第43話 壁越し
「……で、何があったんですか? 今のしめった音」
「いやあ、お恥ずかしい話なんですが……」
男――204号室の住人は、照れくさそうに語り始めた。
風呂上がりに、自分へのご褒美としてとっておきの高級プリンを食べようとしたこと。
スプーンですくって口に運ぼうとした瞬間、手が滑ってしまったこと。
そして、プリンが無残にもベランダのコンクリートに落下し、弾け飛んだこと。
「一口も食べてないのに……。今週はずっとこのプリンのために残業を耐えてきたのに……ガガガガーンですよ、本当に」
「ふふっ、あははは!」
莉緒子は我慢できずに声を上げて笑った。
自分でも驚くほど、自然な笑い声だった。
社内では「鉄の女」と呼ばれ、飲み会でも愚痴しかこぼさない自分が、顔も知らない隣人の失敗談に腹を抱えて笑っている。
「それは私でも言っちゃいそうです。ガガガガーンって」
「でしょう? ベートーヴェンもびっくりですよ」
パーティション越しに、男の笑う気配がした。
不思議と嫌な感じがしない。
姿が見えないからだろうか。相手の顔色をうかがう必要も、値踏みされる視線を感じることもない。ただ「声」と「気配」だけの存在。
それが、疲れ切った莉緒子の心に、妙に心地よく響いた。
これが、彼女と顔の知らない彼との最初の出会いだった。
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その夜以来、彼女と隣人は数日おきにベランダで言葉を交わすようになった。
約束をしているわけではない。
けれど、彼女が仕事から帰って缶ビールを開け、ベランダに出ると、決まって向こうからも窓を開ける音がするのだ。
「こんばんは。今日もお疲れ様です」
「こんばんは。今日は一段と冷えますね」
名前は名乗らなかった。
お互いの素性を深く詮索しないこと。それが二人の間の暗黙のルールになっていた。
分かっているのは、お互いに「メディア関係」の仕事をしているということだけ。
「いやあ、クライアントが無茶振りばかりで。納期の三日前に仕様変更とか、正気じゃないですよ」
「分かります。こっちなんて、上の人間が現場を知らないから、全部しわ寄せがこっちに来るんです。リーマンの宿命ですよねえ」
「お互い、因果な商売ですね」
具体的な社名や職種は出さない。
もし相手が取引先や競合他社だったら、この心地よい関係が壊れてしまうかもしれないからだ。
仕事の愚痴、最近見た映画の話、将来への漠然とした不安。
顔を合わせない分、二人はどんな友人よりも素直に本音を語り合った。
彼は理屈っぽいところがあるけれど、根はロマンチストで優しい人だった。
彼女のキツイ物言いも、「ハッキリしていて気持ちいいですね」と笑って受け止めてくれる。
ある夜のことだ。
いつものように彼女がベランダで話していると、パーティションの下の隙間から、何かがスッと差し出された。
「これ、よかったらどうぞ。作りすぎちゃって」
それは、小さなタッパーに入った手作りのピクルスだった。
パプリカやきゅうりが、宝石のように鮮やかに漬かっている。
「えっ、これ手作りですか? すごい……」
「趣味なんですよ。料理くらいしか息抜きがなくて。味見がてら、毒味役をお願いできますか?」
「ふふ、喜んで」
彼女はベランダの床にしゃがみ込み、パーティションの下の、わずか数センチの隙間からタッパーを受け取った。
その時、彼の手の指先がわずかに見えた。
白くて、爪がきれいに切り揃えられた、清潔そうな指だった。
「じゃあ、私からはこれを」
彼女は飲みかけではない、未開封の缶チューハイ――お気に入りの期間限定オレンジ味――を、隙間からコロコロと転がした。
「わ、物々交換ですね。ありがとうございます」
「冷えてますよ」
彼が缶を拾い上げる気配がする。
壁一枚を隔てて、二人は床に座り込み、まるで秘密の取引をする共犯者のようにクスクスと笑い合った。
「なんだか、牢屋の差し入れみたいですね」
彼女が言うと、彼は穏やかな声で返した。
「確かに。あはは。ただ、壁一枚隔てているからこそ、素直になれることもありますよね。……顔を見て話すのが、実は僕、苦手で」
「奇遇ですね。私も、人の顔色ばかり見て仕事してるから、家では誰にも見られたくないんです」
隙間から見えるのは、彼の手首まで。
触れたのは、タッパーを受け渡した時の一瞬の指先だけ。
けれど、その微かな体温が、彼女の冷え切った心をじわりと温めていた。
大人になると、新しい友達を作るのは難しい。
相手の年収、外見、ファッション、社会的地位。そんなラベルが邪魔をして、純粋な関係なんて築けないと彼女は思っていた。
でも、ここにはそれがない。
ただ、夜空を見上げる二人の人間がいるだけだ。
「……おいしいです、このピクルス。酸味がちょうどいい」
「よかった。自信作なんです」
二人は見えない相手に向かって乾杯をした。
静かな中庭の木々が、夜風に揺れている。
その木々の陰で、防犯カメラのレンズが冷ややかに光り、不気味にたたずんでいた。




