13
「おいコウタ!! いい加減にしなさいよ!! 貴様、私のことなんだと思ってるのよ!!」
ギルドの片隅、銅貨三枚で買った安酒の一杯すら分け合えない極貧のテーブルで、カナがトングを激しく振り回して咆哮した。
周囲の冒険者たちは「ああ、また始まったか」と、もはやBGM程度の扱いで聞き流している。
「一国の主になって、世界中の金をかき集めて、黄金の寝室まで用意してあげたじゃない!! なのに……っ、なのに貴様、一度として私になびかないじゃない!! 常にシェルターに引きこもって、数字とタイパのことばっかり!!」
カナの瞳には、怒りと、それ以上に「構ってほしい」という情念が、ドロドロとした泥溜まりのように渦巻いている。
「……あ、いっす。……なびくも何も、カナさんの『愛』の出力が、国家予算並みの高電圧なんっすよ。……正面から受け止めたら、俺の精神がバグって蒸発するっす。……だからシェルターで絶縁してただけっすよ」
コウタは、ひしゃげたトングを器用に真っ直ぐに直しながら、感情の起伏が一切感じられない声で淡々と返した。
「言い訳よ!! 貴様、本当は私のこと、ただの『便利な重機』か何かだと思ってるんでしょ!! 寂しくて土を掘る私の背中を見て、あいつ効率いいっすね、なんて思ってたんでしょ!!」
「……あ、……。……それは、否定しないっす。……カナさんの無限のスタミナは、見てて惚れ惚れするくらい無駄がないっすから。……でも、それだけじゃないっすよ。……俺がなびいてないように見えるのは、カナさんが『覇王』として君臨しすぎてるせいっす」
「……え? ……それって、私が高嶺の花すぎて、手が出せないってこと? ……にししし! 認めなさいよコウタ、貴様、本当は私のことが眩しすぎて……」
「……いえ。……うるさすぎて、物理的に近づけないだけっす。……ほら、そんなこと吠えてる暇があるなら、この『ギルドの裏庭・全開墾依頼』を受けるっすよ。……今の俺たちの全財産じゃ、ジジイのパンの耳すら買えないっすから」
「……結局、また労働じゃないのぉぉぉぉ!!」
作業の途中
「……お、お腹が空いたわ……。……スタミナは無限でも、胃袋の虚無は埋まらないのよ……。……あ、これ……光ってるわ。……ジジイが隠してた、令和の新種パンかしら……。……もぐっ」
ギルドの厨房の隅。
カナは、ジジイが「魔導回路の廃材」を練り込んで放置していた試作パンを、理性をかなぐり捨てて丸呑みにした。
その瞬間、彼女の全身が淡い桜色のエフェクトに包まれ、激しい電子音と共に「再起動」がかかる。
「あ、コウタ。お疲れ様。いつも、私のわがままに付き合ってくれて、ありがとう。少し、お休みする?」
「…………え?」
厨房の入り口で、次の依頼書を手にしていたコウタの指が止まった。
そこには、泥まみれでトングを振り回す暴君の姿はなかった。
首に巻かれたボロ布(上着)を整え、潤んだ瞳で小首をかしげ、ひだまりのような微笑みを浮かべる「超絶癒やし系美少女」が立っていた。
「……ちょ、カナさん? ……何すか、その『有害な毒素が完全に抜けたような』綺麗な顔は。……タイパ悪すぎっす。……俺の心拍数が、予定外のオーバークロックを起こしてるっすよ」
コウタは動揺を隠せず、無機質な声を出すのが精一杯だった。
令和の戦士として、常に効率と殺伐とした現実に身を置いてきた彼は、慢性的な「精神疲労」を抱えている。
そんな彼にとって、今のカナから溢れ出す「絶対的な肯定感」と「柔らかい毒のなさ」は、防御貫通のクリティカルヒットだった。
「ふふ、そんなに難しい顔をしないで。……コウタは、頑張りすぎだよ。……ほら、お膝、貸してあげようか? ……それとも、私が何か……美味しいお茶でも淹れてあげようか?」
