05_平和のための行方不明
競売場から《リターン》を取り戻すのに、メルは船そのものを盗まなければならなかった。
出港操作は、差し押さえ封印で止まった。
「ハコ、解除して」
「できません。裁判所の正規封印です」
「船は私のものよ」
「その所有者の債務による差し押さえです」
解除申請の審理予定は三日後だった。貨物扉を叩く音が増えた。
メルは操舵席の下へ潜った。手動離床レバーにも、同じ番号の封印がある。工具を差し込み、腕の重さをかけた。封印が割れ、端末へ警報が出た。
「船長による封印毀損と、拘束対象の搬出を記録します」
「記録して」
ラーダも監査端末を向けていた。メルは止めなかった。
機関室からボグの声がした。左推進器を十三度から九度へ戻したという。
「まっすぐには?」
「戻さない」
映像が届いた。軸受けに裂け目が走っている。ボグが角度を詰めると、その口が広がった。
「九度で飛ばせ。これ以上は出先で直せる範囲じゃない」
メルは操舵の補正値を変えた。ボグは外したボルトを掌に載せて見ていた。
「予備は」
「ある。受ける側が割れてる」
画面の隅に、機関室の細い寝袋が見えた。壁には、四本の腕を伸ばした高さに工具の穴が開いている。メルが邪魔だと言った古い作業台も、そのままだった。
「次の港で何とかする」
ボグはボルトを工具箱へ入れず、割れた軸受けの隣へ置いた。
「次まで回す話をしてる」
メルは補正値をもう一度見た。ボグが映像を切るまで、発進操作をしなかった。
発進許可のないまま自由港を出て、宛先を失ったコンテナが漂う廃棄貨物帯で主電源を落とした。
ボグは機関室の寝袋を丸めていた。工具の穴が、一つずつ空いていく。
「あの採用通知、返事したの」
「した。クレーで降りるつもりだった」
「この状態で?」
ボグは下の二本の手を、加温布へくるんだ。冷えると、上の腕より先に指が開かなくなる。メルはそれを知っていた。冬の仕事では加熱器の近くを空けていた。
「温度が同じ部屋で寝たい。勤務が終わったら、呼ばれないところで」
メルは、船の修理が済めば、と言いかけた。
ボグは待っていた。答えが変わるまで待つつもりの顔ではなかった。
「未払いの給料は、請求して」
「もう出した」
暖房と重力は、交互にしか使えなかった。
暖房を入れると全員が浮き、重力を入れると息が白くなった。メルは毛布にくるまり、天井を床にして座った。向かいではオルバンが、かつて自分の肖像だった旗を防寒具にしている。
ラーダが〈帝位休止計画〉を読み上げた。
「冠戦争最後の総攻撃を停止させるため、皇帝は三十日間、指揮権行使不能の状態に置かれる。帝国軍は新規命令を受けられず、連盟は皇帝の引渡しを休戦条件から外す。保管場所はアウレリア地下。計画終了後、両陣営の協議により――」
そこで文が途切れていた。その下には延長承認が十一回並んでいる。三十日、三十日、また三十日。最後の欄だけ期限が空白だった。
「お前も署名したのか」とラーダがオルバンへ聞いた。
「した」
「知っていたのね」
「三十日と聞いていた」
「一年近く眠っていたことじゃない。平和のために自分を消す計画を」
「総攻撃を止めるには、それしかなかった。私が不在なら、軍は命令を待つ。連盟は私の処刑を求めず、休戦へ署名できた」
オルバンの声には、初めて聞く荒さがあった。
「私は平和のために閉じ込められたのだ」
ラーダは端末の別の記録を開いた。星系名と日付、損害数だけが並ぶ。
「ケレスの軌道爆撃。パルマの冠門封鎖。この輸送群への攻撃。命令書の署名は?」
オルバンは記録へ顔を近づけた。
