊く真冬に、彼女は考えるような仕草をしてみせた。頬に手を当て、視界の斜め上辺りを眺めつつ、

「真冬ちゃんの他に天使の知り合いなんていないけど――強いて言うなら、私自身がそうだったから、かな?」

「?? どういう意味ですか?」

 ツグミは、柔らかなクッションを胸に抱き、毛足の長いラグに体育座りをする。

「――だからね、天使だった頃のことを覚えてるってことよ」

「…覚えてる、ですか? 本当に、そんなことがあるですか?」

 信じられない。半信半疑で、ツグミの隣に座る。

「……で、でも、そんな話、聞いたことがないのですよ。ナッちゃんだって、きっと、知らないですよ?」

「そりゃ、教えてないもの」

 二人だけの秘密だよ、とツグミが囁く。

 しかし、真冬は納得できない。友達だと思っていたのに、そんな大事なことを黙っていたなんて、何だかショックだ。

「せめて、あたしには言ってほしかったのですよ。ツグミンが天使について知ってるってわかってたら、もっといろんなことを話せたですのに」

「………うん、ごめんね」

 でも、とツグミは、クッションを大事そうに抱き締める。その横顔は、これまで見たことがないくらい辛そうだった。

「…本当はね、できれば、言いたくなかったんだよ。真冬ちゃんが堕天しなければ、私だって、こんな話したくないし」

「? あたしが堕天するのと、ツグミンが天使の記憶を持ってるのとは関係ないのですよ。どうして、急に話す気になったですか?」

 もっと早くに言ってくれていたら――そう思って、真冬は気づいた。

(……言ってくれたとしても、きっと、何も変わっていなかったのですよ)

 天国と天使が嫌いな真冬にとっては、むしろ、知らないままのほうがよかったかもしれない。何も知らないから、こんなに親しくなれた、とも考えられるからだ。

 しかし、ツグミは言う。真冬を真っすぐに見つめて。

「…真冬ちゃんは、堕天することがどういうことなのか、本当の意味で理解してない。だから、教えなきゃって思ったの。堕天した天使の末路を」

「――…末路?」

 随分と仰々しい言いかただ。真冬は、漂い始めたピンとした緊張感に、思わず背筋を正した。

「…私は、天使だった頃、真冬ちゃんと同じように堕天したの。そのときは、ただ、人間界を満喫できればいいって思ったわ。消えてしまっても、それで構わないって。でもね、違ったの。そうじゃなかったの」

 ツグミが、クッションを抱く指先に力を込める。それだけで、これから話すことがどれだけ重く苦しいことなのか、伝わってきた。

「…堕天した天使も、転生できるの。ただ、他の天使たちが生まれ変わるのとは、全然違う。心がね、なくなるの。人間になった途端、何もかもが、真っ白になっちゃうんだよ」

「…真っ白に、ですか? でも、生まれてすぐの人間は、心が真っ白だと聞くですよ。それから、いろんなことを学んで、人間らしくなっていくですよ」

 そこまで言って、真冬は気づいた。こちらを見つめるツグミの瞳が、いつもとは違うことを。

「――…ツグミン。目が…」

 今のツグミには、表情がない。感情の欠片さえ、どこにも見当たらない。まるで、天国にいた天使のように、空っぽだった。

「……これが、本当の私。何をやっても、どんなことが起きても、何も感じない。でも、これじゃ、人間らしくないでしょう? だからね、いつも、観察してるの。夏紀とか、周りの子とか。本だって、たくさん読んだわ。少しでも、人間らしく振る舞えるように。浮いてしまわないように」

 そう言って、まばたきをした彼女は、いつもの愛らしく優しい少女の顔に戻っていた。

「…天使には心がない。感情がない。それには、ちゃんと理由があるんだって知ってる?」

「――理由、ですか?」

「ええ。天国にいる間に心の器を空っぽにしておかないと、生まれ変わったときに人間らしい感情を詰め込めなくなって、心そのものが壊れてしまうの。つまり――空気を入れすぎた風船と同じ。生まれ変わって得られるたくさんの感情や記憶を収めきれずに、容量オーバーになって――心そのものが破裂して、消えてしまうのよ。そう、今の私みたいにね」

「――で、でも、そんなの……」

 真冬は、想像もしていなかったツグミの告白に、言葉を失った。

 そもそも、感情豊かな真冬には、心を失う辛さはわからない。でも、失うことの恐怖は想像できた。

 大好きな人と一緒にいても、心を通わせることができなくなる。誰ともわかりあえず、誰とも触れ合えない。

 それはつまり、生きながら死んでいるのと同じではないのか――?