「…っす。……ドストライクっす。……勘弁してください、今のカナさんは……俺の理性の防火壁を、根こそぎ焼き払うレベルの兵器っす……」
コウタは顔を覆い、膝をついた。
いつもの「にししし!」という耳障りな高笑いがない。
理不尽な搾取も、無茶な建国宣言もない。
ただそこにいるだけで、荒んだ心が急速にデフラグされていくような、究極の「癒やし」。
それは、彼が人生で最も求めていた、しかしカナだけには絶対に期待していなかった「安らぎ」だった。
「……ねえ、コウタ。……大好きだよ」
「ああ……。ジジイ!! このパン、あと何個あるっすか!! 全財産の銅貨三枚、全部出すっすから、カナさんに一生これを食べさせ続けるっすよぉぉ!!」
「……コウタ、いつもありがとう。……私のために、あんなに一生懸命……。……ねえ、もしよかったら、私にマッサージさせてもらっていいかな?」
厨房の薄暗い灯りの下、カナの声は鈴の音のように澄んでいた。
いつもなら「跪きなさい!」とトングで突ついてくるはずの指先が、今は柔らかく、コウタの強張った肩にそっと触れる。
その温もりは、令和の荒波に揉まれ続けたコウタの防衛本能を、一瞬で無力化させるのに十分すぎた。
「……あ、……っす。……カナさん、それ……本気っすか。……俺の肩、営業回りとデバッグのしすぎで、岩より硬いっすよ。……カナさんの綺麗な手が、汚れるっす……」
「ふふ、そんなこと気にしないで。……コウタの頑張りは、私が一番よく知ってるから。……さあ、力を抜いて……。……いい子だね」
カナはコウタの背後に回り込むと、驚くほど丁寧に、かつ慈愛に満ちた手つきで揉み解し始めた。
無限のスタミナを持つ彼女の指圧は、正確にツボを捉え、蓄積された「精神的疲労」という名の老廃物を根こそぎ押し流していく。
普段の暴挙が嘘のような、至高の奉仕。
コウタの脳内では、快楽物質が異常な速度で分泌され、視界がピンク色のノイズで埋め尽くされていく。
「……あ、……あぁ……。……これ、バグっす……。……俺の理性、完全に……シャットダウンしたっす……。……カナさん、……あなた、本当は……女神だったんすね……」
「そうだよ、コウタ。……私は、あなたのための女神。……ずっと、こうしてあげたかったの。……いつも……隣にいてくれて、ありがとう」
カナは耳元で甘く囁き、コウタの首筋に顔を寄せた。
いつもは「泥と汗」の匂いがするはずの彼女から、今はジジイの光るパンの副作用か、清らかな花のような香りが漂っている。
コウタは蕩けた顔で、彼女の柔らかな膝の上に、そのまま意識を投げ出した。
冷徹なエリート家来が、一人の少女の「癒やし」の前に、完全に骨抜きにされた瞬間だった。
「……あ、いっす。……もう、建国なんて……どうでもいいっす……。……一生、このまま……この『癒やしの牢獄』で、カナさんに搾取されたいっす……」
「……コウタ、聞こえる? 眠っちゃったかな」
カナの指先が、コウタの耳裏からこめかみへと、熱を奪うように優しく滑る。
ジジイの光るパンがもたらした「癒やしモード」は、単なる性格の変化ではなかった。
それは、カナの奥底に澱んでいた「コウタへの巨大すぎる情念」から、攻撃性と傲慢さだけを濾過した、純度100%の「全肯定」の表出だった。
「いつも、私のせいでボロボロになっちゃって……ごめんね。でも、私はそんなコウタが世界で一番、愛おしいと思っているよ」
「……あ、……。……カナ、さん……。……それ、……反則っす……」
コウタは膝枕の柔らかさに抗えず、薄目を開けるのが精一杯だった。
普段の「にししし!」という嘲笑はない。
そこにあるのは、自分を全宇宙で最も価値のある存在として見つめる、慈愛に満ちた瞳。
