第48話 素顔
「カチャ」
「カチャ」
203号室と204号室。
隣り合う二つの鉄扉が、ほぼ同時に閉ざされた。
重厚な金属音が廊下の静寂を断ち切ると、國花莉緒子は玄関のタタキにへたり込んだ。
「嘘でしょ……」
心臓が早鐘を打っている。
今しがた廊下で対峙した男の顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
伊多波信也。
大手広告代理店のライバルであり、今日のコンペで私のアイデアとかぶり、罵り合い憎んだ男。
それが、あの「彼」?
莉緒子はゆらゆらと立ち上がり、リビングへと向かった。
散らかった部屋。飲みかけの缶ビール。
そして、カーテンの隙間から覗く、あのベランダ。
「あの人が……あの優しい声の主?」
信じられない。いや、信じたくない。
あんな理屈っぽくて、眉間にシワを寄せた嫌味な男が、夜な夜な私と「運命」について語り合い、ピクルスをお裾分けしてくれたというの?
脳内で、冷徹なビジネスマンの信也と、顔の見えない温厚な隣人のイメージが激しく衝突し、火花を散らす。
――ピンポーン。
突然のインターホンに、莉緒子は飛び上がった。
モニターを恐る恐る確認する。
そこには、少し髪を乱し、ネクタイを緩めた信也が、気まずそうに立っていた。
『あの……國花さん。伊多波です』
「……どうしました?」
『ベランダ、出ませんか。……壁越しじゃないと、うまく話せそうにないんで』
その言葉に、莉緒子の胸がトクンと鳴った。
彼は分かっている。
今、私たちが顔を合わせて話せば、きっとまた仕事の延長戦になってしまうことを。
私たちには、まだあの「壁」が必要なのだ。
「……分かったわ。5分後」
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5分後。
莉緒子はジャージではなく、少しだけマシなルームウェアに着替えてベランダに出た。
メイクは落としていない。それがせめてもの鎧だった。
夜風が熱を持った頬を撫でる。
隣の気配を感じる。彼もまた、そこにいる。
「……いますか?」
「いますよ」
壁の向こうから、聞き慣れた、けれどさっき廊下で聞いたものよりずっと柔らかい声が返ってきた。
「驚きましたね。まさか、お隣さんが君だったなんて」
「私だって驚いたわよ。世界一会いたくない相手が、一番近くに住んでたんだから」
「世界一は言い過ぎでしょう。……でも、納得がいきました」
信也の声に、苦笑いの気配が混じる。
「僕たちの企画が被った理由。盗作でもスパイでもない。僕たちは、同じ場所で、同じ月を見て、同じ言葉を交わしていた」
「……そうね。あなたのプレゼンの言葉、私が先日話したことそのままだった」
「君のイラストもだ。僕がイメージした『壁越しの恋』そのものだったよ」
沈黙が落ちる。
けれど、それは以前のような心地よい沈黙ではなく、どこか緊張感を孕んだ、それでいて甘やかな沈黙だった。
二人は同時に空を見上げた。
満月はすでに高く昇り、マンションの中庭を青白く照らし出している。
「ねえ、伊多波さん」
「信也でいいです。……下の名前」
「……じゃあ、信也さん。あの時、言ったわよね。『月が綺麗ですね』って」
莉緒子は核心に触れた。
あの言葉が、単なる天気の話題だったのか、それとも別の意味を含んでいたのか。
もし相手が憎きライバルなら、笑い飛ばして終わりにできる。
でも、今の彼女にとって、それは確認せずにはいられない重要な問いだった。
壁の向こうで、信也が息を飲む音がした。
衣擦れの音。彼が立ち上がり、パーティションに近づいてくる気配。
「あれは……引用です」
「引用?」
「夏目漱石の。……君なら、意味を知っていると思って」
莉緒子は手すりを強く握りしめた。
知っている。知っているに決まっている。
それは、「あなたを愛しています」という、日本一奥ゆかしい告白だ。
「相手が君だと知っていたら、言えなかったかもしれない。顔も見えない、どこの誰とも分からない相手だからこそ、心の鎧を脱いで、本音を言えたんだと思います」
信也の言葉が、夜風に乗って染み込んでくる。
仕事での彼は、理論武装した戦士だ。
でも、この壁の反対側にいる彼は、傷つきやすくて、ロマンチストで、不器用な一人の青年だ。
そしてそれは、莉緒子自身も同じだった。
「……私も」
莉緒子の声が震えた。
「私も、ここでの会話だけが救いだった。会社での『鉄の女』じゃなくて、ただの干物女の私を受け入れてくれる、この場所が」
二人は吸い寄せられるように、パーティションの縁へと歩み寄った。
高さ2メートル近い、プライバシーを守るための堅牢な壁。
けれど今、二人の心はすでにその壁を溶かしていた。
「國花さん……いや、莉緒子さん」
「なに?」
「顔、見てもいいですか?」
許可を求める声。
莉緒子は小さく頷いた。声には出せなかった。
ガタリ、と踏み台代わりのコンテナボックスを引き寄せる。
信也の方でも、椅子に乗る音がした。
せーの、なんて合図はなかった。
二人は同時に、パーティションの上から身を乗り出した。
視線が絡み合う。
月明かりの下、そこには昼間の敵対心など微塵もない、一人の男と女がいた。
信也は前髪が少し目にかかり、少年のようなあどけなさを残していた。
莉緒子は少し充血した目を恥ずかしそうに伏せ、頬を赤らめていた。