 不安に表情を曇らせる真冬の頬に触れ、ツグミは言う。

「……私、真冬ちゃんには、絶対にこんなふうになってほしくないの。だから、消えそうになったら――ううん、できるだけ早く、天国に帰ってほしいって思ってる。そうすれば、生まれ変わって、また、夏紀と会えるかもしれないから」

「――…でも、会えないかもしれないのですよ。第一、ナッちゃんは薄情ですから、会ったとしても気づかないですよ」

「そんなことないわ。縁があるから、真冬ちゃんは夏紀と出会ったの。私とだって、そう。私ね、真冬ちゃんがいてくれたから、いろいろ頑張ろうって思えたのよ」

 心がなくて、みんなと同じように笑ったり泣いたりできなかった頃、ツグミはひどく悩んでいたのだという。いや、悩むというよりは、恐怖を感じていたといったほうがいいかもしれない。

「…他の子と違うっていうことが、それだけでとても大きな罪のように思えたの。だから、頑張って周囲に合わせて表情を変えて――本当に大変だったわ。でも、真冬ちゃんは言ってくれたの。こんな私に」

「…あたし、何を言ったですか?」

 いまいち、記憶に残っていない。

 きょとんとしている真冬を見つめ、ツグミは微笑んだ。

「好きだって。私のこと、好きだって言ってくれたの」

「? そんなの、ナッちゃんだって言ってるですよ」

 それに苦笑いを返して、ツグミは言う。

「…うん。でもね、私は、他でもない真冬ちゃんに言ってほしかったの。天使の真冬ちゃんに、このままでも大丈夫だって、そう言ってほしかったから」

「……そんなの、いつでも言ってあげるですよ?」

 その一言が、どれだけツグミに影響を与えたかなんて、真冬にはわからない。自分では、言ったことさえ忘れていたくらいだ。

 不思議そうにツグミを見つめていると、彼女は少しだけ冷めた目で呟いた。

「…私、すごく後悔してた。どうして、堕天なんかしたんだって。こんなことになるなら、変な意地とか張らないで、天国に帰ればよかったって。でも、後悔したって、遅いでしょう? もう、どうにもならないことだし、自業自得だから、誰も責められないし。だから、ずっと自分を責めてた。私は、私のことが大嫌いだった。消えてしまえたらどんなにいいかって思ってた。そんなとき、真冬ちゃんが言ってくれたの。こんな私のことを、好きだって」

 その言葉は、暗闇を切り裂くようにして、ツグミの心に光を与えたのだという。

「…そのとき、許された気がしたの。神様から――ううん、昔の天使だった頃の自分から、もう自分を責めなくてもいいよって言われたみたいに」

「――ツグミンを許せるのは、いつだってツグミン自身なのですよ。あたしの言葉なんて、ただのきっかけにすぎないのです。ツグミンは、本当は、自分のことを好きになりたいって心のどこかで思ってたはずなのですよ」

「…そうかもしれない。でも、真冬ちゃんがいてくれたから、そんなふうに思えたの」

 そういうものですかねえと、真冬は納得のいかないような表情になる。

(……確かに、ツグミンはときどき、違和感があるですが…)

 でも、そこまで思い詰めるほど情のない人間だと思ったことはない。

 真冬からしてみれば、ツグミは、多少の問題は抱えていたとしても、充分に愛されるべき人物で、夏紀が好きになるのも理解できるくらい魅力的な女の子だと思う。

 心がないと嘆く彼女は、今も、静かに、優しい瞳でこちらを見ている。それが演技かどうかなんて疑うべくもない。

「…ツグミンには、ちゃんと心があるですよ」

 真冬の穏やかな声に、ツグミが少し不安げに目を伏せた。

「――そういうふうに見せてるだけよ」

 すべてが、演技。

 何もかもが、嘘っぱち。

 そう呟くツグミの頬に、そっと触れてみる。静に触れた指先で、彼女のかすかな震えが伝わってきて、抱える悩みの深刻さを察することができた。

「…それじゃ、訊くですが――ツグミンが自分の秘密を喋ってくれたのは、どうしてなのですか?」

「……え?」

 ツグミの瞳が、真冬を見つめる。

「自分みたいに辛い思いはさせたくないって思ったから、本当は言いたくないのに、教えてくれたですよね?」

 確認するように訊くと、彼女は、真冬の真意を探るような目つきで小さく頷いた。

「…うん、そうだよ。真冬ちゃんが私と同じ目に遭うのは、嫌だもの」

「どうして嫌なのですか?」

「……どうしてって」

 ツグミが、言葉に詰まる。どう説明していいのか、うまく頭のなかが整理できないといった表情で、うつむく。

 すると、真冬がツグミの頬から手を離し、代弁するように口を開いた。

「…ツグミンは、あたしに後悔するようなことをしてほしくないのです。あたしのことを、本気で考えてくれてるのです。大事にしたいと思ってくれてるのです。その優しさは、ツグミン自身の心から生まれたですよ。決して、演技なんかじゃないのです」