令和の荒波で「お前は代わりがいる」「効率が悪い」と削られ続けたコウタの自尊心に、カナの重すぎる直球が、防護服の上からではなく「心臓」に直接叩き込まれる。
「世界中の人がコウタを『ただの便利な家来』だと言っても、私だけは知っているよ。コウタがどれだけ優しくて、どれだけ私のために無理をしてくれているか」
カナは身を屈め、コウタの額に自分の額をそっと重ねた。
吐息が触れ合う距離で、逃げ場のない「肯定」が降り注ぐ。
「ねえ、コウタ。何もしなくていいよ。賢くなくていい。タイパなんて考えなくていい。……ただ、私の隣で息をしていてくれるだけで、私はそれだけで、この世界に生まれてきて良かったって、心から思えるの」
「……っ、……あ、……あ……」
コウタの目から、不意に涙がこぼれた。
悲しいのではない。
あまりにも真っ直ぐな、重すぎるほどの愛に精神の「免疫」が完全に破壊され、心のデバッグが強制終了(強制泣き)させられたのだ。
効率、予算、建国、損得。
そんなガラクタのような思考が、カナの「全肯定」という猛毒(癒やし)の前に、跡形もなく溶けていく。
「大好きだよ、コウタ。宇宙で一番、大切だよ。……ねえ、もう一度言ってあげようか?」
「……あ、いっす……。……もう、……降参っす……。……俺、カナさんのためなら、本当に……地獄まで、……喜んで、……お供するっす……」
「……コウタ。いつも、本当にありがとう。……大好きだよ。……今夜はこのまま、一緒に……」
カナの甘い囁きが、静寂に包まれた厨房に溶けていく。
コウタは魂の芯まで蕩けきったまま、彼女の温もりに身を委ね、泥のように深い眠りに落ちた。
令和の戦士たちが求めて止まない、完璧な安らぎ。
二人の吐息が重なり合い、世界から毒気が消えた、奇跡のような夜だった。
「…………う、うううぅぅぅ…………っ!!」
翌朝。
ギルドの床で目が覚めたコウタの耳に飛び込んできたのは、天使の囁きではなく、野獣のような呻き声だった。
「う、うう……! ジジイぃぃ!! 貴様、なんだあのパンは!! ……腹が、……私の、覇王の聖なる腹がぁぁぁ!!」
そこには、腹を押さえてのたうち回る、いつもの泥まみれのカナがいた。
「癒やしモード」の輝きは霧散し、顔色は土色。
感動の再起動の代償は、あまりにも激しい物理的な「腹痛」となって彼女を襲っていた。
「……あ、……っす。……カナさん、おはようございます。……って、戻ってるっすね。……いつもの、……人をゴミのように扱う、……クソザコな主人の顔に」
コウタは体を起こし、まだ指先に残る「昨夜の柔らかい感触」を確かめるように拳を握りしめた。
脳内にはまだ、彼女の全肯定ストレートが残響している。
だが、目の前の現実は、トイレの場所を探してトングを杖代わりにガタガタと震える、ただのポンコツだ。
「な、なによその……っ、……汚いものを見るような目は!! 早く、……早く私を、……医者か、……トイレか、……あるいは宇宙の真理へ連れて行きなさいよ!! コウタぁぁ!!」
「……あ、いっす。……トイレはあっちっすよ。……てか、カナさん。……昨日のこと、覚えてないんすか? ……俺のこと『大好き』って、……マッサージしながら……」
「なっ、……ななな、何を、……何を寝ぼけたことを言ってるのよ!! 腹痛のショックで、貴様の腐った脳細胞が妄想を見せたのよ!! 私が、貴様に、……そんな、……はしたない……っ!! う、ううう……また波が来たわぁぁ!!」
カナは顔を真っ赤にして絶叫し、そのまま脱兎のごとくトイレへと爆走していった。
後に残されたのは、静まり返った厨房と、深刻な「癒やしロス」に陥ったコウタだけである。
「…………あ、いっす。……夢じゃないのは、俺の肩がまだ異常に軽いことで証明されてるっす。……あーあ、……タイパ悪すぎっすよ。……あんなの、一度味わったら……もう普通のご褒美じゃ満足できないっす……」
