第39話 解き放たれた本能
一方、レジデンス・アルゴス、一〇三号室。
カチャリ
無機質な機械音が、お留守番をするナポレオンのすぐそばで微かに響いた。
リビングの掃き出し窓。
そこに設置されたスマートロックが、音を立てて解錠され窓が少し開けられた。
さらに、下げられていた雨戸の電動シャッターがウィーンと低いモーター音を立て、下から三十センチほど持ち上がった。
破壊した給餌器の残骸の中で、フスフスと荒い息を吐いていたナポレオンが、その音に反応して耳を立てた。
シャッターと窓の隙間から、新鮮な外の空気が流れ込んでくる。
風の匂い。
小鳥のさえずり。
車の走行音。
完全防音の密室で育ったナポレオンにとって、それは未知なる世界からの誘惑だった。
空腹のイライラも相まって、彼の好奇心は一点に集中する。
ナポレオンは給餌器の残骸を蹴り飛ばし、窓へと歩み寄った。
鼻を隙間に押し当て、クンクンと匂いを嗅ぐ。
外に出たい。
この狭い檻から出て、もっと広い世界で獲物を探したい。冒険が待ち受けている。
本能がそう囁いていた。
+++
同時刻。
マンションの裏手にある専用庭のフェンスの外に、人影があった。
恋人のルミコである。
昨夜、伊豆崎の家を突き止めた彼女は、今日は非番を利用して完全に臨戦態勢に入っていた。
動きやすいパンツスーツにスニーカー。長い髪は後ろで束ねている。
その表情は、空中ブランコで飛ぶ直前のような集中力と、修羅の如き決意に満ちていた。
「……いるわね」
ルミコは一〇三号室の窓を睨みつけた。
雨戸のシャッターがほぼ閉まっているが、気配は感じる。
伊豆崎は仕事に行っているはずだ。
ならば、今部屋にいるのは「私以外の女」か「隠し子」に違いない。
「今日こそ、白黒つけてやる」
完全に理性を失い妄想に取り憑かれている。
インターホンを押しても居留守を使われるのは目に見えている。
ならば、直接乗り込むしかない。
彼女は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、軽やかな身のこなしでフェンスに足をかけた。
サーカスで鍛えた身体能力にかかれば、一階の庭への侵入など造作もないことだ。
タンッ、と音もなく芝生に着地する。不法侵入だがおかまいなし。
専用庭を進み、窓へと近づく。
「……!?」
ルミコは目を見開いた。
電動シャッターが、少しだけ開いている。
換気だろうか?
好都合だ。これなら中の様子が伺えるかもしれない。
彼女は息を殺し、窓の下へと忍び寄った。
心臓が早鐘を打つ。
浮気相手と鉢合わせたら、何を言ってやろうか。
いや、まずは証拠写真を撮るのが先か。
様々なシミュレーションが脳内を駆け巡る。
ルミコはゴクリと唾を飲み込み、外からベランダへ近づいた。
+++
首都高速道路を走るタクシーの中。
伊豆崎は貧乏ゆすりが止まらなかった。
「運転手さん、もっと急げないか!? 倍払うから!」
「いやぁ、お客さん。そう言われても渋滞でしてねぇ」
のんびりした運転手の返答に、伊豆崎はギリギリと歯噛みする。
手元のスマホ画面には、絶望的な状況が映し出されていた。
見守りカメラの画角内で、リビングの窓が開いてしまっている。
そして、ナポレオンの姿がどこにもない。
部屋の中には、破壊された給餌器と、風に揺れるカーテンだけが残されている。
「ああっ……! 嘘だろ……!?」
伊豆崎は頭を抱えた。
窓が開いた? なぜ? オートロックのはずだ。雨戸も閉まっていたはずだ。破壊した?
そんなことより、ナポ凛だ。
あの子が外に出たらどうなる。
まだ子供とはいえ、ライオンだ。近所の犬猫とは訳が違う。もし人を襲ったら……いや、逆に車に轢かれたり、保健所に連れて行かれたりしたら……!
「私のナポ凛が……パパのベイビーが……!!」
伊豆崎の目から涙が溢れ出す。
猛獣使いとしてのキャリアも、社会的地位もどうでもいい。ただ、愛する我が子の安否だけが心配だった。
さらに、画面の端に「何か」が映り込んだのを見て、伊豆崎の血の気が引いた。
庭の方から、黒い影が窓に近づいてくる。
長い髪。パンツスーツ。
見間違えるはずがない。
「ル、ルミコ……!?」
最悪のタイミングだ。
猛獣が逃げ出しそうな窓の外に、嫉妬に狂った恋人が立っている。
これが意味することは一つ。
破滅だ。
「あああああ! ダメだ! 入るな! それ以上近づかれては全てが終わる!!」
車内で絶叫する伊豆崎に、運転手がビクッとしてバックミラーを見た。
しかし、そんな忠告が届くはずもない。
伊豆崎はただひたすらに神に祈った。ナポ凛の無事を。




