第32話 狂い咲く
「ふざけんな! 元に戻せ! このマザコン野郎!」
深夜のマンションの一室に、老婆の顔をした女の怒号が響き渡る。
黒浦玲子は錯乱していた。
鏡台にあった化粧瓶を掴み、力任せに投げつける。ガラスが砕け散り、化粧水が畳に染みを作った。
「痛いよ母さん! なんで怒るんだい!? その顔になりたいって言ったじゃないか!」
日矢倉亨は腕で頭を庇いながら、訳がわからないといった様子で叫んだ。
彼にとって、目の前で暴れているのは愛しい「母」であり、同時に愛する「恋人」でもあるように思い込んでしまい、妄想と現実の境界線が完全にブッ飛んでしまった。
なぜ彼女が怒り狂っているのか、彼の狂った脳内回路では理解できない。
「誰がこんなバケモノになりたいって言ったのよ! 私が言ったのは『あなたの好きな顔』よ!」
「だから! 僕が一番好きな顔は母さんの顔なんだ! 世界で一番優しくて美しい、僕だけの聖母なんだよ!」
「気色悪いこと言ってんじゃないわよッ!!」
玲子は手当たり次第に物を投げつけた。
クッション、ティッシュ箱、そして亨が大切に飾っていた母の遺影が入った写真立て。
ガシャン、という音と共に写真立てが割れる。
「ああっ! 僕たちの思い出が!」
亨が悲鳴を上げ、這いつくばって写真を拾おうとする。
その背中を、玲子は足蹴にした。
蹴り上げた足は、若く引き締まった二十代の脚だ。
だが、その上にある顔は、七十代の老婆。
首から下は艶めかしく、首から上は死相が漂うほど老いている。
それは、フランケンシュタインの怪物理想さえ目を背けるような、グロテスクなキメラの姿だった。
「返してよ……私の顔を返してよおおお!」
玲子は鏡を見ることさえできず、顔を覆って泣き崩れた。
指の隙間から触れる肌の感触は、ちりめんのように萎びている。
終わった。何もかも。
逃亡するために顔を変えようとした結果、逃げることさえ不可能な「呪われた仮面」を永遠に被せられてしまったのだ。
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亨は泣きじゃくる玲子――母の顔をした女――を抱きしめようと必死だった。
「よしよし、母さん。更年期障害かな? 大丈夫だよ、僕がお薬を出してあげるからね」
「触るな! 殺すぞ!」
「そんな乱暴な言葉、母さんらしくないよ……」
その時だった。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン!
ドンドン!
狂気じみた連打音と、ドアを激しく叩く音が静寂を切り裂いた。
亨と玲子の動きが止まる。
「管理人だ! 緊急点検です! 開けなさい!」
廊下から響く怒号。
玲子の顔色が――シワの間から見える肌の色が――蒼白に変わる。
管理人。あの、指名手配書を睨みつけていた強面だ。
「や、やだ……絶対に入れないで……」
玲子は反射的に顔を隠した。
この顔では正体がバレることはないが、今の自分の顔を他人に見られることへの羞恥。感情がぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「しっ、静かに! 居留守を使おう」
亨が小声で言い、照明を消そうとスイッチに手を伸ばした。
だが、遅かった。
「いるのは分かっているんだ! 下の階へ水漏れしているサインが出た! 緊急の立ち入り権限を行使するぞ!」
ガチャガチャと鍵穴が弄られる音がする。マスターキーだ。
「水漏れ!? そんなはずは……」
亨が狼狽えて玄関へ向かう。
チェーンロックがかかっているため、ドアは数センチしか開かない。
「開けろ! 被害が出るんだ!」
隙間から、管理人の鋭い眼光が覗いた。
「い、今取り込み中でして……妻が病気で……」
「病気だろうがなんだろうが、建物の保全が優先だ! 契約書にもそう書いてあったはずだ」
管理人は躊躇なく、革靴のつま先をドアの隙間にねじ込んだ。
そして、警察現役時代に培った突入技術で、特殊な器具を使い、内チェーンを外そうとする。
バガンッ!
チェーンロックが解除される鈍い音がして、ドアが全開になった。
「ひいっ!」
亨が尻餅をつく。
ズカズカと部屋に入り込んできた管理人は、まず鼻をつまんだ。
「なんだこの匂いは……線香?」
そして、懐中電灯の光を部屋の奥へと向けた。
光の先に浮かび上がったのは、異様な光景だった。
昭和の遺物のような茶箪笥。
散乱したクッションやガラス片。
そして、部屋の隅で布団を被り、ガタガタと震えている「誰か」。
「……そこで何をしている」
管理人は亨を睨みつけてから、布団の塊へと歩み寄った。
「あ、だ、ダメです! 母さんは人見知りで……!」
亨が管理人の足にしがみつく。
「母さんだと?」
管理人は不審げに眉を寄せた。
入居者名簿には、日矢倉亨の単身入居とある。母親と同居など聞いていない。
管理人は亨を振り払い、布団を乱暴に剥ぎ取った。