「うっす。……とりあえずカナさん、トイレからお帰りなさい。……で、昨日の『愛の告白』の続き、聞かせてもらってもいいっすか?」
コウタは、昨夜の甘美な記憶という名の「麻薬」を反芻しながら、無表情に問いかけた。
だが、トイレから青白い顔で戻ってきたカナは、トングをコウタの喉元に突きつけ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「なっ……! 貴様、まだそんな寝言を言っているの!? 私が『大好き』だの『マッサージ』だの、そんな軟弱なことを言うはずがないでしょ!!」
カナは、恥ずかしさのあまり逆ギレという名の「防衛システム」をフル稼働させていた。
しかし、その瞳には一瞬だけ、戸惑いの色が浮かぶ。
「というか、なんなのよ昨日から!! 貴様こそ、いつもの『あ、いっす』みたいな冷めた態度はどこへ行ったのよ!! 『カナさんは俺の女神っす』とか言って、私の膝に縋り付いてベソベソ泣いてたじゃない!! 気持ち悪いわよスパダリ(自称)!!」
「…………は? ……誰が泣いたっすか。……泣いたのは、俺の愛に感動したカナさんの方っすよ。……俺、完璧にエスコートして、カナさんを最高に癒やしてあげたはずっす」
二人の言葉が、鋭く交差する。
ジジイの焼いた「認識改竄パン」。
それは、食べた者の記憶だけでなく、その場にいた者の「現実の認識」すらも、自分にとって都合の良い、あるいは最も願望に近い形へと歪めてしまう……あまりにも「やばい」代物だった。
「何を言っているの! 私がリーダーとして貴様を導き、迷える家来を抱きしめてあげたのよ!!」
「……いいえ。……俺がカナさんを甘やかして、依存させて、骨抜きにしたっす。……ログ(記憶)がそう言ってるっす」
「嘘よ!! 貴様が私に溺れてたのよ!!」
お互いに「自分が相手を完璧にリードし、癒やしてあげた」という、歪んだ全能感と幸福感。
それが、認識のズレとなって火花を散らす。
令和の戦士たちは、あまりにも「愛」に飢えていた。
ゆえに、パンがもたらした偽りの記憶を、本物よりも大切に守ろうとして、逆に険悪な空気へと陥っていく。
「……ふぉっふぉ。……認識改竄パンの効き目は、なかなかのようじゃな。……互いに『自分がスパダリだった』と思い込む……。……これこそが、平和な世界の……始まりなのじゃ……」
「ジジイ!! 余計なパッチを世界に当てないで!!」
それは、主従が互いに「昨日の自分は最高にイケていた」という偽りの記憶を盾に、真っ赤な顔で罵り合うという、史上最も「自意識過剰」で「やばい」痴話喧嘩の幕開けとなった。
「にししし! 面白いじゃない。そこまで言うなら、どちらが真の『スパダリ』か、白黒はっきりさせてあげるわ!! 私の圧倒的な抱擁力で、貴様を再び幼児退行させてやるんだから!!」
カナはギルドの模擬戦場の中央で、トングをまるでタクトのように振り回した。
対するコウタも、普段の死んだ魚のような目に、かつてない執念の光を宿している。
二人の周囲には、事の顛末を(生温かい目で)見守る冒険者たちが、野次馬として集まっていた。
「……あ、いっす。……望むところっす。……俺の、タイパを極めた究極の癒やしエスコートで、カナさんのその強情なツラを、再び蕩けきった『幸せなクソザコ』に変えてやるっすよ」
「「……いざ、尋常に!!」」
号令と共に、カナが地を蹴った。
向かう先はコウタの懐。
だが、その手にあるのは凶器ではなく、どこからか取り出した「最高級のふわふわタオル」である。
「まずはこれよ! 貴様のその、営業回りで汚れた顔を、私の慈愛で包み込んであげるわ!! ほら、大人しく拭かれなさい!!」
