第44話 暗闇に浮かぶ小道具
その夜、東京の空には、不自然なほど明るい満月が浮かんでいた。
都会のネオンにかき消されがちな星々も、今夜ばかりはその主役に席を譲り、控えめに瞬いている。
マンション『レジデンス・アルゴス』の203号室。
室内の照明は消されており、窓から差し込む青白い月光だけが、散らかったリビングを幻想的に照らし出している。
國花莉緒子は、リビングの床に敷いたラグの上で、トドのように寝転がっていた。
仕事から帰宅してメイクも落とさず、ジャージに着替えて即、この体勢だ。片手には缶ビール、もう片手にはスマホ。
画面の中で流れるSNSのタイムラインを無心でスクロールしながら、時折、柿の種を口に放り込む。これぞ、社内では「鉄の女」と恐れられる彼女の、誰にも見せられない「干物女」としての真の姿だった。
「……あーあ。今月もカードの引き落としがエグい」
独り言が漏れる。
ふと、視線を上げると、掃き出し窓の向こうに満月が見えた。
今日はやけに明るい。
そういえば、ここ数日、204号室の彼と顔を合わせていない(と言っても、壁越しだが)。
彼も忙しいのだろうか。
そんなことが頭をよぎった直後、自分でも驚くほどの速さで「別に待ってるわけじゃないし」と心の中で否定する。
その時だった。
カチャ、カチャカチャ。
静寂を破り、硬質な音が響いた。
音源は、ベランダへと続く窓のサッシあたり。
まるで、誰かが窓ガラスに向けて小石を投げつけたかのような、小さく、けれど意図を感じさせるリズム。
莉緒子は弾かれたように体を起こした。
(えっ、今の音……)
泥棒?
いや、ここは最新セキュリティを誇る要塞マンションだ。外部からの侵入など不可能なはず。
となると、考えられるのは一つしかない。
(……彼が呼んでる?)
隣の部屋の彼が、何かの合図を送ってきたのだろうか。
窓に小石を投げて愛しい人を呼び出すロマンチックなシチュエーション?
「……まさかね」
期待と訝しさが入り混じる中、莉緒子は重い腰を上げ、窓へと歩み寄った。
ロックを外し、サッシを開ける。
ひんやりとした夜風が、生温かい室内の空気と混ざり合う。
莉緒子はサンダルを突っかけ、パーティションのそばへとおずおずと近づいた。
「どうもー」
「あっ。お隣さん。どうもー」
壁の向こうで、彼が優しく挨拶を返す声がした。
呼び出されたのかどうかは、違っていたら恥ずかしいので聞けなかった。
「あ、そうだ。これ、食べませんか? 実家から送ってきたスモークチーズなんですが、一人じゃ食べきれなくて」
「えっ、いいんですか? じゃあ、私からはこれを」
莉緒子はベランダの床にしゃがみ込み、パーティションの下の隙間から、食べかけではない未開封の「プレミアム柿の種(トリュフ塩味)」を滑らせた。向こうからは、丁寧にラップに包まれたチーズが差し出される。
「物々交換ですね」
「ありがとうございます。……うん、今夜は風が気持ちいいから、お酒も進みそうだ」
二人は見えない月を見上げながら、たわいない会話を始めた。
仕事の愚痴、最近ハマっている動画の話、学生時代の恥ずかしい思い出。
会話が途切れても、気まずさはなかった。むしろ、その間に流れる夜風が心地よく、沈黙さえも共有しているような温かさがあった。
月明かりの下、顔も見えない相手と語り合う時間は、都会の喧騒の中で擦り切れた神経を癒やす、極上の精神安定剤だった。
ふと、心地よい沈黙が落ちた時だった。
彼が、夜空を見上げてぽつりと呟いた。
「……月が、綺麗ですね」
その声は、いつもの理屈っぽいトーンとは違い、どこか熱を帯びていた。
莉緒子は缶ビールを口に運ぶ手を、空中でピタリと止めた。
ドキン、と心臓が大きな音を立てる。
文系出身で、かつては文学少女だった彼女が、その言葉の意味を知らないはずがない。
夏目漱石が『I love you』をそう訳したという、あまりにも有名な逸話。
(えっ……? それって……)
それは単なる天体への感想だったのかもしれない。
満月を見て「綺麗だ」と言った、ただそれだけの事実。
けれど、この親密な空気の中で、このタイミングで発せられたその言葉は、あまりにも意味深で、文学的な愛の告白のように響いた。
カァッ、と全身の血が顔に集まるのがわかる。
なんと答えればいい?
定番の返しは『死んでもいいわ』だ。でも、そんな重い言葉を返して、もし彼が本当にただ月を褒めただけだったら? 痛い勘違い女として爆死することになる。
それとも笑って『そうですね』と流すべき? でも、もしこれが本気の告白だったら?
莉緒子がドキドキして胸を押さえ、迷いあぐねていた、その時だった。
フッ。
唐突に、世界から光が消えた。
中庭を照らしていた明るすぎるLED防犯灯が、一斉に消灯したのだ。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
あたりは完全な暗闇に包まれた。
だが、その直後だった。
人工的な光が消え去ったことで、空に浮かぶ満月の輝きが、劇的に、暴力的なまでに増したのだ。
青白い月光がスポットライトのように二人のベランダへと降り注ぎ、互いを隔てるパーティションの影をくっきりと床に焼き付ける。




