第42話 ベランダに響くベートーヴェン
「運命? そんなのあるわけないじゃない」
金曜日の夜、新橋の居酒屋。
周囲の喧騒に負けない声量で、國花莉緒子はジョッキをテーブルに叩きつけた。
泡の消えかけた生ビールの液面が揺れる。向かいに座る同期の女性社員が、苦笑いしながら焼き鳥の串を外していた。
「またそれ? 莉緒子は夢がないなあ」
「夢で飯は食えないのよ。大体ね、この歳になって『白馬の王子様』なんて待ってるのは、頭の中お花畑の乙女ゲー中毒者か、現実逃避したヒッピーだけ」
莉緒子は今年で二十九歳になる。
大手広告代理店の営業職。入社以来、男社会の中で泥水をすすりながらキャリアを積み上げてきた。
ハイヒールで都内を駆け回り、理不尽なクライアントに頭を下げ、深夜まで企画書を作り込む日々。その代償として得たのは、そこそこの年収と、鋼のように固まった精神力、そして男という生き物への深い絶望だ。
「大体、男なんてみんな一緒よ。最初は『君のためなら死ねる』とか甘いこと言って近づいてくるくせに、付き合ってみれば中身なんてスッカラカン。私の年収や会社の肩書きにビビって逃げ出すか、逆に見栄を張って嘘でマウント取ってくるかの二択ね」
「うわぁ、過去の傷が深い……」
「傷じゃないわ、学習よ。いい? 人生は自分の手で切り開くもの。運命なんて不確定な要素に頼る暇があったら、私はコンペの勝率を上げる努力をするわ」
莉緒子は冷めきった焼き鳥を口に放り込み、咀嚼した。
塩味が強い。今の自分の心と同じくらい、しょっぱくて乾いた味がした。
+++
日付が変わる頃、莉緒子はタクシーで帰宅した。
閑静な住宅街にそびえ立つ、石造りの低層マンション『レジデンス・アルゴス』。
重厚なエントランスを抜け、オートロックを解除する。最新鋭のセキュリティシステムが完備されたこの「城」は、疲れ果てた彼女を物理的には守ってくれるが、心の隙間までは埋めてくれない。
203号室のドアを開け、ヒールを脱ぎ捨てる。
戦闘服であるオフィスカジュアルを脱ぎ、ヨレヨレのジャージに着替えると、彼女は一気に「干物女」へと変貌した。
メイクも落とさず、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
部屋の照明をつけるのも億劫で、薄暗いリビングを抜け、ベランダへと出る窓を開けた。
「……はあ。疲れた」
夜風が熱を持った頬に心地いい。
このマンションのベランダは、隣の部屋との境に天井まで届く高いパーティションが設置されている。プライバシーが完全に守られた、自分だけの聖域だ。
莉緒子は愛用のキャンプチェアに座り込み、スマホにイヤホンを挿した。
こんな夜に聴きたい曲は決まっている。
ベートーヴェンの交響曲第5番、『運命』。
癒やしを求めるならバラードだろうが、今の莉緒子に必要なのは、理不尽な社会と戦うための闘争心だ。
(負けない。私は誰にも頼らず生きていくんだから)
再生ボタンを押す。
重厚なオーケストラの音が脳内に響き渡る。
第一楽章。あまりにも有名な導入部。
タクトが振られ、弦楽器が空気を震わせる。
――ジャジャジャジャーン。
運命が扉を叩く音。
そのあまりの力強さに、莉緒子は目を閉じ、自身の鼓動を重ね合わせた。
音楽は一度静まり、そして再び、より強く、より劇的にその旋律を繰り返そうとする。
来る。クライマックスが。
莉緒子が缶ビールを口に運ぼうとした、その時だった。
「ジャジャジャジャーン!」
イヤホンの中のオーケストラが最高潮に達した瞬間。
『ビチャッ』
何かが湿っぽく床に落ちる音。
そして。
「ガ、ガ、ガ、ガーン!!」
隣の204号室のベランダから、この世の終わりのような男の叫び声が聞こえてきた。
音楽の「ジャジャジャジャーン」と、男の「ガガガガーン」が、これ以上ないほど完璧なタイミングでシンクロしたのだ。
「ぶっ……!」
莉緒子は口に含んだビールを盛大に吹き出した。
あまりのタイミングの良さに、気管に入りそうになる。
「げほっ、ごほっ……えっ、ちょっ……」
「あ……す、すみません! 驚かせましたか!?」
隣のパーティションの向こうから、慌てふためいた男の声が聞こえてきた。
若そうだが、どこか情けない響きのある声だ。
莉緒子は口元を拭いながら、必死で笑いをこらえた。
「い、いえ……あまりにタイミングが良くて……ふふっ。実は私、ちょうど聴いてたんです。それ」
彼女はスマホからイヤホンジャックを抜き、音量を上げて再生し直した。
スピーカーから流れる、あの有名なフレーズ。
――ジャジャジャジャーン!
「おお……! まさか『運命』を聴いてらしたとは。……あはは、それは確かに、奇跡的なタイミングですね」
男も状況を察したのか、乾いた笑い声を上げた。
顔は見えない。高い壁が二人を隔てている。
だからこそ、莉緒子は普段の警戒心を解いて、素直に問いかけることができた。
「……で、何があったんですか? 今のしめった音」