「……甘いっす。……その動き、見切ってるっす。……スッ」
コウタは神速の身のこなしでタオルを回避すると、逆にカナの背後に回り込み、彼女の首筋に冷んやりとした「魔導冷却シート(リフレッシュ用)」を貼り付けた。
「……あ、……っひゃん!? ……な、なによこれ、冷たくて気持ちいいじゃない……って、違うわよ!! 私は癒やされる側じゃない、癒やす側なのよ!!」
「……カナさん、声が上ずってるっすよ。……ほら、そのまま肩の力を抜くっす。……俺の指圧パッチが、今、全自動で筋肉のコリをデバッグしてるっすから……」
「くっ……! 貴様の指先、……なんでそんなに的確に『そこ』を突いてくるのよ……!! ……でも負けないわ! 王の愛を喰らいなさい!!」
カナは顔を真っ赤にしながら、今度はコウタの頭を強引に引き寄せ、自らの薄い(そして上着一枚の)胸元に抱きしめようと奮闘する。
傍から見れば、ただの「じゃれ合っているバかっプル」にしか見えないが、当人たちは文字通り「相手を幸せにする」という名の殺し合い(愛の搾取)に全力だ。
「……ひ、ひいいい……! 模擬戦場から、ピンク色の禍々しいオーラ(愛憎)が溢れ出してるよぉぉ!! 誰か、僕をこの『当てられ死』しそうな空間から助けてぇぇ!!」
観客席の端で、二人の「癒やし合戦」から放たれる精神的ダメージに、賢者が泡を吹いて倒れ込んでいる。
「……あ、いっす。……離さないっすよ、カナさん。……俺の指圧ホールド(愛)からは、どんな物理エンジンを使っても脱出不可能っす」
「離しなさいって言ってるのは貴様の方でしょ、コウタぁぁ!! 貴様こそ、私のこの『覇王の抱擁』に魂を抜かれて、一歩も動けなくなってるじゃない!!」
ギルドの模擬戦場の中央。
二人はもはや「どちらが相手を癒やしきれるか」という当初の目的を忘れ、互いの襟首や腰をガッチリと掴み合ったまま、至近距離で火花を散らしていた。
傍目には、激しくもつれ合う恋人たちの情熱的な抱擁にしか見えないが、その内実は「先に蕩けた方が負け」という意地の張り合いである。
「……ふぉっふぉ。……若者のエネルギーは、実に美味そうなパンの材料になるのう。……仕上げに、この『結婚行進曲が聞こえるウェディングパン』を投げ込むとしようかのう」
地獄の底から響くようなジジイの声と共に、純白のアイシングでデコレーションされた、どこか禍々しい輝きを放つパンが二人の間に投げ込まれた。
パンが地面に触れた瞬間、ギルド内に荘厳なパイプオルガンの音色が鳴り響き、二人の頭上に「祝・入籍」というホログラムが爆発した。
「……なっ!? ……な、なによこのBGMは!! 勝手に私の脳内でバージンロードを敷かないで!!」
「……あ、……っ。……やばいっす。……このパンから、強烈な『ハッピーエンドの強制力』を感じるっす。……カナさん、……今すぐ離れないと、……俺たちの戸籍が、物理的に統合されるっすよ!!」
コウタは焦って離れようとしたが、ウェディングパンの副作用で、二人の体は磁石のように引き寄せられ、さらに密着度を増していく。
カナの顔が、リンゴのように真っ赤に染まった。
「……コウタぁぁ!! 貴様、……さては最初からこれが狙いだったのね!? 私を、……この令和の覇王を、……貴様という名の『家庭』に閉じ込めるつもりでしょ!!」
「……違うっす!! 俺はただ、……効率的にカナさんをデバッグしようとしただけで……っ!! ……あ、……くそ、……この曲のせいで、……カナさんが、……いつもより一億倍くらい、……可愛く見えるっす……」
「……っ、……なっ、……ななな何を……!!そういえば!」
悪い笑みを浮かべるカナ。
「にししし! コウタ、諦めなさい! 私にはこれがあるもんね!!」
