第41話 愛と財産の散る音
キキーッ!!
マンションの前に一台のタクシーが滑り込んだ。
まだ完全に停車していない車内から、ドアを蹴破る勢いでダンディ伊豆崎が飛び出してきた。
「ナポ凛ーーーッ!!!」
彼はエントランスを無視し、直接庭の方へと駆け込んだ。
見守りカメラの映像が途切れてから、彼の心臓は生きた心地がしなかった。
「どこだ! 私のナポ凛は!」
庭に回り込んだ伊豆崎の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
作業着の管理人に地面に押さえつけられ、シュンとしているナポレオン。
そして、その傍らで泥だらけになって震えているルミコ。
「ああっ! ナポ凛ちゃん!」
伊豆崎は状況判断能力を失っていた。
サーカス団長としての威厳も、冷徹な仮面も、すべてが吹き飛んだ。
彼はナポレオンに駆け寄り、跪いた。
「よかったぁぁ~! 無事でよかったでちゅ~! パパ心配したんでちゅからね~! 怖くなかったでちゅか~!?」
裏返った赤ちゃん言葉が、閑静な住宅街に木霊する。
その場にいた全員の時間が止まった。
ルミコが、信じられないものを見る目で伊豆崎を見上げた。
「……サンちゃん?」
伊豆崎がハッとして顔を上げる。
そこには、かつて愛を囁き合った恋人が、ゴミを見るような蔑んだ目で自分を見下ろしていた。
「……女じゃ、なかったのね?」
ルミコの声が震える。
「あんたが頑なに私に見せたくなかったモノは……その、ライオンのことだったの?」
「あ、いや、これは……」
伊豆崎はしどろもどろになりながら、腕の中のナポレオンを抱きしめた。
ナポレオンは「パパだ!」と安心して、伊豆崎の顔をベロベロと舐め回す。
「そ、そうだよ! 悪いか!」
もう隠し通せないと悟った伊豆崎は、開き直って叫んだ。
「こいつは俺の最愛のベイビーだ! お前なんかよりずっとピュアで、可愛くて、裏切らない! 俺の全てなんだよ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、乾いた音が響いた。
パァンッ!!
ルミコの手のひらが、伊豆崎の頬を強烈にひっぱたいた。
サングラスが吹き飛び、ダンディな髭面が歪む。
「最低ッ!!」
ルミコは涙目で叫んだ。
「あんたなんか……獣以下よッ! 人間失格よッ!」
+++
数分後。
ウゥーーーッ、というサイレンと共に、数台のパトカーが到着した。
現場は物々しい雰囲気に包まれた。
伊豆崎は、特定動物無許可飼育および動物愛護管理法違反の現行犯で連行された。
ナポレオンは専門の業者によって保護され、ケージに入れられて運ばれていく。
「ナポ凛! パパはすぐに戻るからね! いい子で待ってるんでちゅよー!」
パトカーに押し込まれながらも叫び続ける伊豆崎の姿は、あまりにも哀れだった。
一方のルミコも、住居侵入罪の現行犯として別のパトカーに乗せられていた。彼女は虚ろな目で宙を見つめ、何事かブツブツと呟いている。
マンションの前には野次馬が集まり、スマホで写真を撮っている。
「サーカス団長、ライオンを隠し飼い」「ピンクパジャマの猛獣」
SNSのトレンド入りは確実だ。彼の社会的地位は、今この瞬間、完全に崩壊した。
パトカーの後部座席。
手錠をかけられた伊豆崎のポケットで、スマホが振動した。
警官に許可を得て画面を見る。
『アルゴス・システム』からの通知だった。
《件名:退去費用および原状回復費のご請求》
震える指でメールを開く。添付されたPDFファイルには、目が飛び出るような数字が羅列されていた。
・壁紙全面張り替え(イタリア製ヴィンテージ):500万円
・無垢材ドア交換および枠補修:200万円
・フローリング研磨・コーティング:150万円
・スマート給餌器(システム連動特注品)破損弁償:80万円
・特殊清掃費(獣臭除去):100万円
・短期解約違約金:賃料2ヶ月分
・当マンションのブランド毀損に伴う損害賠償:別途算定中
合計額は、優に一千万円を超えていた。
「……あ、あ……」
伊豆崎の口から、魂が抜けていくような音が漏れた。
愛も、名誉も、家族も、そして財産も。
すべてを失った男を乗せ、パトカーは無情にも走り出した。
レジデンス・アルゴスのエントランスでは、今日も孔雀のオブジェが、静かにそのすべてを見下ろしていた。
第7章 完
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