「――…演技じゃない?」

 ツグミが、茫然とする。幽霊でも見たような瞳で、こちらを見つめてくる。

 それはそうだろう。彼女にとっては、いつ、どんな表情を浮かべ、どのタイミングでその場に応じた適切な言葉を放つか、常に考えて行動しているのだ。物心ついたときからずっと繰り返してきた行為だからこそ、もはや、演技をしている自分のほうが本物になりつつある。そういう感覚で生きてきたのだ。

「…そんなことないわ。友達が困ってたら、心配して当然じゃない。そうしないと、みんな、不審がるもの。冷たいって非難されるわ。だから」

「――そうじゃないのですよ、ツグミン」

 真冬は、ちょこんとベッドに正座する。

 その振動で、かすかにベッドが軋む。

「……誰かのことを思う。真剣に、考える。そのときに、心って奴は生まれるのですよ」

「…でも、それすら演技なのだとしたら、心とは呼べないわ」

 ツグミはどこまでも頑なに否定する。自分に心があるかどうか。彼女にとっては、何よりも重要で――しかし、それは、すでに解答の用意された問題だった。

「…私には、心なんてない。本当は、真冬ちゃんのことだって、何とも思ってないのかもしれない。ただ、薄情だと言われたくないから、そうしてるだけなのよ」

「じゃあ、ツグミンは、誰に、薄情だと思われたくないのですか?」

 真冬の鋭い指摘に、ツグミははっとする。

「…誰って……それは…」

 呟いたきり、黙り込む。どうやら、そこまで考えたことはなかったらしい。

 真冬は、唇を結んだツグミを追いつめるでもなく、柔らかな笑みを浮かべた。

「…好きな人に嫌われたくない。そんなふうに思うのは、とても人間らしい感情だと思うのですよ。あたしだって、ナッちゃんやツグミンに嫌われたら、とても悲しいのです。考えるだけで、泣きたくなっちゃうのです。ね、ツグミン。考えてみたら、おかしいと思わないですか?」

 天使は心を――感情を持たないはずなのに、何故、真冬のような堕天使が存在するのか。心を持つのが当たり前の人間・ツグミが、何故、それを失ってしまったのか。神様は万能なはずなのに、どうして、そんな理不尽なことが起きるのか。

 今の真冬には、その理由が、漠然とわかったような気がした。

「…もしかすると、この出会いは、最初から仕組まれていたのかもしれないと、あたしは思うですよ」

 天使である真冬と、天使だった頃の記憶を持つツグミ。似ているようで、まるで違う存在。そんな二人が偶然出会い、親しくなるなんて、奇跡的な確率ではないだろうか。

 それに何より――ツグミの話を聞いて、真冬は堕天の真の意味を知ることができた。その事実は、真冬の心に多大な影響を与えた。

 つまり、二人は、互いに強く影響を与え合う関係であり、また、互いを理解できる無二の存在でもあった、ということになる。

「…正直、ツグミンの話を聞くまで、あたしは、このまま消えてしまってもいいと思ってたのですよ。ナッちゃんやツグミンとお別れなんて、絶対に嫌なのです。冗談じゃないのです。今さら帰れだなんて、あまりにもひどいのです。だから、あたしは帰りたくなかったのですよ」

 生まれ変わっても二人に会えないのなら、ここで消えてしまっても同じことだ。それならば、一分、いや、一秒でも長く傍にいたいと、そう思っていた。しかし――今なら、はっきりとわかる。

