第36話 愛しきナポレオン
有明の特設テント。
超満員の観客が見守る中、ステージ上の円形ケージ内では、二頭の巨大なライオンが牙を剥いていた。
オスの「キング」と、メスの「クイーン」。ナポレオンの両親。
どちらも体重二百キロを超える、正真正銘の猛獣だ。喉の奥から響く低い唸り声だけで、最前列の客の肌を粟立たせる迫力がある。
「――シット!」
鋭い声と共に、鞭が空を裂く。
乾いた破裂音に反応し、二頭のライオンは即座に後ろ足で立ち上がり、指定された台座の上に行儀よく座った。
わあぁっ、と客席から歓声が上がる。
その中心に立つダンディ伊豆崎は、微動だにせず、サングラス越しの冷徹な瞳で猛獣たちを見下ろしていた。
右手をゆっくりと上げる。
それだけでキングが口を大きく開け、伊豆崎の頭を飲み込まんばかりの咆哮を上げる演技を見せた。
計算され尽くした恐怖と、それを支配する人間の力。
観客は伊豆崎の「絶対的な支配者」としてのカリスマ性に酔いしれている。
だが。
伊豆崎の心中は、目の前の巨大な猛獣たちとは全く別の場所にあった。
(……キング、クイーン。お前たちは素晴らしいビジネスパートナーだ)
彼は心の中で、目の前のライオンたちに語りかける。
(毛並みもいい。芸の覚えもいい。カナダ仕込みの私の命令を完璧に遂行するプロフェッショナルだ。……だがな)
伊豆崎はふと、遠い目をした。
(可愛げがないんだよ、可愛げが。デカすぎるし、ゴツすぎる。お前たちには、あの庇護欲をそそる『儚さ』が足りないんだ)
目の前の百獣の王の姿に、自宅で待つ「あの子」の面影を重ねる。
まだあどけない瞳。
よちよちと歩く姿。
ミルクの匂いがする口元。
(ああ、ナポ凛……! 会いたい。今すぐ帰って、あのもふもふのお腹に顔を埋めたい……!)
ショーのクライマックス。
火の輪くぐりを成功させ、万雷の拍手を浴びながら、伊豆崎は優雅に一礼した。
その顔は「冷徹な猛獣使い」の仮面を被っていたが、内面では「早く帰ってミルクをあげなきゃ」という焦燥感でいっぱいだった。
彼は舞台袖に下がると同時に衣装を脱ぎ捨て、誰よりも早く楽屋を飛び出した。
+++
午後九時。
『レジデンス・アルゴス』の一階共用廊下。
静まり返った廊下を、301号室に住む主婦が、愛犬のポメラニアン「ココ」を連れて散歩から帰ってきたところだった。
普段なら尻尾を振って元気に歩くココが、ある部屋の前で突然足を止めた。
「あら? どうしたのココちゃん」
主婦がリードを引くが、ココは踏ん張って動こうとしない。
場所は、一〇三号室の前だ。
最近入居してきた、あまり顔を見せない男性の部屋である。
「クゥ……クゥゥ……」
ココは小さく震えながら、一〇三号室の重厚なドアを見つめ、後ずさりをした。
その黒い瞳には、明確な「怯え」の色が浮かんでいる。
耳を伏せ、尻尾をお腹の下に巻き込み、必死に飼い主の足元に隠れようとする。
「まあ、珍しい。いつもは他のワンちゃんにも平気で吠えかかるのに」
主婦は不思議そうに首を傾げた。
彼女には何も感じ取れない。ただの静かなドアだ。
しかし、動物だけが持つ「野生の勘」は、その鉄扉の向こうに潜む、生態系ピラミッドの頂点に立つ「捕食者」の気配を敏感に察知していたのだ。
ココは、生物としての格の違いに本能的な恐怖を感じ、その場から一歩も動けなくなり、粗相をした。
主婦は仕方なくココを抱き上げ、一〇三号室の前を足早に通り過ぎていった。
その直後、廊下の角から、息を切らせた伊豆崎が姿を現したことには気づかずに。
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ガチャリ。
幾重にも施されたロックが外れ、防音ドアが開く。
伊豆崎が帰宅した瞬間、そこは世界で一番甘ったるい密室へと変貌した。
「ただいまぁ~! ナポ凛ちゃ~ん! パパでちゅよ~!」
靴も揃えずにリビングへ転がり込む。
その瞬間、黄金色の弾丸が彼のみぞおちに直撃した。
「ぐふぅっ!?」
八キロ近い体重と、助走をつけたタックル。
伊豆崎は床に大の字に倒れ込んだが、その顔はだらしなく崩れていた。
胸の上に乗っているのは、猫耳フード付きのパジャマを着たライオンの子供、ナポレオンだ。
「ガウッ! ガウガウ!」
「おお~、元気いっぱい! 寂しかったか~? よしよし、いい子いい子!」
伊豆崎はナポレオンの頭をわしゃわしゃと撫で回す。
まだ生え揃っていないたてがみの下にある、温かくて柔らかい地肌の感触。
ナポレオンは嬉しそうに喉をゴロゴロと鳴らし――それは猫のそれよりも遥かに低く、エンジンのアイドリング音のように重厚だ――伊豆崎の顎を甘噛みした。
「いたっ! あ痛っ! こらこら、甘噛みにしては力が強いでちゅよ~」
鋭さを増してきた乳歯が皮膚に食い込むが、伊豆崎にとってそれは「愛の証」でしかなかった。
彼はナポレオンを抱き上げると、赤ちゃん言葉全開で話しかける。
「さあ、お風呂に入ってサッパリちましょうね~!」
ここからは、伊豆崎にとって至福の時間であり、戦争でもある。
バスルームへ連れて行くと、ナポレオンは水を嫌がって手足をバタつかせた。
「ガウーッ!」
「暴れないの! ほら、いい湯加減でちゅよ~」
伊豆崎は濡れるのも構わず、シャツのままバスタブの縁に座り、ナポレオンにお湯をかける。
濡れたライオンの体毛は体に張り付き、意外なほど貧相に見えるのがまた愛おしい。
特製のシャンプーで泡立てると、ナポレオンは観念したのか、目を細めておとなしくなった。
「あ~、気持ちいいでちゅね~。世界一可愛いライオンちゃんでちゅね~」
泡だらけになった「百獣の王の幼体」を、伊豆崎は愛しげに見つめる。
肉球の間の汚れを丁寧に落とし、尻尾の先まで洗い上げる。この猛獣のすべてを支配し、世話をしているという全能感と、庇護欲が混ざり合い、脳内麻薬がドバドバと分泌される。
風呂上がりは、さらに大変だ。
ブルブルッ! とナポレオンが体を震わせ、水しぶきを撒き散らす。
伊豆崎は高級バスタオルでその体を包み込み、抱きしめるようにして拭いた。
「よしよし、次はドライヤーさんでちゅよー」
ゴーッという音に驚いて逃げようとするナポレオンを股に挟んで固定し、温風を当てる。
生乾きの獣臭さが、次第にシャンプーのいい匂いと、太陽のような匂いに変わっていく。
乾いた毛並みはフワフワになり、まるで最高級のぬいぐるみのようだ。
「はい、完成! ふわふわナポ凛タンの出来上がり~!」
伊豆崎は思わず、その黄金色の背中に顔をうずめて深呼吸をした。
吸っても吸っても足りない。
サーカスの団員が見たら卒倒するであろう、完全に骨抜きにされた男の姿がそこにあった。




