第47話 怒りと月明かりの交差点
「ちょっとあなた! どういうつもり!?」
「それはこちらの台詞だ! よくもぬけぬけと……」
信也もまた、普段の冷静さをかなぐり捨てて応戦した。
「私の企画、どこで盗んだの!? あのアイデアは、私が数日前の夜に思いついたオリジナルのものよ! 誰にも話してない……いや、友人にしか話してないわ!」
「はあ? オリジナルだと? 笑わせるな! あれは僕が……僕の大切な人と語り合って生まれたアイデアだ! 君こそ、僕のPCをハッキングしたんじゃないのか!?」
「ハ、ハッキングぅ!? 私がそんなことできるわけないでしょ! あなたこそ、私の会社にスパイでも送り込んだんじゃないの!?」
お互いに一歩も引かず、至近距離で睨み合う。
端正な顔立ちの信也だが、怒ると眉間のシワが深く刻まれ、理屈っぽいオーラが倍増する。
莉緒子も負けじと、ヒールで背伸びをして威圧感を放つ。
「信じられない。大手代理店のエースだか何だか知らないけど、人のアイデアを盗んでドヤ顔なんて、恥ずかしくないの?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。……『見えないからこそ、味わいたい』? よくもまあ、僕の思考回路をあそこまでトレースできたもんだ」
「何ですってぇ!?」
二人の声が廊下に響き渡る。
通りかかった清掃員が、怯えたように足早に去っていく。
「もういい! これ以上話しても時間の無駄ね。今回の件、法務部を通して正式に抗議させてもらうわ!」
「望むところだ。こちらも徹底的にやらせてもらう。……君のようなプライドのないクリエイターには、二度とこの業界を歩けないようにしてやる!」
「ふんっ!」
「ふんっ!」
二人は同時に顔を背けると、それぞれ逆方向へと大股で歩き出した。
最悪だ。
最高傑作だと思っていた企画が、まさかあんな嫌な男と被るなんて。
莉緒子は怒りのあまり、持っていたミネラルウォーターのペットボトルを握り潰していた。
+++
その夜。
莉緒子は怒りに震えながら、タクシーでマンション『レジデンス・アルゴス』へと戻った。
「あーもう、イライラする! 信じられない、最低、最悪!」
エントランスのオートロックを乱暴に解除する。
あの男の顔を思い出すだけで、胃液が逆流しそうだ。
せっかくの「月」の企画が、あんな泥棒野郎のせいで台無しになった。
今日のコンペは、内容が酷似しすぎていたため、クライアントも困惑し、決定は保留となった。事実上の痛み分けだ。それがまた腹立たしい。
「今日はもう、彼に全部愚痴ってやるんだから……!」
莉緒子はエレベーターに乗り込み、3階のボタンを押そうとして、慌てて2階を押した。
怒りで自分の階数すら間違えるところだった。
チン、と軽い音がしてエレベーターの扉が開く。
莉緒子はカツカツと廊下を歩き出した。
早く部屋に帰って、ジャージに着替えて、ベランダでビールを飲みたい。
そして、隣の彼に「今日、最悪なことがあってさ」と聞いてもらいたい。
彼ならきっと、「それはひどいですね」と優しく慰めてくれるはずだ。あの理屈っぽい男とは大違いだ。
203号室の前まで来た時だった。
ふと、視界の端に人影が入った。
階段の方から上がってきたスーツ姿の男が、隣の204号室の前で立ち止まった。
(……え? 誰?)
このマンションはオートロックだ。住人以外が入ってくることは難しい。
ということは、204号室の住人……つまり、あの「彼」?
莉緒子は今まで、一度も彼と顔を合わせたことがなかった。
どんな人なんだろう。
声の感じからして、優しそうな塩顔男子を想像していたのだが。
男が、鍵を取り出そうとして振り返った。
廊下のダウンライトに照らされたその顔。
見覚えのある、神経質そうな眉間のシワ。
さっきまで、これでもかと罵り合った、あの憎きライバル。
伊多波信也だった。
「……は?」
莉緒子の口から、間の抜けた声が漏れた。
思考が停止する。
なぜ、こいつがここにいる?
まさか、私の後をつけてきた?
ストーカー? それとも、さらに嫌がらせをするために?
信也の方も、莉緒子の姿を認めて、鍵を持ったまま石像のように固まっていた。
その目が見る見るうちに見開かれ、口がパクパクと動く。
「な……なんで、君がここに……」
信也の声が裏返った。
「ストーカー!? 僕をつけ回して、まだ文句を言うつもりか!?」
「はあ!? 自意識過剰もいい加減にしてよ!」
莉緒子は反射的に叫んだ。
バッグを胸に抱え、後ずさる。
「ここ、私の家なんだけど……!」
「……え?」
信也の動きが止まった。
彼はゆっくりと、自分の目の前のドア番号「204」と、莉緒子が背にしているドア「203」を交互に見た。
203。
204。
隣同士。
長い、長い沈黙が流れた。
廊下の空調の音だけが、ゴーッと虚しく響いている。
そして、二人の視線が、吸い寄せられるように一点に向いた。
203号室と204号室を隔てる、ベランダの方角へ。
あの高いパーティション。
その向こう側で、夜な夜な語り合った相手。
顔も知らない、誰よりも気が合う隣人。
マカロンの企画を、「運命」だと信じて一緒に作り上げた同士。
莉緒子の脳内で、記憶の断片が走馬灯のように駆け巡る。
――『月が綺麗ですね』
――『壁一枚の純愛』
――『ガガガガーン!』
「……ガガガガーン?」
莉緒子の口から、無意識にあの時の擬音が漏れた。
信也が、雷に打たれたような顔をした。
彼の手から、鍵が滑り落ちる。
チャリン、という音が、静寂を切り裂いた。
「君……だったのか……」
信也が、力が抜けたように笑い出した。
それは自嘲のようでもあり、安堵のようでもあった。
「そうか。お隣さんは……君だったのか」
アイデアが被ったのは、盗作でもスパイでもなかった。
同じ場所で、同じ月を見て、同じ時間を共有していたから。
互いに影響を与え合い、互いの言葉で企画を紡いでいたからだ。
彼女たちは、敵同士でありながら、誰よりも深いパートナーだったのだ。
莉緒子の目から、敵対心の炎が消え去っていく。
代わりに込み上げてきたのは、どうしようもない気恥ずかしさと、そして愛おしさだった。
目の前にいるのは、憎きライバルではない。
あの夜、私の孤独を救ってくれた、「月が綺麗ですね」と言ってくれた人なのだ。
二人はしばらくの間、廊下で立ち尽くしていた。
抱きしめ合うことはしなかった。
あまりにも急展開すぎて、まだ心の整理がつかない。
それに、ここは明るすぎる。
二人の間には、「壁」が必要だった。素直になるためには、まだ。
「……とりあえず」
莉緒子が顔を真っ赤にして、俯きながら言った。
「ビール、冷えてますけど」
「……僕の部屋には、君が好きそうなツマミがあります」
二人は顔を見合わせ、ぎこちなく微笑んだ。
そして、それぞれの部屋のドアを開け、中へと入っていく。
廊下での対面は終わりだ。
ここからは、いつもの「壁越し」の時間。
けれど今夜は、今までとは決定的に違う。
壁の向こうにいるのが誰か、はっきりと分かっているのだから。
二つのドアが閉まる音を、天井の隅にあるドーム型の監視カメラが、無機質に見下ろしていた。