 夏紀が、本気で怒った理由。ツグミが、心配してくれた理由。そこには、確かな絆と愛情があるということが。

「…二人とも、あたしのことをちゃんと考えてくれてるのです。あたし自身よりもずっと、本気で、大事に想ってくれてるのです」

 真冬は、思う。相手を思いやる気持ちから、友情や愛情が生まれるのだろうと。そして、それは、人間ならば誰もが持ち得る心そのものなのだと。

 真冬は、目を閉じて、優しい声で歌うように囁く。

「…あたしは、いつでも感じてたですよ。ナッちゃんとツグミンの優しい気持ち。ナッちゃんはいつでも意地悪ですが、それでも、あたしを本気で嫌ったりはしなかったのです。ツグミンは――…あたしから見たツグミンは、いつだって優しかったのです。ナッちゃんにちょっとだけ意地悪なのは、ツグミンにとってナッちゃんは特別だからなのですよね」

「…夏紀が特別? どうしてそう思うの?」

 きょとんとするツグミを見つめ、真冬は肩をすくめた。

「……ナッちゃんといるときのツグミンは、とても楽しそうなのです。キラキラして見えるのです。だから、ナッちゃんは他の人とは違うってことなのですよ」

「――そう、なの…? よくわからないけど」

 ツグミが、愛らしく首を傾げてみせる。それをちょっと不満げに見やり、真冬は溜息をついた。

「…無意識って奴ですか。ホントに、面倒なのですね」

「? 何で怒ってるの、真冬ちゃん」

「――別に怒ってないのですよ」

 ツグミの疑問には答えず、真冬は話を戻した。

「…とにかく、あたしは約束するですよ。ツグミンの言う通り、消える前に絶対に天国に帰るのです。でも…ツグミンにも約束してほしいのですよ」

「……約束? いいけど…何?」

 何となくツグミも正座して、真冬の正面に座り直す。

 女同士、膝を突き合わせるようにして見つめ合う。

「……さっきの話、ナッちゃんに話すって、約束してほしいのです」

「…さっきのって……私に心がないって話? でも、それは」

 二人の秘密だと言いかけた彼女より早く、真冬が言葉を放つ。

「…ナッちゃんにだけは、きちんと話すですよ。あたしがいなくなったら――そしたら、ツグミンは独りぼっちでまた悩むことになっちゃうじゃないですか。そんなのは、嫌なのですよ。寂しい顔はツグミンには似合わないのです」

「――でも、そんなこと話したって何にも変わらないわ。むしろ、心配させるだけだし、迷惑かけるだけだもの」

 逃げ道をつくるようなツグミのか細い声を、真冬は強い口調で蹴散らした。

「迷惑も面倒も、どんとこいなのですよ! ナッちゃんは、昔も今もこれからも、ずーっとツグミンの一番の味方なのです。ツグミンのためなら、火のなか水のなか、喜んで飛び込む恋愛中毒野郎なのですよ。ですから――ツグミンは、もっとナッちゃんを頼るがいいのです。もっと、いっぱい、困らせてやるがいいのです。そうやって男は大きくなるのですからね!」

「……そういうものなの?」

 ツグミは呟き、小さく笑った。

「……ふふ、男の子は大変ね」

「男は惚れた女を守れてナンボなのです! それができない奴は、男じゃないのですよ!」

 胸を張り、ふんっと鼻息荒く言い切った真冬の様子がおかしかったのか、ツグミはしばらくの間、くすくすと笑っていた。

 そのいつもの様子にホッとしつつ、真冬が言う。

「――ツグミン。ナッちゃんのこと、お願いするのですよ。あたしがいないと、寂しくて泣いちゃうかもしれないですから、慰めてやってほしいのです」

「………そうね。ずっと一緒にいたんだもんね」

 正座を崩して、ツグミが真冬の手に触れる。きゅっと、励ますように、存在を確かめるように握りしめ、

「…うん。約束するわ、真冬ちゃん。夏紀にだけは、ちゃんと話すから。もう、独りで悩まない。真冬ちゃんの心配するようなことにはならないから」

「――なら、いいのです。ね、ツグミン。今まで知らなかったですが、人間の手というのは、本当にポカポカと温かいのですね」

 細くて、白くて、頼りなげで。それなのに、伝わる体温は熱いほどで。

 それは、ツグミにとっても同じらしかった。

「…うん。真冬ちゃんの手も温かいよ。本当に生きてるみたい。ねえ、真冬ちゃん。いつか人間に生まれ変わったら――また、こうやって手を繋ごうね。それで、カフェでお喋りしたり、スイーツ食べ放題とか行くの」

「じゃあ、ナッちゃんは一人寂しくお留守番なのですね。アンチ甘党が、いい気味なのです!」

「ふふ、そうね」

 ツグミは囁くように呟き、どこか吹っ切れたような明るい瞳で真冬を見つめた。

「…あのね。私、ちゃんと考えてみようと思うの。ううん、そうじゃなくて……信じてみてもいいかなって思うの。私にも、真冬ちゃんみたいに誰かを思う気持ちがあるってこと。ほんの少しでも…ちょっとだけでもいいから、心が生まれてるかもしれないって」

