第49話 地獄の沙汰も運命次第
「……ぷっ」
先に吹き出したのは莉緒子だった。
「な、なんですか?」
「だって、昼間のキメキメのスーツと全然違うんだもん。そのTシャツ、首元ヨレヨレじゃない」
「き、君だって! その部屋着、毛玉だらけですよ」
信也も笑い返した。
二人はパーティション越しに、お互いのダサい姿を指差して笑い合った。
ひとしきり笑った後、信也が真剣な眼差しで莉緒子を見つめた。
「やっと会えましたね」
「……ええ。長かったわ」
信也の手が、壁を越えて差し出される。
莉緒子はその手を、恐る恐る、けれどしっかりと握り返した。
温かい。
指先だけの接触ではない。確かな体温が、掌から伝わってくる。
「月、今日も綺麗ですね」
「……死んでもいいわ」
莉緒子が二葉亭四迷の訳で返すと、信也は嬉しそうに目を細めた。
その夜、二人は壁を挟んだまま、けれど手だけは繋いだまま、夜が明けるまで語り明かした。
マカロンの企画は、二人の共同名義で出し直すことになった。
+++
季節が巡り、秋風が吹き始めた頃。
莉緒子と信也の関係は、急速に進展していた。
お互いの部屋を行き来し、壁越しの会話は、同じソファでの会話へと変わった。
ライバル会社同士のカップルということで、周囲には秘密にしているが、その背徳感がまた二人の恋を燃え上がらせていた。
そして、ある日曜日の朝。
ベッドの中で、信也が切り出した。
「ねえ、莉緒子。そろそろ一緒に住まないか?」
莉緒子はコーヒーカップを置き、彼を見つめた。
「同棲?」
「うん。お互いの部屋を行き来するのも面倒だし、家賃ももったいない。……それに、もっとずっと一緒にいたい」
「ふふ、合理的かつロマンチックね」
莉緒子に異論はなかった。
問題は場所だ。
「どこに住む? お互いの会社の中間地点?」
「いや、このマンションがいいと思うんだ」
信也が天井を指差した。
「このレジデンス・アルゴス、気に入ってるんだよ。セキュリティは万全だし、静かだし。管理人さんはちょっと怖いけど、まあしっかりしてるし」
「確かに。住み慣れてるしね」
「調べたら、4階のファミリータイプの部屋に空きが出たらしいんだ。2LDKで、広さも十分。今の家賃を合わせるより安くなる」
「決まりね。灯台下暗しだわ」
二人は善は急げとばかりに身支度を整え、不動産屋へと向かった。
二人の年収を合わせれば、審査など通らないはずがない。
新たな生活への希望に胸を膨らませ、二人は手を取り合って廊下を歩いた。
+++
数日後。
莉緒子と信也は、管理会社から呼び出しを受けた。
場所は駅前の不動産屋のカウンターだ。
「……えっ? NG?」
信也の声が裏返った。
担当者は申し訳なさそうに頭を下げている。
「はい……。誠に申し上げにくいのですが、オーナー様より『入居NG』との判断が出まして……」
「な、なぜですか!? 僕たちは二人とも正社員ですし、年収も基準を大幅に超えているはずです。今の部屋での家賃滞納も一度もありません!」
莉緒子も身を乗り出した。
「そうよ! どうして審査に落ちるの? 理由を教えてください!」
「それが……オーナー様からは『総合的な判断』としか……。これ以上の理由は開示されない契約になっておりまして……」
担当者は冷や汗を拭いながら、視線を泳がせた。
彼自身も理不尽だと思っているのだろう。だが、このマンションのオーナーは絶対君主だ。彼の意向には誰も逆らえない。
「そんな……納得できません!」
「申し訳ありません……」
押し問答の末、二人は肩を落として不動産屋を出た。
秋晴れの空が、やけに眩しく、そして恨めしかった。
「どういうことなのよ……。私たちの何がいけないって言うの?」
莉緒子が悔し涙を滲ませる。
信也は黙って彼女の肩を抱いた。
彼の頭脳が、高速で状況を分析し始めていた。
「……莉緒子。このマンション、やっぱりおかしいよ」
「え?」
「前から思ってたんだ。満月の夜の防犯灯のタイミングといい、管理人の過剰な干渉といい、そして今回の謎の審査落ち。……ここは、僕たちが住むべき場所じゃないのかもしれない。逆にNGにしてくれてよかったと思える場所を一緒に探そう」
信也は振り返り、遠くに見えるレジデンス・アルゴスの要塞の外観を見上げた。
百の目を持つ巨人、アルゴス。
その目は、住人を守るためではなく、監視し、搾取するためにあったのだと、彼は直感的に悟った。
「出よう、ここを」
「えっ……でも、違約金がかかるわ。半年未満だから、家賃二ヶ月分……二人合わせたら相当な額よ」
「構わない。君との時間にお金は惜しまないさ。すべて僕が払うよ」
信也の言葉には、迷いがなかった。
「お金はまた稼げばいい。でも、僕たちのこれからの生活は、誰にも邪魔されたくない。……あんな薄気味悪い『箱庭』の中で、暮らすのはごめんだ」
「信也……」
「新しい部屋を探そう。もっと普通の、ボロくてもいいから、僕たちだけの自由な場所を」
莉緒子は彼を見つめ、そして強く頷いた。
「そうね。……あなたが隣にいれば、どんな障壁も苦じゃないわ」
「壁があってもなくても、僕たちは繋がり合えるからね」
二人は手を繋ぎ直した。
損をしたはずなのに、不思議と心は晴れやかだった。
搾取される前に、自ら檻を出る。それは、彼らが初めて「運命」を自分たちの手で選び取った瞬間だった。
+++
一週間後。
引っ越し業者のトラックが、レジデンス・アルゴスの前で荷物を積み終えた。
莉緒子と信也は、空になったそれぞれの部屋に鍵をかけ、管理人に手渡した。
「お世話になりました」
「……ふん。立つ鳥跡を濁さず、ですぞ。破損を見つけた場合の請求は後日送りますよ」
管理人は憎々しげに捨て台詞を吐いたが、二人は笑顔で「はい、楽しみにしています」と返し、颯爽とエントランスを出て行った。
レジデンス・アルゴス。
そこは今日も、百の瞳が獲物を待ち構える、美しくも残酷な狩り場であり続けている。
第8章 完
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