「軍の補給線だ。ここを通せば、別の戦線で何人死んだか分からぬ」
「民間船がいました。私の家族も乗っていた」
「民間船を軍需輸送へ混ぜたのは誰だ。私が皇帝になる前から、五十年続いていた戦争だぞ。七十年分の死者を、一人の署名へ集めれば済むのか」
最後の言葉は、ラーダではなくメルへ向いていた。
メルは口を開かなかった。
ラーダが命令書を大きくした。署名欄が画面の中央に来た。
「この命令について聞いています。署名は、誰のものですか」
配管のなかで冷却液が鳴った。
「私だ」
ラーダはその二文字を記録した。別の欄へ進んだ指が、一度止まる。損害一覧の脇に小さな画像が開いたが、彼女はすぐ閉じ、文書だけを残した。
オルバンは肩の紫布を握った。
「いまの返答を訂正する」
ラーダが顔を上げた。
「私の即位以前に始まったことは、あの命令を出した答えにはならぬ」
その先を続けようとして、口を閉じた。メルは待った。ラーダも待った。オルバンは署名欄を指した。
「原本は棺にある。私の認証で開く」
「最初の発言も残します」
オルバンの顎がわずかに上がった。反論を飲み込むまで、少し時間がかかった。
「残せ」
「記録した」
ラーダは右肘を机につけ、固定した左手を膝へ載せていた。メルは暖房へ切り替えようとして、スイッチから手を戻した。
何か言おうとすると、ラーダが顔を向けた。メルが言いかけたのは、先へ進もう、という言葉だった。急ぐ理由はある。いま、この人へ言うことなのかは分からなかった。
メルは毛布の端を膝へ寄せた。
オルバンは目の前の食器を脇へ動かした。相手の端末を置く場所を空けたつもりらしかった。ラーダは手元から離さなかった。
しばらく、配管の音だけがしていた。
ラーダが端末を持ち直した。送信先は連盟の戦争犯罪予審局。添付欄に、輸送群への攻撃命令と、いまの聴取記録が並んだ。
メルは〈帝位休止計画〉の画面を見た。
「そっちは?」
「別件です」
送信済みの印が出た。ラーダは同じ画面を開いたまま待った。受領番号が返ると、その番号だけを別の欄へ写した。
「ソレルの署名もあるのに」
「この件まで止めたくない」
メルは返事を探した。ラーダは端末を伏せ、包帯の内側へ指を入れようとして、やめた。
ボグが棺の底から、結晶片の束と、三百二十七の光が回る黒い円盤を取り出した。
「王朝最終記録」とボグ。「鍵もある」
オルバンが身を寄せた。「分割前の中央権限鍵だ」
ボグが円盤の縁をなぞった。細い溝が、一つ一つの光を囲んでいた。
「もとから別々か」
「冠門ごとの鍵を、中央へ束ねてある。各地へ戻すための切離し溝だ。私の在位中に使われたことはない」
「遠隔では移せない?」とメル。
「複製不能だ。私の身体、意思、鍵の移動を、冠網は一続きで照合する」
「引渡し鎖です」とハコが言う。「当船の記録方式と互換性があります」
メルは円盤を棺へ戻そうとしたボグを止め、封印袋を差し出した。船から降りるとき、持ち忘れて済む荷物ではなかった。
ボグは円盤を裏返し、光の通らない側の継ぎ目を爪でなぞった。メルが袋を持ち直しても、手が離れない。
「ボグ、入れて」
彼は継ぎ目の写真を一枚撮ってから、結晶片と円盤を袋へ収めた。ハコが封印番号を読み、オルバンが受け取って腰へ留める。
袋の内側で、三百二十七の光が動いた。
棺は暫定運転終了の四十八時間前にオルバンを起こす設定だった。期限には民生門が閉じ、継続艦隊が起きる。その前に彼は集荷依頼を出した。
「船から命令すれば」とメル。