「かもじゃなくて、絶対なのですよ。あたしが保証するのですから、自信を持つがいいのです!」

「ふふ、そうね。うん、絶対、だね」

 まったりとした空気が流れるなか、ふとツグミが思い出したように口を開いた。

「…あ、そういえば、真冬ちゃん。天国へ帰るための、あの光の玉なんだけど」

「玉? ああ、そういえば、そんなのがあったですね」

 脳裏にそれを思い浮かべて――真冬は、さっと青ざめた。

「ど、どどどどどうしましょう、ツグミン! あたし、あんなのいらないって、ポポイと捨てちゃったですよっっ!」

 どこに捨てたのかすら思い出せないため、探しようがない。しかし、あれがなければ、帰れずに堕天したまま転生することになってしまう。

「うわああんっ、ど、どうするですか、あたしぃぃぃ!」

 成す術もなくベッドの上で身悶えていると、ツグミがつんつんと肩をつついた。

「…真冬ちゃん、真冬ちゃん。安心して。ちゃんと夏紀に渡してあるから」

「え、え、え。ナッちゃんが持ってるですか、何で――?」

 思いがけない展開に、思考が一時停止する。

 間の抜けた表情でベッドに寝転がっていると、ツグミが上から覗き込んできた。

「夏紀に預けておけば、ちゃんとお別れの挨拶ができるでしょう?」

「――え?」

「…真冬ちゃんのことだから、いなくなるときは、何も言わずに行ってしまいそうだなって思ったから」

「……だから、ナッちゃんに渡したですか?」

 ぽかんとする。まさか、ツグミがそこまでするとは思わなかったからだ。

(――…ツグミンは、ときどき鋭いのです…)

 お別れなんて、ドラマとか漫画とかでしか見たことがない。しかも、九十パーセント以上の確率で、泣いてお別れすることになる。

(……泣いてサヨナラだけは、絶対に嫌なのです)

 たとえ、それが新しい未来に繋がるのだとしても。

 最後に見るのが泣き顔なんて、お互いに辛すぎる。かといって、笑ってお別れする自信なんてない。だから、そのときがきたら、夏紀には何も言わずに別れるつもりだった。

(……だって、考えたことがなかったのですよ。こんな日が来るなんてことは)

 もちろん、平和な日々がいつまでも続くなんて楽観視していたわけではない。しかし、こんなにも急に、ろくに悩んだり考えたりする暇もなく訪れるとは思っていなかった。

「…真冬ちゃん。お別れしても、ほんの少しの間だけだよ。絶対に、また会えるから。だって、私たちの絆は、ちょっとやそっとで切れるようなものじゃないでしょう?」

「――わかってるですよ。でも、生まれ変わったら、あたしは、きっと忘れてしまうのですよ。ナッちゃんのことも、ツグミンのことも」

 天国に戻るということは、天使には不必要な感情の伴った記憶そのものが消え失せるということ。つまり、ツグミや夏紀に対する気持ちのすべてが消えてしまって、何もなくなるということだ。

 また出会うことができても、再会の喜びを感じないかもしれない。

 一緒にいても、同じ気持ちを共有できないかもしれない。

 今以上に楽しくて嬉しい時間は、きっともう、永遠に訪れないだろう。

 それがわかっていても、終止符を打たなければならないのだとしたら、そのときは――。

「……あたしは、泣いてサヨナラは嫌なのです。でも、笑ってお別れもできそうにないのですよ。だから、笑顔はまた会ったときに取っとくことにするのですよ」

「うん。絶対に、どこにいても見つけ出してみせるわ。真冬ちゃんが忘れちゃっても、私がおばあちゃんになってても、必ず」

「……お願いするのですよ、ツグミン。ナッちゃんは、いまいち当てにならないですから」

「そうね。夏紀は、ちょっとぼんやりしてるから」

「そうなのです。しっかりしてるつもりでも、結構なうっかり屋さんですからね。そういえば、この間もこんなことがあったですよ!」

 真冬は、いつもの調子で弾丸のように喋り続けた。他愛無い世間話、明日のカレーづくりを楽しみにしていること、等々。ハイテンションな真冬の話に、ツグミは笑顔で相槌を打ちながら――…深夜遅くまで、少女二人は眠い眼を擦りつつ、ガールズトークを楽しんだのだった。


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