第33話 幻想の終わり
「きゃあああああああああ!」
玲子の悲鳴が上がった。
そこにいたのは、若い女の肢体に、老婆の首が乗った奇妙な生物だった。
薄手のネグリジェからは、豊満な胸と滑らかな太ももが露わになっている。
だが、その顔は。
深く刻まれたシワ、垂れ下がった頬、そして恐怖に見開かれた濁った瞳。
「な……!?」
さすがの管理人も、一瞬言葉を失った。
妖怪か? それとも精巧なマスクか?
しかし、彼の刑事としての本能が、すぐに違和感の正体を捉えた。
テーブルの上に散らばっている資料だ。
玲子が投げつけた拍子に、クリアファイルから中身が飛び出していたのだ。
管理人はそれを拾い上げた。
『術前』と書かれた写真。
『術後イメージ(母)』と書かれた写真。
そして、カルテ。
管理人の目が、『術前』の写真に釘付けになった。
その顔は、彼がとある日の夕刊に載っていた指名手配写真の女そのものだった。
これまた警察官時代に培った記憶力。
「……こいつは」
管理人はゆっくりと顔を上げ、震える「老婆」を見た。
「結婚詐欺師の、黒浦玲子か」
玲子が息を呑む音が聞こえた。
「ち、ちが……私は……」
否定しようとするが、老婆の声帯からは若々しい声が出る。そのアンバランスさが、決定的な証拠だった。
「顔を変えたのか。……逃亡するために」
管理人の声が低く、重くなった。
「日矢倉さん。あんた、指名手配犯を匿い、あろうことか整形手術まで施して隠蔽しようとしたな」
「ち、違います! 彼女は僕の母さんです! 生まれ変わった母さんなんです!」
亨は半狂乱で叫んだ。
「母さんが帰ってきてくれたんだ! 邪魔しないでくれ!」
「戯言は署で聞いてもらえ」
管理人は腰の無線機のような大きなカバーを付けた、スマホを取り出し、慣れた手つきで110番通報した。
「……ああ、俺だ。レジデンス・アルゴスの管理人だ。……指名手配中のマル被を見つけた。至急、応援を頼む」
+++
数分後。
マンションの前に赤色灯の海が広がっていた。
深夜の住宅街に、サイレンの音がけたたましく響く。
401号室から、二人の男女が連行されていく。
「離して! 私は被害者よ! この男に無理やり顔を変えられたの!」
老婆の顔をした玲子が、二人の警官に両脇を抱えられながら叫んでいる。
ネグリジェの上に毛布をかけられているが、その足取りはふらついていた。
「戻せると言って! 嘘だと言って! こんなの私の顔じゃない!」
すれ違う捜査員たちが、彼女の顔を見てギョッとした表情をする。
その反応が、玲子に現実を突きつけていた。
彼女はもう、「清楚な美女・レイ」ではない。
「整形に失敗した哀れな老婆顔の詐欺師」として、明日には全国ニュースで晒されるのだ。
「母さん! 母さんをいじめるな!」
その後ろから、手錠をかけられた亨が引きずられてくる。
彼は玲子の方へ手を伸ばし、子供のように泣き叫んでいた。
「僕が守るから! 母さんは僕が守るからああっ!」
「うるさい! こっちに来るなこの変態!」
玲子が振り返り、亨の顔に唾を吐きかけた。
「ああっ……母さんの唾……」
亨はそれさえも甘受し、恍惚とした表情を浮かべた。
「もっと叱って! 僕を教育してくれ、ママアアアアッ!」
二人は別々のパトカーに押し込まれた。
ドアが閉まる瞬間まで、玲子の呪詛と、亨の愛の言葉が交錯していた。
それは、歪んだ愛と欲の成れの果てであり、このマンションが生み出した現代の悲喜劇だった。
+++
パトカーの列が走り去り、けたたましいサイレンの音が遠ざかっていく。
赤色灯の毒々しい光が消えると、高級住宅街には再び、深海のような静寂が舞い戻った。
主を失った401号室。
そのドアは警察による現場検証のために封鎖されたが、室内には奇妙な残骸がそのまま残されている。
最新鋭のコンクリート壁に囲まれた、昭和の和室。
砕け散った鏡台のガラス片。
床に落ちたままの、老婆の術後写真。
そして、染み付いた線香の匂いと、甘ったるい香水の残り香が、澱んだ空気の中で混ざり合っていた。
そこにあった「母と息子」の愛の巣も、「美女と金持ち」の楽園も、すべては脆い幻想に過ぎなかった。
残されたのは、原状回復という現実的な処理を待つ、空虚な箱だけだ。
深夜の風が、エントランスの自動ドアを抜け、ロビーへと吹き抜ける。
巨大な孔雀のオブジェが、その金属の羽を広げ、冷ややかに虚空を見据えていた。
その羽に埋め込まれた無数の装飾は、まるで百の目のように怪しく輝いている。
壁の裏、天井の隅、鏡の奥。
張り巡らされたセンサーの赤いLEDだけが、誰もいなくなった闇の中で、呼吸をするように明滅を続けていた。
この要塞は眠らない。
人間の愚かさを吸い上げ、その罪を養分として、次なる獲物がその門を叩くのをじっと待ち構えている。
レジデンス・アルゴス。
百眼の巨人は、今夜もまた、沈黙の中で全てを見つめていた。
第6章 完
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