「一年近い不在で中央命令権は凍結されている。護衛や礼砲は本人の生体反応だけで動く。退位や移管は、アウレリアの冠中枢で再認証しなければ通らぬ」
ソレルから通信要求が入った。
メルは全員を見てから接続した。画面のソレルは、背後に休戦式典の準備を映していた。連盟と旧帝国の旗の間に、共同継続委員会の印がある。
『乗員から退避の要請が来ています。クレーの中立艇をそちらへ回した。あなたも乗れます、メル』
ボグの端末が鳴った。工具箱を提げ、寝袋を肩へかける。
「皇帝を渡すのが条件?」
『退避に条件はつけません。艇長はクレーの人間です。名簿を確認してください』
メルは名簿と行先を見た。クレー行き。採用者の迎えも兼ねていた。
ボグは貨物扉の前で待った。メルは開けた。
工具箱が敷居を越えるとき、蓋が一度だけ船体へ当たった。いつもは四本のどれかで受け止める音だった。ボグはそのまま渡っていった。艇長が気密を確認し、外扉を閉じた。
『本題へ戻します』とソレルが言った。『門の運用は一つの機関へ移す必要があります。三百二十七の政府へ個別に渡せば、通行料、救難、封鎖権を巡って紛争になる』
『先月、疫病で評議会を失ったエノスでは、中央冠網だけが門を開け続けた。現地代表を選ぶまで待っていたら、医療船は届かなかった』
通信へ議決書の束が添付された。共同管理の委任。各星系の議会名と公開投票の記録がある。ソレルの署名だけで作った書類ではなかった。
『この人たちは、門を自前で守る余力がないから委員会へ委ねた。それも、そこに住む人の選択です』
背後から別の職員が書類を差し入れた。ソレルは救難艇の燃料支出へ署名し、返した。メルとの回線は切らなかった。
メルは一枚を開いた。救難艇を一隻も持たない星系だった。
「この委任に、皇帝を一年近く倉庫へ置くことまで書いてある?」
『三十日で合意できると考えた。できなかった。それでも、その間に戦争は止まった』
「期限が来る」
『式典で委員会への移管を行います。オルバンの声紋と保存血液、地下保管庫の保管記録がある。延長承認はこれで通り続けた。本人を公に戻す必要はありません』
オルバンが低く言った。「冠網は声と血だけを見ていない。偽造すれば簒奪と判定する」
『棺の中のあなたには、その方法で暫定運転を延ばせた』
「保管の延長と、権限の移動は違う」
『あなたがそう説明してきた。だから全員、あなたの処理を待つしかなかった』
「私は消えに行く」
『あなたの登場で旧軍が動いた。人々はまた陛下と呼び始める。平和には、あなたが存在しないことが必要だ』
ソレルはメルへ向き直った。
『船を債務ごと買い上げます。代船の船長には、あなたを。他の協力輸送船と同じ運航契約です』
契約書が届いた。船の取得予算には委員会の承認があり、支払先は債権会社だった。港の事故やクレーの拘束破りの欄には〈別途審理〉とある。
メルは貸与される新造船の項目を開いた。予備の推進器、正常な加熱器、四人が同時に座れる食卓。床を使っても暖房は止まらない。
メルは機関室の断面図を拡大した。四本の腕を広げても壁へぶつからない。ボグの端末へ送りかけ、指を止めた。
これなら戻るかもしれない、と先に考えていた。
新しい船の所有者欄は委員会。船長欄はメル・ハーディだった。返済の督促は、もう届かなくなる。
メルは重力を切り、暖房を入れた。貨物扉を開く。外にはソレルの回収艇が灯を落として待っていた。
オルバンは抵抗しなかった。ラーダも銃へ手を伸ばさない。機関室からは、工具の音がしなかった。
「返却先を確認します」とハコ。
表示された座標は、アウレリア地下保管庫。メルが彼を拾った、あの黒い棺だった。
