第40話 野獣vs管理人
空腹は、王者の本能を呼び覚ます。
『レジデンス・アルゴス』一〇三号室。
破壊された給餌器の残骸を背に、ナポレオンはリビングの窓枠に前足をかけた。
電動シャッターと窓ガラスの隙間は、およそ三十センチ。八キロの柔軟な身体なら、十分に通り抜けられる広さだ。
鼻孔をくすぐる風の匂い。
鳥のさえずり。
そして何より、見知らぬ世界への渇望。
「ガウッ!」
ナポレオンは短い四肢に力を込め、バネのように跳ねた。
猫耳フード付きのピンクパジャマをなびかせ、百獣の王の幼体は、狭い隙間をすり抜けてベランダへと躍り出る。
そこは一階だ。
眼下には、手入れの行き届いた専用庭と、外部との境界であるフェンス、そしてその手前にうずくまる「獲物」の姿があった。
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ルミコは、息を殺してベランダの下に潜んでいた。
シャッターの隙間から中の様子を伺おうと、身を乗り出したその時だ。
「……え?」
頭上で、何かが風を切る音がした。
反射的に見上げたルミコの視界を、太陽を背にした「ピンク色の塊」が覆い尽くす。
逆光で黒く潰れたそのシルエットは、四肢を大きく広げ、まるで空飛ぶムササビのように、ルミコの顔面めがけて落下してきた。
「いやぁぁぁッ!?」
ドスンッ!!
重鈍な衝撃音が響き、ルミコは芝生の上に押し倒された。
みぞおちに八キロの砲弾が直撃し、肺から空気が強制的に絞り出される。
「ごふっ……! な、何!?」
パニックに陥るルミコの胸の上で、その塊はのっそりと身体を起こした。
至近距離で目が合う。
黄金色の虹彩。
太い前足。
そして、獲物を見つけた喜びに震える口元。
「ガウガウッ!」
ナポレオンにとっては、これは狩りのシミュレーションであり、最上級の「じゃれつき」だった。
だが、襲われる側にとってはたまったものではない。
ナポレオンが興奮して首を振った拍子に、ピンク色のフードがバサリと脱げ落ちた。
露わになったのは、まごうことなき猛獣の頭部。
「ヒッ……ラ、ライオン……!?」
ルミコの悲鳴が裏返った。
猫ではない。犬でもない。
それは、サバンナの食物連鎖の頂点に君臨する、殺戮の王の顔だった。
「キャーッ!! 助けてェェッ!! 誰かー!!」
ルミコは半狂乱でナポレオンを押しのけようとするが、爪が服に食い込み、離れない。
ナポレオンは「遊んでくれるのか!」とさらに興奮し、ルミコのブランド物のジャケットに噛み付いた。
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その悲鳴は、マンションオーナーの指示で庭木の手入れをしていた管理人の耳にも届いた。
「……む?」
管理人は持っていた剪定ばさみでの刈込を止めた。
ただの悲鳴ではない。生命の危機に瀕した者の、切迫した叫びだ。
彼は瞬時に脚立から飛び降りると、声のする一〇三号室の専用庭へと疾走した。
六十代後半とは思えぬ健脚。元刑事としての現役時代の勘が、全身の筋肉を戦闘モードへと切り替える。
現場に到着した管理人が目にしたのは、仰向けに倒れた不審な女と、その上に馬乗りになっている奇妙な獣の姿だった。
「……大型犬か? いや」
管理人の目が鋭く細められる。
骨格の太さ。筋肉の付き方。そしてあの耳の形。
檻の外にいるはずのない生物だ。
「ガアアッ!」
ナポレオンが管理人の気配に気づき、ルミコから離れて威嚇の姿勢を取った。
その瞬間、管理人は手に持っていた剪定ばさみを、躊躇なく芝生の上へと放り投げた。
(刃物はまずい。殺してしまう可能性があるし、興奮させれば被害が拡大する)
彼は素手で構えた。
腰を落とし、重心を低くする。古流柔術と逮捕術を組み合わせた、彼独自の構えだ。
「お嬢さん、動くなよ。刺激するな」
管理人が低く声をかけると同時に、ナポレオンが地面を蹴った。
速い。
猫の瞬発力と、大型獣のパワーを併せ持っている。
黄金の弾丸と化したナポレオンが、管理人の太腿に食らいつこうとする。
「シッ!」
管理人は紙一重で半身になり、その突進をかわした。
すれ違いざま、鋭い爪が管理人の作業ズボンを切り裂く。
ビリィッ!
布が裂け、わずかに赤い線が走った。
「ほう……よく研いだ一物だ」
管理人は冷や汗一つかかず、ニヤリと笑った。
ナポレオンは着地と同時に身をひるがえし、再び飛び掛かる。
右、左、そして正面。
目にも止まらぬ連続攻撃。管理人はそれを最小限の動きでいなし、さばき続ける。
(捕獲網がないのが悔やまれるな。このスピード、まともに組み付けばこちらの腕一本は持っていかれる)
一進一退の攻防。
ルミコは腰が抜けて動けないまま、現実離れしたその光景を呆然と見つめていた。ピンクのパジャマを着たライオンと、作業着の初老男性が、カンフー映画のようなバトルを繰り広げているのだ。
管理人は、ナポレオンの動きに「ある癖」を見抜いた。
動くものを目で追う習性。
そして、攻撃の直前にわずかに沈み込む予備動作。
管理人はバックステップで距離を取ると、近くにあった植木の枝を「バキッ」とへし折った。
葉のついた、しなやかな枝だ。
「こいつはどうだ?」
管理人はその枝を、ナポレオンの目の前でヒュンヒュンと振った。
不規則に動く葉先。風を切る音。
ナポレオンの瞳孔が、キュッと丸く収縮した。
野生の王としての威厳が消え、ただの「巨大な猫」の本能が顔を出す。
「ガウ……?」
ナポレオンの視線が、枝の先に釘付けになる。
管理人は枝を左右に、そして上下に揺さぶる。
ナポレオンの首もそれに合わせて、右、左、上、下。
完全にロックオンした。
管理人が枝を高く放り上げる。
ナポレオンはたまらず、空中の枝に向かって大ジャンプした。
「今だ」
その隙だらけの腹に、管理人が滑り込む。
空中で無防備になったナポレオンの首根っこを、熟練の手つきでガシリと掴んだ。
「確保!」
ドスンと着地すると同時に、管理人はナポレオンを地面に押さえ込み、体重をかけて制圧した。
首の後ろを掴まれたナポレオンは、途端におとなしくなり、「ミャウ~」と情けない声を出して脱力した。
「ふぅ……。手のかかる珍客だ」
管理人は額の汗を拭い、腰にぶら下げていた無線機風スマホを手にした。
「こちら『レジデンス・アルゴス』管理人。敷地内にて特定動物と思われる猛獣を確保。至急、警察官と保護ゲージを頼む。……ああ、それと不法侵入者も一名いる。逮捕してくれ」
彼は、へたり込んでいるルミコに鋭い視線を向けた。
「そうだよな。逃げられると思うなよ」




