第45話 溶け合う壁と甘いアイデア
「わあ……すごい……」
莉緒子は恐怖も忘れ、思わず声を漏らした。
さっきまで背景の一部だった月が、今や圧倒的な存在感で二人を見下ろしている。
まるで舞台照明だ。主役の二人を照らすための。
「タイミング、良すぎません?」
壁の向こうで、信也が少し震えた声で笑った。
「まるで、このマンションが僕たちを応援してくれているみたいだ」
「……ふふ、そうかも、ですね」
暗闇と、突然の光。そして「月が綺麗」という言葉の直後に起きたドラマチックな現象。
吊り橋効果などという心理学用語を持ち出すまでもなく、二人の鼓動は早鐘を打っていた。
言葉はなくとも、伝わってくる。壁の向こうにいる彼も、今、同じ月を見て、同じように胸を高鳴らせているのだと。
二人は顔を見合わせることもできず、ただ同じ月を見上げていた。
しばらくして防犯灯がじわりと再点灯した。別れ際、彼は「今日は呼び出してくれてありがとう」と言ってきた。
しかし、莉緒子は「自分が呼び出されたんじゃなかったっけ?」と、思うも、口にすることはせず、入室した。
この劇的で偶然とは思えないような消灯で、二人はこれを運命だと信じ込み、急速に惹かれ合っていくのを誰も止めることができなかった。
+++
数日後の午後。
広告代理店のオフィスは、いつものようにキーボードを叩く音と電話の呼び出し音で殺伐としていた。
莉緒子は死んだ魚のような目でPCの画面をスクロールしていた。
また面倒な修正依頼だ。クライアントの「なんとなく違う」という言葉ほど、デザイナーを殺す凶器はない。
ため息をつきながらメールボックスを開くと、一通の差出人不明のメールが目に留まった。
『【ご案内】月をテーマにした新作スイーツマカロンのプロモーション企画コンペについて』
「……マカロン?」
普段なら、スパムメールか、予算の少ない泡沫案件として即座にゴミ箱行きにする類のものだ。
だが、莉緒子の指はマウスの上で止まった。
今の彼女にとって、「月」という単語は特別な響きを持っていたからだ。
――月が、綺麗ですね。
あの夜の、彼の声が蘇る。
顔も知らない隣人。けれど、誰よりも心を許せる相手。
このふわりとした、まだ名前のついていない感情を、形にしたいという衝動が突き上げてきた。
(彼との思い出を、形にしたい)
マカロンの丸い形は満月に似ている。
気がつけば、莉緒子は参加要項のURLをクリックしていた。
仕事の中に、私情を挟むなんてプロ失格かもしれない。でも、今回だけは。
莉緒子の中で、何かが熱く燃え上がり始めていた。
+++
その夜。
莉緒子は帰宅するなり、いつものジャージに着替えるのも忘れてベランダへ飛び出した。
手にはノートPCと、コンビニで買ったマカロンが一箱。
ほどなくして、隣からも窓が開く音がした。
「こんばんは。今日は早いですね」
「こんばんは。……あの、ちょっと相談に乗ってもらえませんか?」
莉緒子はやる気に満ちた声で切り出した。
「相談? 僕でよければ、喜んで」
「実は今、仕事でとあるテーマについて考えているんです」
具体的な商品名やクライアント名は伏せつつ、彼女は語り始めた。
テーマは『月』と『運命』。そして『壁』。
「運命って、本当にあると思いますか? それと、その先にある未来は、甘いものなんでしょうか」
少し気恥ずかしい問いかけだった。仕事の相談という体裁を取っているが、それは今の二人の関係そのものへの問いかけでもあった。
だが、信也の反応は意外なほど熱かった。
「ありますよ。運命」
「即答ですね」
「だって、そうでしょう。僕たちだって、このマンションがなければ出会わなかったかもしれない。……実は僕も、似たようなことを考えていたんです」
どうやら彼も、仕事で何か企画を練っているらしい。
二人は夜風に吹かれながら、情熱的にアイデアを語り合った。
「たとえば、近すぎて見えない距離感ってあると思うんです。マカロンの生地みたいに、上下に重なっているけれど、直接は触れ合えない」
「ああ、なるほど。間にクリームという『壁』があるからこそ、二つは一つになれる」
「そう! その『壁』は邪魔なものじゃなくて、二人を繋ぐ甘い聖域なんです!」
会話が弾む。驚くほど感性がシンクロしている。
まるで長年連れ添ったパートナーのように、一つの言葉から十のイメージが共有できる。
莉緒子は高揚感に包まれていた。こんなに誰かと心が通じ合ったのは初めてかもしれない。
莉緒子の脳内で、バラバラだったピースがカチリと音を立てて嵌まった。
(これだ……!)
彼女の中で、企画のメインビジュアルが鮮明に浮かび上がった。
テーマは『月・運命・告白したいけどできない』。
それを、すぐ近くにいても言い出せない、自分の片思いになぞらえる。
「壁が、溶ける瞬間……」
莉緒子は呟きながら、手元のメモ帳にラフを描き殴った。
夜のベランダ。目を閉じて、見えない隣人の気配を感じながらマカロンを口にする女性。
口の中でクリームが溶け出し、壁が消えて、甘さが広がる瞬間。
それは、「見えないからこそ、味わいたい」という背徳的で純粋な渇望だ。
「ありがとう。あなたのおかげで、最高の企画ができそうです」
「僕の方こそ。君の話を聞いて、迷いが消えました」
二人は壁越しに笑い合った。
このとき莉緒子は、もしこのコンペを取れたのなら、勇気を出してこの関係をもう一歩前へ進めてみようと考えていた。
熱っぽく語り合う二人を静かに見守りながら、中庭の木々の陰で、防犯カメラが赤いランプを点滅させていた。