三十日だけと書かれた計画。十一回の延長。空白の期限。
そこへ戻せば、彼女の責任は終わる。誰かが受領し、署名してくれるわけではない。ただ扉が閉まり、見えなくなるだけだ。
「不適切な届け先」とメルは言った。
『何?』
「一年近く、受領処理が止まってる。そこへは返せない」
貨物扉を閉じ、回収艇の鼻先で固定した。
『メル・ハーディ。何を要求する』
「配達先を変える」
メルは針路図へ旧帝都を出した。
「あんたは、帝国が始まった場所で降りろ」
メルは通話を切ろうとした。ソレルが別の相手へ話す声が聞こえた。
『退避艇は予定どおり出してください。乗っているのは作業員です』
中立艇が《リターン》から離れた。警戒中の巡視艇が進路を空けた。
新造船の仕様も、債務引受の数字も消えた。残ったローン督促の期限は一日も動かなかった。
ラーダは伏せていた端末を起こした。予審局からの受領番号がまだ開いていた。しばらく見てから、その画面を閉じた。
「共同継続委員会の極秘命令に不服従。現在位置、廃棄貨物帯。理由、証拠隠滅のおそれ。記録者ラーダ・セイン」
「それを送ると、あなたも追われる」
「送った」
彼女は銃を腰へ戻した。「船内監査を継続します。あなたの違反も消しません」
「消すとは期待してない」
メルは機関室へ入った。片づけられた工具の穴と、固定された九度の補正値が残っていた。ボグの個人用品がなくなると、船内にこんなに空間があったのかと思った。
発進手順を開く。燃料弁の順番に、ボグの短い注記があった。メルは一行ずつ読んだ。
二つ目を開くと、継手の下へ小さな雫が浮いた。
メルは弁を閉じた。締め直すには、ずれた管を寄せたまま留め輪を回す必要がある。管を引けば輪が落ち、輪を拾えば管が戻った。
「そっちを持っ――」
口を閉じた。工具穴へ右手を伸ばす。いつものレンチもなかった。
船備品の小さいものを取りに戻り、管を膝で押さえた。届かない。身体を床へ寝かせ、足裏を隔壁へ突っ張る。輪が一山だけねじ込まれた。次を回すと、膝の皮膚が管へ挟まった。
指を離さず、もう半周回した。
弁を開き、漏れを確かめる。何も浮いてこなかった。メルはしばらく同じ継手を見ていた。立ってから、膝へ食い込んだ作業着を剥がした。
メルはボグへ、アウレリアまでの針路と補正値を送った。燃料消費の見積もりだけ頼んだ。数字の代わりに、音声が戻ってきた。
『冠中枢へ行くのか』
「行く」
『何をする』
「皇帝を降ろす。その先は、まだ分からない」
間があった。
『中を開けるのか』
メルは空いた工具穴を見た。
「開けなきゃ出せないなら」
向こうで艇長が、寄港順を変更すれば勤務開始に間に合わないと言った。ボグは返事をしなかった。メルも待った。
『戻してくれ』
それはメルへの言葉ではなかった。
中立艇が帰ってきた。ボグは工具箱を持って乗り移り、寝袋を貨物室の隅へ置いた。
「採用は?」
「枠を空けておけないそうだ」
「それで、いいの」
「よくはない」
ボグはオルバンへ冠中枢の構造図を求めた。受け取ると、光の束が収まった壁の厚さを指で測った。図を裏返し、同じ場所を何度も拡大した。
「壁を外していいのか」
「そこへ至るなら」とオルバンが答えた。
ボグは図を自分の端末へ移した。
「あそこまでだ。あとは決めてない」
メルは頷いた。戻ったのだから以前と同じだ、と言わないようにした。
アウレリアへの正規門は封鎖されていた。背後には《忠節》と料理船、ヴェイン艦隊、連盟巡視艦。メルは操舵席へ収まり、ボグが弁を開いたという返事を待った。