密着したまま離れない至近距離。
カナが勝ち誇った顔で、指先に魔力を灯した。
二人の間に、出会ったあの日と同じ、禍々しくも鮮やかな赤い魔法陣が展開される。
「契約魔法」の再発動。
それは家来を縛る鎖ではなく、逃げ場を失った二人の運命を、物理的に、そして概念的に「一蓮托生」へと上書きする、今日という日のための最終パッチだった。
「いい、今日は絶対に逃がさないわよ! 一生、私の隣で観客を続けなさい!! ……ていうか、こういうのは男が引っ張るもんでしょうが!!」
「……あ、いっす。俺も、もうとっくに諦めてるっすよ」
コウタは淡々と、けれど迷いのない手つきで、ポケットから一つの箱を取り出した。
カナの怒号を遮るように、彼は無言で彼女の左手を取り、その薬指に「それ」をねじ込む。
そこには、令和の価値観を数百年分飛び越えたような、物理法則を無視して輝くクソデカい宝石の指輪が鎮座していた。
「……なによこれ! 重っ!! 指が引きちぎれるじゃない、デカすぎよ!!」
「……あ、いっす。それ、サイバーパンクな国家予算をこっそり着服して買った特注品っす。カナさんの覇道には、これくらいの質量がないと釣り合わないっすから」
「フン……! しょうがないわね。……でも、重くて痛いから毎日はつけないんだからね! ……で、なんなのよ。これだけで終わり?」
カナは頬を真っ赤に染め、指輪の重みに耐えながらコウタを睨みつけた。
期待と、照れと、覇王としてのプライドが混ざり合った、最高に面倒くさい視線。
「……とりあえず、タイパ悪いんで。まずは恋人からでいっすか?」
「……あんた!! もっとロマンチックな告白をしなさいよ!! たとえ世界が敵になっても私だけが味方になるとか、あんたの一生を俺が幸せにするとか!! ……カナちゃん好きでたまらないから付き合ってください、とか! 色々あるでしょうが!!」
「……あ、いっす。……今、それ全部カナさんが自分で言っちゃったっすね。……ログに保存しとくっす」
「……っ、この……クソデバッグ家来ぃぃぃ!!」
カナがトングを振り上げ、コウタがそれを無表情に受け止めようとした、その時だった。
ウェディングパンの「BGM」が最高潮に達し、ギルドの出口の天井が物理的に歪んだ。
「――ゴツッ!!」
二人の脳天に、銀色の閃光が降り注ぐ。
巨大な「タライ」が二枚、完璧なシンクロ率で二人の頭を直撃した。
逃れられぬ不条理。
避けられぬ祝福。
意識が遠のく中、二人の脳内にはジジイの哄笑と、荘厳なパイプオルガンの音が響き渡る。
「……あ、……おぅ……ばーじん……ろーど……っす……」
タライの衝撃で白目を剥きながら、二人は重なり合ったまま床に沈んだ。
令和の建国。
それは、国家予算級の愛と、空から降る銀色の鉄槌が交差する、史上最も「痛くて幸せな」バージンロードの記録となった。
覇王の報酬
「にししし! 意識が戻ったようね、コウタ。……いい、あんたが今どれだけ幸福なバグの中にいるか、この私が直々に教えてあげるわ」
タライの衝撃で火花が散る視界の中、カナがコウタの胸ぐらを掴んで引き寄せた。
左手のクソデカい指輪が、彼女の細い指でギラリと重苦しい光を放っている。
「あんた、いつも効率だのタイパだのうるさいけれど……今この瞬間、あんたは人生最高の『最短ルート』を叩き出したのよ。いい? 私が彼女になったということは、覇王が彼女になったということなのよ!!」
カナは鼻の穴を膨らませ、宇宙の覇権を握ったかのような傲慢な笑みを浮かべた。
「世界を手に入れたも同然じゃない! 貴様はたった今、人類が数千年かけても到達できない『幸福の頂点』に、私の家来というショートカット(裏技)で辿り着いたのよ! これ以上のタイパがこの銀河に存在するかしら!!」
