第36話 四天王ベルガ
聖都サンクレアまで、あと数日——そのあたりから、街道の様子が、変わった。
焼けた村。打ち捨てられた荷車。逆方向へ逃げていく、避難民の列。誰もが口々に言った。「魔物の大軍が来る」「西の村が、もう呑まれた」と。
その日の夕刻、三人は、街道を見下ろす尾根の上から、それを見た。
眼下の平原を、黒い奔流が、埋め尽くしていた。魔物の、大軍。数百、いや、千を超えるか。松明の炎が、夕闇の中を、火の河のように流れていく。そして、その先頭に——
山が、歩いていた。
見上げるほどの巨躯。肩に担いだ、扉のような大斧。地響きとともに進むその魔人の哄笑が、尾根の上まで、届いてくる。
「……ベルガ」
ミラの声が、震えた。怒りで、全身が、震えていた。
「ミラ、待て、まだ動くな——」
ドランの制止は、間に合わなかった。ミラは尾根を蹴り、両手に、これまで見たこともないほどの炎を練り上げると、真っ向から、それを解き放った。
「うちの町を——返せええええっ!!」
巨大な火球が、ベルガに直撃し、爆炎が夜空を焦がした。だが。
「——温い火だなあ、おい」
炎の中から、笑い声とともに、無傷の巨体が歩み出た。そして、ミラが次の魔法を紡ぐより早く、その丸太のような腕が、無造作に振るわれた。
ミラの体が、木の葉のように吹き飛んだ。地面に叩きつけられ、二度、三度と跳ね、動かなくなる。
「ミラ!!」
考えるより先に、ルカは駆け出していた。ベルガが、倒れたミラへと、大斧を振り上げる。間に合え。間に合え——!
ルカは、ミラの前に滑り込み、剣を頭上に掲げた。胸の奥から、ありったけの熱を、引きずり出す。
光が、爆ぜた。
金色の光の膜が、振り下ろされた大斧を——受け止めた。腕の骨が軋み、足が地面にめり込む。一瞬、たった一瞬だけ、光は巨人の一撃に、拮抗した。そして、砕け散った。ルカはミラを抱え、衝撃の余波で、後方へと吹き飛ばされる。
「……ほう?」
ベルガの、血走った眼が、見開かれた。
「その光……神の光か。くく、ははは! 生き残りがいたか——勇者の血ィ!! 焼き損ねてたとはなあ!!」
そこへ、ドランが煙玉を叩きつけ、崖際の岩を剣で崩した。土煙と落石が、視界を塞ぐ。
「走れ!! 死ぬ気で走れルカ!!」
ドランがミラを担ぎ上げ、三人は転がるように、崖下の峡谷へと逃げ込んだ。追ってくる気配は——なかった。土煙の向こうで、ベルガの愉しげな声だけが、響いた。
「逃げろ逃げろ、勇者の子ォ。狩りは、獲物が育ってからのほうが、面白いんでなあ! 先に聖都をいただいてから、ゆっくり喰ってやるよ!!」
——その夜。峡谷の岩陰で、三人は息を潜めていた。ミラは全身を打撲し、肋骨にひびが入っていたが、命に別状はなかった。ただ、その瞳からは、光が消えていた。半年間、彼女を支えてきた復讐の炎が、絶対的な力の差の前に、へし折られたのだ。
ルカは、自分の両手を見つめた。まだ、震えている。あれが、四天王。あの化け物の、さらに上に、魔王がいる。
絶望的な、力の差だった。けれど——不思議と、心は折れていなかった。祠の試練を越えた心が、静かに、こう告げていた。勝てない。今は、まだ。「まだ」だ。いつかじゃない。必ず、追いつく。
遠く、夜の地平では、火の河が、聖都サンクレアへ向かって、流れ続けていた。そして一羽の黒い蝙蝠が、魔の大陸へ——玉座の魔王のもとへと、報せを運ぶべく、闇夜を翔けていった。
勇者の血は、生きている、と。




