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礼金無双のマンションオーナー ~相場よりも安い賃料でカモを釣り、住人の秘密を暴いて即追い出す~全室隠しカメラ完備ですが、覗きが趣味ではありません  作者: 団田図
第8章 大手広告代理店 國花 莉緒子(29)

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第42話 ベランダに響くベートーヴェン

 「運命? そんなのあるわけないじゃない」


 金曜日の夜、新橋の居酒屋。

 周囲の喧騒に負けない声量で、國花くにはな莉緒子りおこはジョッキをテーブルに叩きつけた。

 泡の消えかけた生ビールの液面が揺れる。向かいに座る同期の女性社員が、苦笑いしながら焼き鳥の串を外していた。


「またそれ? 莉緒子は夢がないなあ」

「夢で飯は食えないのよ。大体ね、この歳になって『白馬の王子様』なんて待ってるのは、頭の中お花畑の乙女ゲー中毒者か、現実逃避したヒッピーだけ」


 莉緒子は今年で二十九歳になる。

 大手広告代理店の営業職。入社以来、男社会の中で泥水をすすりながらキャリアを積み上げてきた。

 ハイヒールで都内を駆け回り、理不尽なクライアントに頭を下げ、深夜まで企画書を作り込む日々。その代償として得たのは、そこそこの年収と、鋼のように固まった精神力、そして男という生き物への深い絶望だ。


「大体、男なんてみんな一緒よ。最初は『君のためなら死ねる』とか甘いこと言って近づいてくるくせに、付き合ってみれば中身なんてスッカラカン。私の年収や会社の肩書きにビビって逃げ出すか、逆に見栄を張って嘘でマウント取ってくるかの二択ね」

「うわぁ、過去の傷が深い……」

「傷じゃないわ、学習よ。いい? 人生は自分の手で切り開くもの。運命なんて不確定な要素に頼る暇があったら、私はコンペの勝率を上げる努力をするわ」


 莉緒子は冷めきった焼き鳥を口に放り込み、咀嚼した。

 塩味が強い。今の自分の心と同じくらい、しょっぱくて乾いた味がした。


+++


 日付が変わる頃、莉緒子はタクシーで帰宅した。

 閑静な住宅街にそびえ立つ、石造りの低層マンション『レジデンス・アルゴス』。

 重厚なエントランスを抜け、オートロックを解除する。最新鋭のセキュリティシステムが完備されたこの「城」は、疲れ果てた彼女を物理的には守ってくれるが、心の隙間までは埋めてくれない。


 203号室のドアを開け、ヒールを脱ぎ捨てる。

 戦闘服であるオフィスカジュアルを脱ぎ、ヨレヨレのジャージに着替えると、彼女は一気に「干物女」へと変貌した。

 メイクも落とさず、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

 部屋の照明をつけるのも億劫で、薄暗いリビングを抜け、ベランダへと出る窓を開けた。


「……はあ。疲れた」


 夜風が熱を持った頬に心地いい。

 このマンションのベランダは、隣の部屋との境に天井まで届く高いパーティションが設置されている。プライバシーが完全に守られた、自分だけの聖域だ。

 莉緒子は愛用のキャンプチェアに座り込み、スマホにイヤホンを挿した。


 こんな夜に聴きたい曲は決まっている。

 ベートーヴェンの交響曲第5番、『運命』。

 癒やしを求めるならバラードだろうが、今の莉緒子に必要なのは、理不尽な社会と戦うための闘争心だ。


(負けない。私は誰にも頼らず生きていくんだから)


 再生ボタンを押す。

 重厚なオーケストラの音が脳内に響き渡る。

 第一楽章。あまりにも有名な導入部。

 タクトが振られ、弦楽器が空気を震わせる。


 ――ジャジャジャジャーン。


 運命が扉を叩く音。

 そのあまりの力強さに、莉緒子は目を閉じ、自身の鼓動を重ね合わせた。

 音楽は一度静まり、そして再び、より強く、より劇的にその旋律を繰り返そうとする。


 来る。クライマックスが。

 莉緒子が缶ビールを口に運ぼうとした、その時だった。


「ジャジャジャジャーン!」


 イヤホンの中のオーケストラが最高潮に達した瞬間。


 『ビチャッ』


 何かが湿っぽく床に落ちる音。

 そして。


「ガ、ガ、ガ、ガーン!!」


 隣の204号室のベランダから、この世の終わりのような男の叫び声が聞こえてきた。

 音楽の「ジャジャジャジャーン」と、男の「ガガガガーン」が、これ以上ないほど完璧なタイミングでシンクロしたのだ。


「ぶっ……!」


 莉緒子は口に含んだビールを盛大に吹き出した。

 あまりのタイミングの良さに、気管に入りそうになる。


「げほっ、ごほっ……えっ、ちょっ……」

「あ……す、すみません! 驚かせましたか!?」


 隣のパーティションの向こうから、慌てふためいた男の声が聞こえてきた。

 若そうだが、どこか情けない響きのある声だ。

 莉緒子は口元を拭いながら、必死で笑いをこらえた。


「い、いえ……あまりにタイミングが良くて……ふふっ。実は私、ちょうど聴いてたんです。それ」


 彼女はスマホからイヤホンジャックを抜き、音量を上げて再生し直した。

 スピーカーから流れる、あの有名なフレーズ。

 ――ジャジャジャジャーン!


「おお……! まさか『運命』を聴いてらしたとは。……あはは、それは確かに、奇跡的なタイミングですね」

 男も状況を察したのか、乾いた笑い声を上げた。

 顔は見えない。高い壁が二人を隔てている。

 だからこそ、莉緒子は普段の警戒心を解いて、素直に問いかけることができた。


「……で、何があったんですか? 今のしめった音」

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