「…………あ、いっす。……知ってるっスよ」
コウタは視線を逸らさず、至近距離でカナの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
いつもの死んだ魚のような目ではない。
そこには、全てを計算し尽くした上での、諦めに似た深い確信が宿っていた。
「…………えっ」
カナの動きが、物理的にフリーズした。
勝利の凱歌を待ち構えていた彼女の脳内に、想定外の「全肯定」というエラーメッセージが流れる。
「……な、なによ。……知ってるって、……貴様、……何を……」
「だから、カナさんが世界で一番コスパもタイパも悪い『劇薬』だってことくらい、出会ったあの日からとっくに計算済みっス。……その上で、俺が今日までログを消さずに隣にいた理由、まだ分かってないんスか?」
コウタはため息をつき、カナの手を握り返すと、その重すぎる指輪の感触を確かめるように指を絡めた。
「……あ、いっす。……世界なんて、カナさんのわがまま一回分より軽いっスよ。……俺にとっては」
「…………っ、……あ、……う、……あ…………」
カナの顔面が、認識改竄パンの熱量すら凌駕する速度で沸騰した。
普段の「にしし!」という笑いはどこへやら、彼女は口をパクパクとさせながら、震える手で自分の顔を隠そうと奮闘する。
「……な、なななな、何を、……何をさらっと……!! 貴様、……さては、……令和の……令和のスパダリ(攻撃力特化)ね!! 卑怯よ、……私の心を、……勝手に書き換えないでよぉぉ!!」
「……あ、いっす。……書き換えも、ハックも、カナさんには一生通用しないって分かってるっす。……だから、俺がカナさんの全わがままを、一生隣で見届け続けるしかないんすよ」
コウタの静かな告白に、カナはもはや言葉を失い、真っ赤な顔でぶるぶると震えることしかできなかった。
覇道、搾取、君臨。
彼女が積み上げてきた全ての虚勢が、コウタの「揺るぎない覚悟」の中に優しく溶けていく。
「……も、……もういいわよ! 好きにしなさい!! ……でも、……絶対に私の後ろを歩くんじゃないわよ! ……私の隣で、……一生、……私の伝説を一番近くで見守り続けなさい!! 逃げたら、……地獄の果てまで追いかけてやるんだからぁぁ!!」
カナは恥ずかしさを誤魔化すように、コウタの手を力任せに握りしめた。
左指のクソデカい宝石が、夕暮れの街並みを、ありえないほど鮮やかに、けれど温かく照らし出している。
二人の頭上には、いまだにウェディングパンがもたらした祝福の光が淡く残り、周囲には幸せそうに眠るジジイや、遠くで二人を祝福する仲間たちの気配が漂っていた。
だが、今の二人にとって、世界はただ二人のためだけに用意された舞台に過ぎなかった。
「……あ、いっす。……了解っす。……じゃあ、とりあえず、……お腹空いたんで、パフェ食べに行きませんか。……もちろん、カナさんの奢りで」
「なっ……! 恋人になった初手で、王から搾取しようとするなんて、貴様、……本当に最高に生意気で、可愛いパートナーね!! にししし!! 行くわよ、コウタ!! 宇宙で一番美味しいパフェを、二人で食べ尽くすわよ!!」
高笑いを響かせながら、いつものように力強く地を蹴って歩き出すカナ。
その後ろを、コウタはいつものように、けれど少しだけ誇らしげに、彼女と繋いだ手のぬくもりを確かめながら追っていく。
二人の歩む道。
それは、一人の不器用な覇王と、彼女を誰よりも理解する補佐官が、手を取り合って未来へと踏み出した、最も騒がしくて、最も美しい旅路の始まり。
夕日の向こう側、二人の「バージンロード」は、これからも香ばしいパンの匂いと、絶えることのない笑い声と共に、どこまでも、どこまでも続いていく。




