第35話 牙を抜かれた猛獣使い
ホテルを出てタクシーに乗り込むと、伊豆崎は深くシートに沈み込んだ。
「……ふぅ。危ないところだった」
額の汗をハンカチで拭う。
ルミコのことは愛している。それは嘘ではない。彼女の才能にも惚れ込んでいるし、将来的には身を固めてもいいと思っている。
だが、今の彼には、ルミコにも――いや、誰にも絶対に見せられない秘密があった。
「運転手さん。いつものところへ」
「へい、承知しました」
タクシーは夜の東京を走り出す。
向かう先は、高級住宅街に佇む低層マンション『レジデンス・アルゴス』。
最近引っ越したばかりの、伊豆崎の「城」だ。
なぜ、このマンションを選んだのか。
理由は単純だ。ここが「鉄壁」だからだ。
相場より安い家賃も魅力だったが、何より決め手になったのは、不動産屋が強調していた「完全防音」と「最強のセキュリティ」だった。
(あそこなら、絶対にバレない)
窓の外を流れる夜景を見つめながら、伊豆崎は口元を緩ませた。
頭の中はすでに、サーカスのことも、怒れる恋人のことも消え去っていた。
彼の思考を占拠しているのは、自宅で待つ「愛しいあの子」のことだけだ。
タクシーが停車する。
重厚な石造りの外観。エントランスに飾られた不気味なほどリアルな孔雀のオブジェ。
伊豆崎は足早にオートロックを抜け、一階の廊下を進んだ。
一〇三号室。
ここが、彼の楽園への入り口だ。
周囲に人がいないことを確認し、震える手で鍵を開ける。
カチャリ、と重たい金属音が鳴った。
防音仕様の分厚いドアを押し開け、素早く中に入り、すぐに鍵をかける。
そして、靴を脱ぎ捨ててリビングのドアを開けた瞬間。
伊豆崎の中で、何かが音を立てて崩壊した。
「ナポ凛ちゃァァァ~~~ん!!!」
先ほどまでのダンディな低音ボイスはどこへやら。
裏返った、甘ったるい赤ちゃん言葉が部屋中に響き渡る。
「パパでちゅよ~~~! 帰ってきたでちゅよ~~~! 寂しかったでちゅか~~~!?」
伊豆崎は床に膝をつき、両手を広げた。
その視線の先にいたのは、一匹の「獣」だった。
黄金色の体毛。太くたくましい前足。まだ短いが、王者の風格を漂わせる尻尾。
ライオンだ。
百獣の王、ライオンの子供が、いるはずのない一般住宅のそこにはいた。
ただし、その姿はあまりにも異様だった。
身体には、フリルのついたピンク色の「猫用パジャマ」が着せられている。
フード部分には可愛らしい猫耳がついており、ライオンの子供が猫のコスプレをしているという、倒錯した可愛らしさを放っていた。
「ガウッ!」
名前はナポレオン。通称、ナポ凛。
サーカス団で飼育していたつがいから生まれた四つ子の末っ子だ。
「こいつはスターになる」と確信した伊豆崎が、正規の手続きをねじ曲げ、虚偽の申告をしてまでこっそり連れ帰った、禁断のパートナーである。
現在、生後二ヶ月。体重は八キロ。中犬並みのサイズだが、その成長速度は犬の比ではない。
ナポレオンは、短い手足でドタドタと駆け寄ってくると、伊豆崎の胸に飛び込んだ。
「うぐっ! お、おお~、よしよし! いい子でちゅね~! パパに会いたかったんでちゅね~!」
八キロの塊が突進してきた衝撃に、伊豆崎は悶絶しながらも至福の表情を浮かべた。
ザラザラとした舌で顔を舐め回される。整髪料で固めた髪がぐしゃぐしゃになり、高そうなシャツにヨダレが染み込んでいくが、彼は全く気にしない。
むしろ、恍惚としていた。
「どうちたの? お腹空いたんでちゅか? 今、特製のミルク作るからね~! 待っててくだちゃいね~!」
伊豆崎は頬を緩ませきって、キッチンへと向かう。
その背中には、「鬼の団長」の威厳など欠片も残っていなかった。あるのはただの、ペットに依存しきった「親バカ」の裏の顔だった。
彼は知らなかった。
この「完全なプライベート空間」であるはずの部屋の天井、火災報知器の隙間から、冷ややかなレンズがその痴態を捉えていることを。
ナポレオンが、パジャマの尻尾を揺らしながら、「ガウッ」と可愛らしく吠えた。




