第65話 地獄の鍋と、火加減の女神
出立の朝、宿の老主人が腰を痛めて倒れたのだ。セラの癒しで大事には至らなかったが、数日は安静がいる。世話になった礼にと、五人はそのまま宿の仕事を手伝うことになった。ドランとカイは薪割りと屋根の雪下ろしへ、セラは主人の看病へ。そして——
「夕餉は、私が作る」
ミラが、そう宣言した。
台所を任された炎の魔女は、自信満々だった。なにしろホロウで、バーサ直伝の火加減を修めた身である。竈の火は、完璧だった。強からず弱からず、鍋底を均一に舐める、惚れ惚れするような理想の火。
問題は、火では、なかった。
「ミラ、この黒い塊は……?」
「干し肉よ。香草を、ちょっと多めに」
「ちょっと……? 鍋が、紫色なんだけど」
「山で採った茸も入れたの。滋養があるから」
「その茸、宿のご主人が『それだけは食うな』って言ってたやつ——」
夕餉の席。囲炉裏を囲んだ四人の前に、湯気を立てる鍋が置かれた。湯気の色が、すでにおかしかった。カイが、震える手で椀を受け取る。
「た、ただの鍋だろう……湖の男が、鍋ごときに……」
ひと口。カイの動きが、止まった。無言のまま、彼はゆっくりと天井を仰ぎ、そして静かに、白目を剥いた。
「カイ!? しっかりしてください、カイさん!!」
セラが慌てて癒しの光をかざす。神の光が、食事に対して使われた、記念すべき最初の夜だった。ドランは椀を置き、遠い目で呟いた。
「……俺は戦場で、大抵のもんは食ってきたが……初めてだ。火加減は完璧なのに、中身が地獄ってのは」
「な……っ、じゃあ何よ! 文句あるなら食べなくていい!」
顔を真っ赤にして立ち上がりかけたミラの椀に、ルカが黙って、自分の椀を並べた。そして、ためらいなく、ふた口目を食べた。
「……っ、く……」
「む、無理してるでしょ」
「してる、けど」ルカは、涙目で、それでも笑った。「火加減は、本当に完璧だから。……作り方さえ覚えれば、ミラはきっと、誰より美味しいのが作れるよ。火が、こんなに優しいんだから」
ミラは、口を開きかけ、閉じた。それから、ぷいと横を向いて、小さな声で言った。
「……次は、ちゃんと、教わってから作る」
その夜以来、一行の炊事当番からミラの名は外され、代わりに「火起こし係」という専任の役職が生まれた。ミラの起こす火で、セラが作る。この分業が確立した瞬間、旅の食事は劇的に、美味くなった。




