第31話 蘇った亡霊
「…………は?」
声にならない声が漏れた。
そこにあったのは、玲子が夢見ていた「セレブな愛の巣」とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
コンクリート打ちっ放しだったはずのモダンな壁は、なぜか薄汚れたベージュ色の壁紙で覆われている。所々にシミがあり、カレンダーを剥がしたような跡まで再現されている。
床には、高級フローリングの上に、安っぽいゴザと畳が敷き詰められていた。
リビングの中央には、イタリア製のソファではなく、足の短いちゃぶ台。
その上には、ミカンが入ったカゴと、急須。
そして部屋の奥、一番目立つ場所には。
黒光りする、巨大な仏壇が鎮座していた。
「な、何これ……?」
玲子は混乱のあまり、立ち尽くした。
昭和のドラマセット? お化け屋敷?
窓の外の景色だけが、ここが東京の高級住宅街であることを示しているが、室内だけ時空が歪んでいる。
「素晴らしいだろう?」
亨がうっとりとした声で囁いた。
「苦労したんだよ。実家の家具をそのまま運び込んで、壁紙もあの頃と同じものを取り寄せて……。ほら、あそこを見て」
亨が指差した先には、柱に古びた傷があった。
「僕が子供の頃につけた背比べの傷も、大工に頼んで再現してもらったんだ」
狂気。
玲子の背筋が凍りついた。
この男、頭がおかしい。ただの医者ではない。何かに囚われた亡霊だ。
だが、玲子は必死に自分を落ち着かせた。
(落ち着け。インテリアの趣味が最悪なだけよ。金さえあれば、こんなゴミ家具、後で全部捨ててリフォームし直せばいい)
重要なのは、私の顔だ。
新しい顔さえ手に入れば、この気味の悪い部屋から逃げ出すことだってできる。
「す、すごいこだわりね……。でも、亨さん。私、早く顔が見たいわ」
玲子は話題を変えた。
「そうだったね。さあ、こちらへ」
亨は玲子の手を取り、寝室へと案内した。
そこにもまた、ダブルベッドではなく、煎餅布団が二組並べられていた。
そして部屋の隅には、古めかしい三面鏡の鏡台が置かれている。
表面のニスが剥げかけ、鏡の縁が少し曇った、年代物の鏡台だ。
「ここに座って」
玲子は言われるままに、鏡台の前の丸椅子に座った。
三面の鏡に、包帯姿の自分が映る。
「いよいよだね、レイさん。……いや、もう『レイ』という君の名前で呼ぶのはよそう」
亨が背後に立ち、玲子の肩に手を置いた。
鏡越しに目が合う。
亨の瞳は、異様なほど潤み、期待に打ち震えていた。
「君は生まれ変わるんだ。世界で一番美しく、気高く、僕を愛してくれる女性に」
亨の手が、包帯の留め具にかかる。
シュル、という小さな音と共に、包帯が緩む。
玲子の心臓が早鐘を打つ。
一層、また一層と、ガーゼが剥がされていく。
外気に触れた肌が、ひやりとした。
まだ浮腫みは残っているだろうか。でも、きっと美しいはずだ。亨が「完璧」だと言ったのだから。
最後のガーゼが、目元から外された。
「…………あ」
玲子は、鏡の中の自分を見た。
思考が停止した。
息が止まった。
鏡に映っていたのは、二十代の美女ではなかった。
目尻に深く刻まれた、カラスの足跡のようなシワ。
重力に負けたように作られた、垂れ下がった瞼。
頬はげっそりとこけ、口元には深いほうれい線が刻まれている。
肌全体には、無数の老人性色素斑が、まるで星空のように散りばめられていた。
それは、どう見ても。
七十代の、老婆の顔だった。
「……………………は?」
玲子は震える手で、自分の頬に触れた。
指先に伝わるのは、若々しいハリではなく、たるんだ皮膚の感触。
特殊メイク? ドッキリ?
いいえ、違う。これは私の皮膚だ。痛みも、感覚もある。
「なんで……なに、これ……」
混乱する玲子の背後で、亨が感極まった声を上げ、抱きついてきた。
彼は老婆の顔になった玲子の髪に顔を埋め、むせび泣いた。
「ああ……完璧だ……!」
亨は鏡の中の「老婆」を見つめ、恍惚の表情で呼びかけた。
「お帰りなさい、母さん。……また会えたね」
その言葉が、玲子の脳髄に突き刺さった。
母さん。
母さん?
墓地で泣いていた男。
「一番好きな顔」にしてくれと言った私。
「元の生活に戻れる」と言った彼。
再現された実家のリビング。
線香の匂い。
すべてのピースが、最悪の形で噛み合った。
「いや……」
玲子の喉から、引きつった悲鳴が漏れ出す。
こいつは、私を整形して美しくしたんじゃない。
死んだ母親の顔を、私の顔面に再現したんだ。
私は、こいつの母親のデスマスクにされたんだ。
「いやああああああああああああああああッ!!!!」
401号室に、玲子の絶叫が響き渡った。
それは、かつて数多の男を騙し、嘲笑ってきた女が、初めて味わう「真の恐怖」の叫びだった。
「どうしたの? 母さん。どこか痛むのかい?」
亨は心配そうに覗き込んでくる。その目は純粋で、狂気一色に染まっていた。
「大丈夫だよ。僕がずっとそばにいる。もう二度と、死なせたりしないからね」
鏡の中の老婆が、恐怖に顔を歪めて叫んでいる。
それは玲子自身の顔でありながら、もう二度と取り戻せない「自分」の成れの果てだった。
その様子を、天井の隅にある火災報知器の赤いランプが、静かに見下ろしていた。




